黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

長崎さるく #35 伊王島

2009-07-28 04:55:48 | 長崎さるく
前回までの記事で伊王島の天主堂と炭鉱跡をアップしたので、
今日は伊王島の町を少しアップしようと思います。



伊王島町は外海側の伊王島と内海側の沖ノ島の、
隣接する二つの島からなる町だということは既にお伝えしましたが、
確かに狭いながら2つの島の間には水流があって、
一カ所も繋がった場所はありません。
その水流の途中に小さな恵比寿像があります。→Mapion
画像は極めて干潮の時なので土台よりはるか下まで見えますが、
満潮になると、奥に写る「竜宮」の赤い鳥居も、
下部は水にかくれ、水中鳥居のようになるんではないでしょうか。



懐かしい郵便ポスト。→Mapion
伊王島の島内の雰囲気は、隣の高島の良く似た印象です。
隣の島なので、当然と言えば当然なのかもしれませんが、
特に港付近の雰囲気はとても良く似ています。



両島ともかつて炭鉱で栄え、
閉山後、炭鉱の島だった事を払拭すべく殆どの施設を解体し、
リゾート島としての開発に力を入れて、
観光島としての再生をはかった経緯があります。




しかし伊王島と高島では、決定的な違いがあります。
なんと言っても伊王島には、
内海側の大規模な土地を使って造られたやすらぎ伊王島があり、
海沿いに造られたコテージの客室や各種温泉を完備した施設は、
地方からの遊山客の誘致に圧倒的な説得力を持つと思います。



更に、伊王島から最も近い陸地にあたる香焼との連絡橋、
伊王島大橋の建設が着々と進んでいます。→Mapion
再来年ぐらいには完成の予定だそうですが、
橋の完成によって、確かに車では行きやすくなると思います。
前回の記事でアップした断念続きの炭鉱探索も、
次回は橋が完成したら再度行ってみようと思いっています。
しかし、時間のかかる炭鉱探索にはそれもいいかもしれませんが、
世間との隔絶感も大事な要素のリゾート地にとっては、
船でしか行けない、ということもプラスの要素。
橋が出来る事によって、離島のリゾートアイランドというイメージはなくなり、
遊山客の減少も懸念されます。

また、橋の完成によって、
現在長崎港から出港している伊王島-高島航路の便数が激減し、
高島の過疎化にいっそう拍車がかかることも予想されます。
海の奇麗さでいったら伊王島よりも奇麗な高島。
高島の話になったので、
次回からは高島をアップしようと思います。

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長崎さるく #34 伊王島炭鉱跡

2009-07-27 06:40:04 | 長崎さるく
長崎県の長崎港から南西約10kmの距離にある伊王島。
今では癒しの湯を中心に、リゾート観光の島として知られますが、
かつて炭鉱で賑わった島だったことはあまり知られていません。

安政五年 (1858)に、
長崎海軍伝習所の教官が炭鉱の様子を報告していることからも、
伊王島炭鉱の開発は、県内の他炭鉱同様、
すでに江戸時代に行われていたことがわかります。

その後個人経営の時代経て、
昭和16年 (1941) に長崎鉱業が本格的に開坑、
昭和29年 (1954) に閉山時の経営だった日鉄鉱業が吸収、
7,000人以上の従業員とともに炭鉱景気を迎えるものの、
昭和47年 (1972) に閉山。

電力や水を全て炭鉱施設に頼っていたため、
炭鉱閉山時には街の存続も危ぶまれる状態だったそうですが、
近年では楽園計画が成功し、
関西や関東からのリゾート観光客で、
賑わいを取り戻しているようです。



現在では炭鉱施設は殆ど残っていません。
前回アップした沖ノ島天主堂へ行く海岸の道沿いに、
かろうじていくつかの痕跡が確認できるばかりです。
一見がけ崩れ防止用の壅壁の様に見えるのが、
かつての選炭場の基礎だそうです。
たまたま通りかかった方に炭鉱の事を訪ねてみると、
偶然にも元炭鉱マンの方だったので、
いろいろお話を伺う事ができました。



画像に写る階段は、選炭場のすぐそばにあり、
職員専用風呂場のための階段だったそうです。
元炭鉱マンの方は熱心にいろいろと教えてくれて、
隣接する林の中にある、ボタコンベアの基礎まで案内して頂きましたが、
殆ど確認できず、さらに暗かったので、画像はなしですm(_ _)m



選炭場跡や風呂場跡の目の前の道を挟んで海側には、
すでに使われなくなった炭鉱時代の港「築港」があります。→Mapion
お話を伺った方の話だと、
ここが石炭の船積み桟橋の場所だったという事ですが、
前回の記事でもアップした松竹映画『家族』の、
冒頭シーンに登場する操業時の様子を見ると、
この港に隣接する平場から接岸する船に積み込んでいたようです。
それにしてもこの画像では港の状況が全然分からないので、
高台から見てみる事にしました。



高台から眺めると港の形がよくわかります。
港の右側の平地にはかつて球場があり、
盛んに練習が行われていたようです。
野球のことは全然しらないのですが、
日鉄って有名な球団だったそうですね。
元炭鉱マンのかたから伺いました。



せっかく高台に登ったので、
選炭場の上部も見てみようと薮の中へ入るものの、
うっそうと茂る木々に阻まれて断念。
木々に埋もれる当時の施設の痕跡らしきものを見ただけ(T.T)



炭鉱マンの方から、さらにその上には
職員の住宅もあったと伺ったので、付近を見回してみると、
道沿いにひっそりと佇む石段を発見。



早速登ってみるものの、
またまたうっそうと茂る木々に阻まれ、
少なくとも視認できる範囲ではなにも見当たらなかったので、
またまた断念(T.T)



とりあえず職員住宅があったといわれる小高い丘の反対側へ行ってみると、
無用に放置された空き地があるものの、
伊王島炭鉱の坑外施設の見取図などが全くないので、
きっと炭鉱関連の施設があった場所だろうと想像しながらも、
なんだかわからず(T.T)

船着場の近くにあったレンタサイクルのお店の横に、
古そうな手書きの島内案内板があり、
そこには「坑口」の文字が書いてありました。
しかし店の人に行き方を尋ねてもすでに薮の中だそうで、
船が出るまでの残りの時間を、
地図に書かれていた場所にめぼしをつけ探索するも、
結局なにも発見できず(T.T)

ちなみに映画『家族』には、ほんの一瞬ですが、
炭車に乗って入坑するシーンが登場します。

さていろいろ教えて頂いた元炭鉱マンの方ですが、
お話を伺った後、沖ノ島天主堂の6時のミサへ行かれるということでした。
映画『家族』に登場する主人公の家族も、
炭鉱マンでありながらカトリックの信者という設定ですが、
島民の60パーセントが信者というのも、
妙に納得してしまいました。

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長崎さるく #33 馬込教会聖ミカエル天主堂

2009-07-26 04:43:23 | 長崎さるく
ここしばらく長崎の教会堂をアップしてきましたが、
今日は市内は市内ですが離島の教会堂です。
長崎港から約10KMの海上に浮かぶ伊王島Mapionにある、
馬込教会聖ミカエル天主堂、別名沖ノ島天主堂です。



Mapionをこのサイズでご覧になるとおわかりかと思いますが、
外海側の伊王島と隣接する内海側の沖ノ島の、
2つの島をあわせて伊王島町で、
天主堂はその別名の通り、内海側の沖ノ島にあります。
伊王島の港に発着する高速船を降り、海岸沿いにひたすら進むと、
やがて高台の上に聳える天主堂が見えてきます。→Mapion詳細地図



昭和初期の幾度かの大型台風により崩壊した初代の聖堂にかわって、
昭和6年 (1931) に建て替えられた現在の聖堂は、
対災害、耐震を考慮された鉄筋コンクリート造ですが、
約80年も経っているとは思えないほど、その外観は奇麗です。

コンクリートを厚めに使用しているため、
全体的にぼってりとした感じのゴシック建築は、
ゴシックという言葉の持つ近寄りがたいニュアンスとは違って、
とても親しみの持てる印象です。

尖塔の上に乗る三つ葉のクローバーの十字架の、
葉の部分がとても大きく作られているのが、かわいいですね。



正面入口の横に立つマリア像のお顔は、
けっこう希望に満ちた感じを受け、
同じマリア像でも、教会ごとに個性があるのを感じます。





ステンドグラスも抽象的な図柄で、
これまでアップしてきた教会堂のステンドグラスとは、
また一線を画しています。




天主堂の横から裏手へ回ると、
明治時代の創建当時に造られたんではないかと思える、
味のある階段があったので、登ってみました。



高台に登ると、天主堂の上層部が目の前に現れます。
天主堂越しに長崎の海が見渡せ、抜群の眺望です。

島民の約60パーセントがカトリック信者という数字は、
行政区域では国内で最も信者率が高いそうです。
1970年に公開された山田洋次監督の松竹映画『家族』には、
当時の天主堂が記録されています。
カトリック信者だった炭鉱マンの家族が島を離れ、
北海道まで行く道中を通して、
家族とは何かをといかける作品ですが、
おそらく山田洋次監督も、
これだけカトリック信者がいる離島に、
興味を持ったんではないかと思います。

ところで「炭鉱マン」という話がでたので、
次回は伊王島の炭鉱についてアップしようと思います。

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長崎さるく #32 二十六聖人/中町教会

2009-07-25 05:08:17 | 長崎さるく
すでに過去の記事で何度かお伝えしてきた、
「二十六聖人の殉教」ですが、その殉教の地は、
JR長崎駅からほど近い小高い丘を登ったところにあります。



ザビエルによって伝来されたキリスト教の信者が、
時の権力者によって処刑された最初の事件ということで、
日本のキリスト教の歴史にその名を留めますが、
殉教の地には二十六人の姿をレリーフにした銅板があります。
全員足が宙に浮いている構図で作られているのは、
おそらく天へ昇るイメージかとも思いますが、
腰を若干前へつきだしたポーズからは、
足の力が極端に脱力している印象を受け、
斜め上を見上げる悲哀とも絶望とも、
またまた慈悲とも空虚ともとれる眼差しと共に、
一度見たら忘れられない強烈なインパクトを与えてきます。



記念碑の横に建つ建物が、通称西坂教会、
正式には「日本二十六聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会」で、
大浦天主堂同様、二十六聖人へ捧げられた聖堂です。
ガウディの研究者である今井兼次氏が、
サグラダ・ファミリア教会を意識して設計したそうですが、
本家の馬鹿がつくほどの壮麗さには足下も及ばないながら、
その奇抜なデザインは印象に残ります。





どの教会も、聖堂内は基本的に撮影禁止なので、
これまでアップしてきた聖堂の内部の画像はありませんが、
二十六聖人の殉教地からほど近い中町教会は、
一応撮影禁止の掲示がなかったので撮影してしまいました。
聖堂内も紹介できればと思います。



中町教会でひときわ目を惹くのは、
キリストの誕生から最後の晩餐、
そして磷付からから復活までのストーリーをモチーフにした、
半円形のステンドグラスです。
これは美しい!



聖堂内は両壁面のステンドグラスから入る、
柔らかい光に包まれて、いやでも荘厳な雰囲気を醸し出しています。





ところで長崎の市内を歩いていると、
こんな教会にも出会いました。



「日本キリスト教団長崎銀屋町教会」通称「長崎教会」
オフィシャル・サイトを見ると、
長崎で一番歴史の古い教会、とあります。
全然知りませーん。





これまでアップしてきた教会は全て、
ローマ教皇庁と直結した教会なのに比べて、
この教会は「日本キリスト教団」という教団の
教会だったのですね。

タイルで作ったクロス、長板張りの味のある壁面など、
よく見ると、これまで見てきた教会とは違って、
素朴な魅力を感じたりもします。

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長崎さるく #31 長崎のキリスト教関連施設

2009-07-23 06:02:30 | 長崎さるく
前回の記事で大浦天主堂をアップしたので、
今日はその関連施設です。



天主堂のすぐ隣に建つ旧大司教館。
元来天主堂より早く建設された大司教館は、
老朽化により1914年に
ド・ロ神父の設計、鉄川与助の施工で建てられたものだそうです。
この2人とも、これまた長崎の教会を語る上では、
絶対にはずせない重要な2人ですね。
それにしてもこの建物は素晴らしく思います。
煉瓦の壁にライトブルーの日よけ、そして屋根は瓦。
バランスも抜群で、個人的には長崎の建築物で、
1、2の美しさだと思っています。



そしてその奥に建つ旧羅典神学校。
再び登場する長崎の「初もの」は、国内初の木骨煉瓦造りの建物です。
煉瓦の上に塗られた白壁とグレーの瓦屋根だけを見ると、
由緒ある倉などの日本建築にも共通する感じですが、
窓枠などに目をやると、ヨーロッパの香りが強烈にします。



キリストの解禁後建設されたラテン神学のための施設ですが、
やはり旧大司教館同様ド・ロ神父の手によるものだそうです。
反対側の面にはテラスも作られていますが、
どの角度からも道が狭く、
なかなか全貌をカメラで捉えられないのが残念です。



美しい弧を描く木製階段や、
階段の裏側の細かな装飾、そして鉄製の手すりなど、
内部の造りも隅々まで気が配られているのが分かります。

最近アップしてきた浦上天主堂や大浦天主堂、
そしてこの旧羅典神学校も含めて、
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、
2007年に世界遺産の暫定リストに入りましたが、
こうして一つ一つをみていくと、世界遺産かどうかは別にしても、
日本の歴史にとっては、
とても意味深い建物だということが分かってきました。




中庭にはこんな施設が残されています。
これには何の解説もありませんが、
当時の水場の跡でしょうか。
すぐ隣には塞がれた何らかの煉瓦作りの横穴跡もあり、
これらはちょっと気になります。

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長崎さるく #30 大浦天主堂

2009-07-22 02:55:16 | 長崎さるく
前回の記事で浦上天主堂をアップしたので、
今日からは長崎の教会をアップしようと思います。



長崎の教会といえばやはり国宝:大浦天主堂ですね。
創建当時の姿は殆どとどめていないながら、
一応国内で現存最古のキリスト教建築物であり、
同時に国宝唯一の洋風建築だそうです。
画像は最近の大浦天主堂の正面ですが、
6年くらい前に訪れた時は正面のヤシの木が、
対で2本立っていました。(画像クリックで表示)
また6年前と比べると、壁面もだいぶ汚れた印象です。



創建当時は「フランス寺」とも呼ばれ、
沢山の観光客で賑わったそうですが、
正式には「日本二十六聖殉教者天主堂」。
二十六聖の殉教とは、豊臣秀吉の命令によって
26人のカトリック信徒が長崎で処刑された事件のこと。
その26聖人に捧げらた教会です。



そしてこの聖堂の最も重要な伝説が1865年の信徒発見。
豊臣秀吉から徳川家康の時代の長きにわたって、
弾圧を受けながらも信仰を守り続けた浦上のかくれキリシタン達が、
この聖堂で告白したことによって、
日本にキリスト教が消えていなかったことがわかった出来事。



入口正面に立つ白い奇麗な聖母像は、
かくれキリシタンの発見を記念してフランスから贈られた、
「日本之聖母像」
長崎の教会堂の正面には聖母像が立てられたものが多く、
これまで見た来た聖母像はかわいい印象のお姿が多いなか、
この聖母像はとても奇麗な印象を受けます。



全世界に布教活動をし、そのどの地域でも、
幾多の弾圧の歴史を乗り越えて根づいていたキリスト教の底力を、
ここでも痛感します。

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長崎さるく #29 浦上天主堂

2009-07-21 04:09:45 | 長崎さるく
前回爆心地に残る側壁をアップしたので、
その流れで現在の浦上天主堂です。



長崎には、その弾圧の歴史とともに、
国内の三つの大司教区の一つだけあって、
様々な教会があります。

世界にはケルン大聖堂やノートルダム大聖堂など、
双塔型の聖堂は沢山ありますが、
長崎の教会は主に中央に鐘楼を設けた造りのものが多い中、
数少ない双塔型の教会。



聖堂の前には被爆像が安置されています。
訪れたのが遅かったため、聖堂内は見学できませんでしたが、
浦上天主堂には被爆マリアの伝承もあります。





ステンドグラスにも、被爆の光景が描かれたものがあり、
平和の祈りを捧げる天主堂であることがよく伝わっています。






しかし、
広島の惨禍を原爆ドームという形で残した結果、
視覚的な訴求力が強いのに比べ、
それ以上に惨禍を伝えていただろう浦上天主堂の廃墟は、
解体され再建されています。
そこには単なる産業奨励館だった原爆ドームとは違い、
原爆以上に深く大切な歴史を持つ聖堂だったことが、
大きくかかわっているようです。
原爆のモニュメントすら残さない、
長崎のキリスト教の歴史の深さを改めて実感します。



天主堂の敷地の前には、
十字架と鐘をあしらった本尾橋がありました。

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長崎さるく #28 平和公園

2009-07-20 06:54:26 | 長崎さるく
シリーズでお送りしている長崎さるく。
丸山花街から出島/グラバー園、そして孔子廟とアップしてきましたが、
今日はもうひとつの顔、平和公園です。



あまりにも有名な平和祈念像。
その無骨なルックスからあまり好感を持っていなかった像ですが、
実際に目の前で観ると、圧倒的な説得力があり、
なぜ無骨なのかも、目の前でみると納得します。




公園内には、原爆で一瞬にして消滅したであろう、
長崎刑務所浦上刑務支所の基礎が残されています。
もちろん職員から受刑者はすべて即死。

刑務支所の基礎の横には、とても奇麗な乙女の像があります。
そのほかにも公園内には沢山の平和の祈りの像があり、
また沢山の千羽鶴や平和祈願の短冊、そして花束があります。
広島は行ったことがないのでわかりませんが、
他の地のそれとは桁違いの、強烈な平和祈願の力が、
公園の至る所から感じられます。



平和を願う、とはどういうことかとよく思います。
おそらく人は平和に生きられない生き物だから、
あえて「平和」という言葉を作りだし、
それを守ろうとするんじゃないでしょうか。

人間の数千年の歴史は、いわば戦争の繰り返しで、
殺戮が行われなかった戦争などないはずですが、
時間が経つことによって殺戮の側面は風化し、
美談化した戦争も少なくありません。

話はすごく飛びますが、アニメやゲームには、
戦闘によって勝ち抜くテーマのものが沢山あります。
平和に生きられない、というより、戦闘が好きなんですね。



爆心地の近くには、当時の遺品が埋没した地層も残されています。
世界平和の時代だから、こうして感銘を受け、
二度と繰り返さない様に、と言えますが、
じゃあ今宇宙から来た生物が、
侵略的な来方だったらどうするかな?と思います。
攻撃され続けても、武器を持たずに握手しようとするかと思います。
やはり攻撃するんじゃないでしょうか。
そして何百年か経って友好関係を結んだとき、
初めて平和は大事だ、と言うんじゃないでしょうか。



爆心地の近くに崩壊した浦上天主堂の側面が移築されています。
その横の解説版に
「二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って」
とかいてありますが、
「繰り返されない」ではなく「繰り返さない」
じゃないかと思いました。
言葉遣いの問題ですが、受け身な印象を受けます。
この意識がある限り、
また繰り返す可能性は否めないかと。

長崎に限らず広島も、そしてそれ以外の沢山の、
戦争で亡くなられた方々のご冥福を、お祈りいたします。

                   合掌。

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長崎さるく #27 孔子廟

2009-07-18 05:41:43 | 長崎さるく
丸山花街跡、そして出島とグラバー園と、
「和」と「洋」を観てきた長崎さるくですが、
今日は「唐」の代表、孔子廟です。
すでに以前の記事で唐人屋敷跡やいくつかの唐寺をアップし、
長崎は実はヨーロッパよりも、
中国の影響の方が多いことはお伝えしましたが、
その頂点がこの孔子廟だと思います。



みてください、どこから観ても中国ですね。
紅を基調にした極彩色の塗装、黄色い屋根瓦、
その上に乗る繊細な技巧を凝らした龍、
どこを観ても圧巻です!

ところでこの画像は極めて正面から撮影しましたが、
奥の大成殿の入口が少し右にずれているのがおわかりかと思います。
以前の記事にアップした唐寺の崇福寺にも、
よく見ると少し右にずらした造りがありましたが、
これって何か意味があるんでしょうか?



孔子像が鎮座する大成殿も驚きです。
周囲は真っ白い石(大理石でしょうか)に囲まれていますが、
石像から柱など全てに意味があるようです。





回廊に囲まれた中庭には、孔子の弟子の72賢人の、
等身大彫像がずら~りと並んでいて、これまた圧巻。






最初の画像は「儀門」という門だそうですが、
その門のなかにいる狛犬もなんか凄いです。






回廊の屋根の一部分の装飾も、この凝りようです。







孔子様にお参りするころはもうお腹一杯でへとへとです。

孔子廟に関しては、気合いの入ったオフィシャル・サイトがあるので、
そちらをご覧下さい。

こうやって出島からグラバー園、そして孔子廟と観てくると、
長崎は実物大の東武ワールドスクウェアに見えてきます。

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長崎さるく #26 グラバー園

2009-07-17 01:32:28 | 長崎さるく
まだまだ続く長崎さるくです。
今日はグラバー園。
これもまた出島と同じ位有名なスポットなので、
全部取り上げていてはきりがありません。
なので気になるポイントだけピックアップ。



長崎港が一望できる、
最高のロケーションに建てられたグラバー邸は、
瓦屋根が乗った国内初の木造洋館。
それにしても長崎には「国内初」の多さに驚かされますが、
そのうちの重要なもの、例えば、
国内初の蒸気機関車 (アイアンデューク)、
国内初の洋式炭鉱技術 (高島炭鉱)、
国内初の西洋式ドッグ (小菅修船場)、
そして国内初のビール (キリンビール) など、
全てこのグラバーさんの息がかかっているのも驚きです。



グラバーさんの奥さんだったツルさんを、
モデルにしたと言われるオペラ『蝶々夫人』にちなんで、
園内にはプッチーニの彫像が飾られています。
園内でもこの付近は緑が深く、一番いい雰囲気なんですが、
その木陰を見てみると…



国内初のアスファルト舗装道路があります。
またまた出ました!国内初。
これはグラバーさんの息子、
富三郎さんが作ったものだそうですが、
その付近には石造りのローラーが安置され、
これまた国内初のテニスコートの名残だそうです。



グラバー邸の邸内には、
幕末の志士をかくまう隠し部屋や、
キリンビールのマークのモデルとなった獅子像など
いろいろあるのですが、それはさておき、
150年前の開国当時の西洋料理を再現した食堂があります。
さすが食玩の国ですね。
鹿の股肉の丸焼きや鴨肉丸煮、
猪の塩胡麻焼きや伊勢エビのスープなど、
野菜が不足しがちなメニューだったようですね。



そしてそれらの料理を作っていたと思われるのがこの厨房ですが、

なんと床が蒟蒻煉瓦じゃないですかぁ!

しかも平並べではなく立てて敷き詰めてあるので、
まるで壁を倒して床にした様に見えます。
もっとも蒟蒻煉瓦は薄いので、平置きにすると脆いため、
床材として使う場合はこうやって使うのが
普通だったのかもしれませんね。

至れ利尽くせりのグラバー園でした。

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長崎さるく #25 出島2

2009-07-16 04:52:26 | 長崎さるく
前回に引き続き出島です。
今回もあまたある出島の品々から、
特に気になったものをピックアップです。



最近再現が完成した、
出島で最も大きかったと言われる商館長のカピタン部屋。
何がびっくりって、全室畳!
ちゃんと靴を脱いであがっていたようです。
開国をせまった当時のヨーロッパ人の多くが、
開国によって日本独自の文化が失われるのを憂慮した、
と聞いたことがありますが、
当時、ヨーロッパの人々にとって日本文化は、
大事にすべきものだと感じたんじゃないでしょうか。



パリ国立図書館蔵の絵図をもとに再現された、カピタン橋と葡萄棚。
池の水は周囲の菜園等への水まきに使われたようですが、
その絵図を見ると、水撒きに使われている器具が、
以前の記事で触れた「竜吐水」のような形をしているので、
「竜吐水」は消火だけでなく水撒き等にも使われていたのか
と思いました。



敷地内に再現されている石塀も、
かなりいい具合に作り込まれています。






昭和の中期に浦上川の河口から引き上げられた大砲。
なぜ河口にあったのかは不明だそうですが、
当時オランダ商船はけっこう座礁していたようです。
ここにもオランダ東インド会社のマーク、
「VCO」が刻まれています。




ところで出島のすぐ横には、
現役で国内最古の道路鉄橋「出島橋」がかかっています。
これも以前の記事でその全貌はアップしましたが、
鉄橋の上にある名板を見ると『橋嶋出』とあり、
アルファベットで「DESHIMA-BASHI」と書いてあります。
出島(でじま)って本当は「でしま」だったんでしょうか。

そういえば長崎の発音は濁点がなくなる傾向を感じます。
例えば人名で「山崎」は「やまざき」が一般的だと思いますが、
長崎で山崎とかく名字の方は「やまさき」だそうです。
浦上も「うらかみ」、
ちょっとマイナーな地名ですが「左底」と書いて、
「さそこ」と読むそうです。
これら全て関東だったら濁点付き発音になると思います。

あれっ、これってもしかしたら長崎じゃなくって、
関東と関西の違いかな(汗)

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長崎さるく #24 出島1

2009-07-15 01:51:25 | 長崎さるく
長崎さるく、まだまだ続きますよ~。
今日は有名な出島です。
近年復元が進んでテーマパークのようになったようですが、
ながらく放置されその存在すら確認できない状態だったようです。
80年代の後半から復元作業が行われ、
2010年をめどに甦らせる予定だそうです。
出島に関しては長崎市のサイト『甦る出島
などをご覧頂ければと思いますが、
ここでは気になったものだけピックアップ。




キリスト教が禁止になるまで、
長崎の市内には沢山の教会が作られたようですが、
そこからは、
十時紋をあしらった瓦がよく出土するようです。
ただし出島から出土したこれらの花十字の瓦に関しては、
今後の歴史的解明が待たれているようです。
上手に瓦のデザインに取り込んでますね。



簪はほとんどが清朝時代の中国のガラス製で、
不透明な生地に赤や青で花絵が焼き付けられています。
一部欠損しているのか、
簪にしてはちょっと貧弱にも見えますが、
当時はこういった無骨な簪だったのかもしれませんね。



世界で最初の株式会社と言われる、
オランダ東インド会社の社章「VCO」をあしらった、
呉須が奇麗な有田焼の皿。
当時、有田の窯元はオランダ東インド会社から発注を受け、
沢山のアルファベット入り陶器を製造したそうです。




商館長の護身用と思われるピストルだそうですが、
弾倉には弾がこめられたままの状態だそうです。






一般的にはしっくいと呼ばれる、
天川による何らかの作業所の施設跡。
天川といって真っ先に思い出すのは軍艦島の壅壁ですが、
軍艦島に限らず、こうして長崎の各地で使われていたんですね。
軍艦島の天川はかなり赤い色をしていますが、
この遺構の天川は赤くないように見えます。
赤い部分が覆われてしまっているのか、
それとも、本来あまり赤くない天川もあるのでしょうか。

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長崎さるく #23 戸町遊郭跡

2009-07-14 03:01:42 | 長崎さるく
前回、そして以前にも丸山遊郭の話をアップしてきましたが、
長崎にかつて丸山以外にも大浦出雲町、稲佐町、そして戸町と、
いくつもの遊郭があったようです。
今日はそのうちの一つ、戸町遊郭跡です。



細長い長崎港のほぼ中腹、
以前にアップした小菅修船場跡から南に広がる丸くはみだしたような岬の一帯です。
Mapion
湾に面して小規模な造船工場が立ち並び、
最近では高台に大規模な高層マンションが建設されたようですが、
この地に、明治の初頭から戦前まで栄えた遊郭があったそうです。



現在もその名残をとどめる木造三層の楼閣跡。
このあたり→Mapion
石炭景気の時には高島そして端島の炭鉱マンも、
通ったと聞きました。





玄関はアルミサッシュに変えられてしまってますが、
いわゆる「張見世(はりみせ)」の細い格子木は今も健在です。
一部切り取って郵便受けにしているようですね。





上記の建物の左側はすっぱりと切り取られトタンばりで、
現在ではその隣に駐車場がありますが、
駐車場のさらに左には、また切り口をトタンで覆った、
大きな木造の建物が残っています。
この建物もその造りから見て、
どうみても一般家屋ではありませんね。



遊郭跡のすぐ近くには、
当時からあったと言われる理髪店も残っています。
「調髪館」という表現も今となっては新鮮で、
右書き文字の看板が涙を誘います。





これまでの建物は戸町の南寄りのエリアですが、
小菅修船場跡のすぐ近くにも、趣のある建物が残っています。
このお宅かな→Mapion
このお宅は相当古いですね!しかも殆ど改装していません。
2階の低さがこれまた涙を誘います。
草むしりをされているのがこのお宅の方でしょうか。
もちろん生活にはとても不便だとも思いますが、
ぜひ残して頂きたいと思います。

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長崎さるく #22 花月

2009-07-13 01:42:29 | 長崎さるく
以前の記事で触れた丸山花街に残る史跡料亭「花月」。
その時は祝いの日で貸し切りだったため食事は出来ませんでしたが、
その後予約が取れたので食べに行きました。



龍馬の刀傷で有名な大広間とかもあるようですが、
通されたのは一番奥の小部屋で、貸し切りでした。
外の日差しが強ければ強いほど、
室内が暗く感じる日本家屋の採光をうまくつかった、
心地いい部屋です。
最初に「御鰭(おひれ)」というお吸い物がだされ、
それを飲み干してから料理がスタートのようですが、
その間、花月の由来等の女将の前口上があり、
これがウムを言わさない強さがあって凄いです。

  

 

※画像はクリックすると拡大します。
料理は基本的に卓袱(しっぽく)料理のコースのみ。
最低限の品数コースから単純に品数を増やして、
料金が決まって行くシステムのようです。
全体的には和食がメインですが、
最後の頃に食事として出てくるご飯(右下)は、
中華スープかけご飯、デザートにはゼリーが出て、
更にその後、お汁粉がつきます。
どの料理も甘みをかなり感じる味付けは、
長崎独特の味付けではないでしょうか。
そういえば関東の人間にとっては、
長崎の味付けはどれもみな甘い味ですね。



仲居さんがくるたびに花月のことを聞きまくるので、
興味があると思ってくれたのか、
団体席で披露されている踊りを、
わざわざソデから見せてくれました。
決して笑わない、というか、
どちらかというとむっとした表情で踊る宴席の舞は、
異文化を感じます。



その後、店内を全部案内してくれました。
って、完全に観光客だと思われただけですね。
(実際そうなんですけど…
おかげで国内初の洋間といわれる、
「春雨の間」も見ることができました。
天井には朱を背景にした花鳥画、
中国風の窓装飾にタイル貼りの床と、
まさに長崎の「和華蘭」文化が凝縮したような部屋です。



強烈な女将。
料理、店内、踊り、どれをとっても、
異空間なワンダースポットでした。

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長崎さるく #21 夜の丸山遊郭跡

2009-07-12 08:48:45 | 長崎さるく
シリーズ長崎さるくはまだまだ続きます。
今回は以前にもアップした丸山遊郭跡の夜バージョンです。



第二次大戦の出征の際に、この神社へお参りした兵士が
全て帰還したことから「身代わり天神」と呼ばれる、
梅園天満宮。→Mapion
昼間は真っ白な鳥居が奇麗なこじんまりとした神社ですが、
夜はブルーのライトアップで少し怖め。



以前の記事でもアップした(その記事の上から3番目)
当時の建物が残る一角。
長崎ぶらぶら節とかかれた提灯風のライトが、
路地を柔らかく照らします。



昼間丸山を訪れるたびに気になっていたお店。
「PSYBAR SPACE おん」→Mapion
それは遊郭に隣接するちょっとした高台にあります。
表札まででていて、一見どう見ても民家ですが、
ちゃんとしたバーです。



元々は漢方の仕事で一儲けした人が、
別荘として建てた建物だそうです。
丸山花街を高台から一望できるロケーションに別荘を建てるとは、
よっぽど花街が好きな人だったんでしょうか。
Mapionをご覧になるとすぐ北に、
「にしき荘別館」とあるのがお分かりかと思いますが、
別荘の後はこのにしき荘の本館として、
使われていたようです。



メニューの表紙を飾る、思案橋からの行き方。
思案橋から路地に入り、カステラの福砂屋本店を越えて、
階段を登るとお店、という順番ですね。





CYBERにかけたPSYBAR、
旅館時代の内装をそのまま残しながら、
和と洋をちゃんぽんした店内と、
極めて80年代っぽいお店のコンセプトはさておき、
丸山花街を眼下に見下ろす和室で飲むお酒、
というシチュエーションは、
一度訪れてみる価値はあるかもしれません。

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