黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

足尾銅山 #04 銀山平

2012-10-29 01:40:02 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

前回の記事の最後に触れたかじか荘に泊まり、
翌日はかじか荘からしばらく歩いてみることにした。

足尾銅山・中国人殉難烈士慰霊塔
足尾銅山・中国人殉難烈士慰霊塔

かじか荘のすぐ近くにある、中国人殉難烈士慰霊塔。
かつて大戦末期に中国から来た労働者257名のうち、
殉難された109名のための立派な慰霊塔。
塔は高台に立っているが、その入口の日光市の説明板には、
「強制連行された」としっかり記されている。
黙祷を捧げてその場を去った。





足尾銅山・銀山平
足尾銅山・銀山平

かじか荘から暫く山を下る一帯を銀山平(ぎんざんだいら)と呼ぶ。
足尾は銅山なのに何故銀山?と思うと、
銅を探して掘っているうちに、
この付近からは銀が産出したことに由来するらしい。
道を歩いていると、緩やかな坂道の横に、
土地をならして人工的に作った石垣が点在している。





足尾銅山・銀山平
足尾銅山・銀山平

やがて明治の中期になると、
すこし下った所にある、足尾銅山の三大坑道の一つ、
小滝坑の発展とともに廃石が運ばれる様になり、
それを元に斜面を整地して平らな土地が造成され、
銀が発見された場所に因んで、銀山平と呼ばれる様になった。





足尾銅山・銀山平
足尾銅山・銀山平

さらにその用地を生かして東洋一の大製材所を建設し、
足尾銅山のための用材の基地として、
最盛期には200人が従事し、140戸の社宅があったという。





足尾銅山・銀山平
足尾銅山・銀山平

やがて昭和に入り製材所も、
それらの資材を運んだ鉄索(運搬用リフト)も廃止され、
昭和14年(1939)に銀山平の役目は終わることとなった。





足尾銅山・銀山平
足尾銅山・銀山平

今では製材所のあった平地は、かじか荘やキャンプ場として使われ、
また、住宅が建ち並んだ木立の中には、防火水槽や建物の基礎の一部が残るのみで、
往時の様子を想像することはできない。
ただ、道端の南無阿弥陀仏と掘られた石だけが、
草に埋もれながら、ここに人がいたことを伝えているだけだった。

銀山平に関しては、ウェブ上で調べる限り殆ど資料がなく、
唯一こちらのサイト様に往時の写真がアップされていたので、
ご覧になって頂きたい。

銀山平製材所全景
銀山平製材所内部

製材所で使われた電気のこぎりは国内で最初に導入されたものだということだ。
さぞかし誇りをもって仕事をされていたことだろう。

足尾銅山・銀山平

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足尾銅山 #03 通洞地区

2012-10-28 06:23:51 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

足尾銅山・通洞鉱山神社
足尾銅山・通洞鉱山神社

前回アップした足尾銅山観光を出ると、
目の前に小さな神社があった。
通洞鉱山神社。
鉱山が最盛期を迎えた大正9年(1920)に、
鉱業所が通洞に移転されたのを記念して造営された山神社。
明治18年の開口以来、それまでは、
足尾銅山発祥の地の簀の子橋山(すのこはしやま)神社を祀っていたと、
説明板に書いてあった。





足尾銅山・通洞鉱山神社狛犬
足尾銅山・通洞鉱山神社狛犬

足尾銅山・通洞鉱山神社獅子
足尾銅山・通洞鉱山神社獅子

拝殿の前の剽軽な風貌の獅子狛犬像は、
なんと寛保三年(1743)年に彫られ、
上記の簀の子橋山神社に設置されていたものを、
神社造営の際に移転したものだという。

上画像が左側の吽形狛犬、下画像が右側の阿形獅子。
光陰が強かったので、両方とも同じ方向から撮影してしまった。

素朴ながら見てて飽きない獅子狛犬だ。





足尾銅山・レストランヒロII世
足尾銅山・レストランヒロII世

通洞に到着した頃から雲行きは怪しかったのだが、
ここで激しく雨が降り出したので、
ひとまず銅山観光の建物内へもどり腹ごしらえをすることにした。
銅山観光の出口にあたる建物には、
昭和レトロな(というか昭和で時が止まった)レストランヒロII世があり、
マスターお薦めのオムカレーを頂いた。
少しガテン系ではあるものの、とても美味しい。
オムライスに少しケチャップがかかっていて、
オムカレーを食べた後、正統派オムライスを味わえるのがイイ。





足尾銅山・通洞工場
足尾銅山・通洞工場

雨が小振りになったので、店を後にして見学を再開。
メインの通りへ向かう途中、
茂みの向こうに無性に誘われる建物が見えたので、
ふらふらとその方向へ進んでみた。





足尾銅山・通洞工場
足尾銅山・通洞工場

入口に「通洞工場」と書かれた看板がかかる建物。
壁面を見ると、戦中の迷彩塗装の跡がくっきりと見てとれた。
しかもそのパターンが、かつて米軍の迷彩服などによく使われていた、
誰もが良く知るパターンに近いのにも驚いた。
それほど沢山見て来たわけではないが、
これまで見た国内の建物の迷彩塗装は、
縞状のものや焼け落ちた風を装う全部を黒く塗りつぶすものが多かったので、
こういった複雑なパターンもあったんだと思った。





足尾銅山・通洞工場
足尾銅山・通洞工場

ウェブでは、
この建物を「新梨子油力発電所」と紹介しているのをよく見かける。
メインの発電所がダメージを被った時のサブ的な発電所ということだが、
入口の看板の通洞工場という表記、
そして銅山観光のバス停横に掲示された説明板での、
工作工場という表記を見る限り、
最後には工作工場、すなわちメンテナンス用の工場として、
使われていた建物だったと思われる。





足尾銅山・通洞工場
足尾銅山・通洞工場

建物の1/3には2階のスペースが設けられているが、
階段が崩壊している為に、既に登ることはできない。
崩壊した瓦礫が散乱する建物内からは、
かつて創業していた時の様子をうかがい知ることはできなかったが、
窓外の森が照らし出す緑色の室内は、
幻想的な雰囲気を漂わせていた。





足尾銅山・通洞工場
足尾銅山・通洞工場

建物内にはシートで覆われた山車状のものが安置されていたりするので、
おそらく今でも倉庫的な使われかたをしているのだろう。
あと何年、この建物が残存するかは分からないが、
壁面の迷彩塗装も含めて、
貴重な昭和遺産として、残して欲しいものだ。





足尾銅山・通洞動力所
足尾銅山・通洞動力所

そろそろ日も暮れる時間になり、建物から出ると、
雨は上がり、西陽が通洞の町を照らしていた。
通洞工場の横にある通洞動力所は外から見るに留め、
次回の見学に夢を託して宿へ向かうことにした。





足尾銅山・かじか荘
足尾銅山・かじか荘

宿は通洞から約6km、車で10分ほど離れた、
足尾で唯一の温泉地にある「かじか荘」。
国民宿舎だが、スタッフの対応もよく、心地いい宿だった。





足尾銅山・かじか荘
足尾銅山・かじか荘

夕食は、基本コースに加えて、
岩魚の塩焼きと鹿を頼んでおいた。
鹿は冷凍だったものの、
岩魚をはじめ他の料理はひと手間かけた美味しさで、
地酒「皇海山(すかいさん)」とともに、
楽しい一夜を送ることができた。

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足尾銅山 #02 通洞坑と銅山観光

2012-10-27 06:43:08 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た時の足尾銅山のリポート。

足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

足尾銅山には、閉山後にその経営者である古河が中心になって作った、
実際の鉱山で使われていた坑道をそのまま使った『足尾銅山観光』がある。
足尾銅山を訪れるのは生まれて初めてだし、
予習をかねて、まずそこから見学することにした。





足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

ゲートをくぐると、
地面に古銭の形をしたモニュメントが埋め込まれていた。
いわゆる足字銭と呼ばれる通貨をかたどったもの。
有名な江戸の通貨、寛永通宝を足尾銅山で製造していた時の裏側だが、
足尾銅山が不況に陥った際、幕府に通貨の製造を申し出て、
不況を乗り切ったそうだ。





足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

それにしても、ゲートの近くでは2、3組の観光客を見たが、
実際に銅山観光の中へ入ると、一人としていなくなった。
トロッコの独り占めは、それはそれでいいのだが、
銅山観光の行く末を、他人事ながら心配してしまう。

トロッコは15分おきに運行し、
暫く進むと、先頭の牽引車を切り離し、
人員用トロッコのみで坑道の中へと入って行く。





わ足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

いよいよ足尾銅山の三大坑口の一つ、通洞坑から入坑。
通洞坑(つうどうこう)と呼ばれるこの坑口は、
明治18年(1885)開口に着手し、なんと11年もかけて掘られ、
そして閉山の昭和48年(1973)まで約90年に渡って稼働した坑道の入口。
通洞とは足尾銅山に限った名称ではなく、
鉱山で主力として使われる水平に掘られた坑道のこと。
この坑口は実際に使われていたものだが、
周囲を囲む円形のコンクリを積み上げた構造物は、
使用されていた当時は木製だった。





足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

ほどなくして終着地点であり徒歩見学路のスタート地点に到着。
坑内は思いのほか涼しく、そして何よりも水の滴る音が半端無い。





足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

トロッコが去った後の坑口方面の眺め。
現在では白熱灯ではあるものの、
かなり数多くの照明が設置されているが、
恐らく操業時はもっと暗かったのだろう。





足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

上画像の反対側を見ると、入口は柵で塞がれているが、
6.5kmの奥へと続く水平坑道を覗き込むことができる。
その突き当たりから上に20階、下に15階、
その高低差1,000m以上の坑道が縦横無尽に張り巡らされ、
坑道の総延長は1,200km以上にも及ぶというから驚きだ。
誰もいない暗い坑道の中で深淵を覗き込んでいると、
かつてここで働いた人々の喜怒哀楽が冷たい風と共に聴こえて来るようだ。





足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

さていよいよ徒歩による見学のスタート。
それにしても暗い。しかも天井が低い。
さらに水の滴る音が何カ所からも聴こえて来て、
それらが様々な響き方をするので、
まるで水滴の協奏曲を聞いているようだ。
路面は恐らく観光化の時に整備したものだと思うが、
壁面は当時のままだろう。
岩を削りながら掘り進んだ跡が生々しく残る。





足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

ところどころにジオラマ的に当時の様子を再現している。
最初は江戸時代の光景からやがて明治、昭和と、
先へ進むに連れて、時代を追って採掘の様子がわかるようになっている。
江戸時代よりも以前に、既に採掘されていたらしいが、
正式には江戸時代になって幕府の管轄のもとでの本格的な採掘が始まり、
足尾は街とともにおおいに賑わった。
鎚と鏨で鉱石を掘る「堀大工」、
鉱石を選り分けて運び出す「手子」や「負夫」、
坑道の支柱を施工する「留大工」など、
その作業は全て手作業で、過酷な労働だったそうだ。





足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

江戸の終わりから明治にかけては一時衰退するものの、
古河の創業者、古河市兵衛によって再び大規模な開発が行なわれ、
最盛期には国内の銅の4割を産出するようになり、
日本一の銅山に発展した。





足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

しかし多くの機械化を導入したと言っても、
完全自動の機械化ではなく、機械を操作するのはあくまでも人間。
暗く、怒濤のように水の滴る坑内での作業は、
現代から考えると普通の感覚ではできない労働環境だったことが、
少しずつ見えてくる気がした。





足尾銅山・銅山観光
足尾銅山・銅山観光

生産された銅インゴット。いわゆる延べ棒。
20kgというので今日の相場で13,000円位になるだろうか。
ちなみに坑道内には2時間程いたが、
その間に出会った観光客はカップル一組だった。

足尾銅山観光

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足尾銅山 #01 わたらせ渓谷鐵道

2012-10-25 03:22:33 | 産業遺産
8月の頭にブログでご案内した、
足尾銅山の写真家、橋本康夫氏の追悼写真展に、
会期の最後となる9月末に訪た。
これはその時の足尾銅山のリポート。

北千住から「りょうもう号」に乗って一路栃木へ。
りょうもう号…名前も知らず何線の電車かも知らなかったのでwikiで調べると、
どうやら日光へ行くスペーシアと姉妹的な、東武伊勢崎線の特急だとわかった。
それにしても「スペーシア」と「りょうもう」、
同じ会社内でのこのネーミングの差は何だろうか?
wikiには特急のくせに遅いのが難点とあったが、確かにトロい。
殆どの区間、普通電車と同じ様な速度。
更に車内販売がない!orz
そのおかげで朝食を抜かざるおえなかった。
しょうがなくふて寝しているうちに、乗換駅の相老に到着。
ほどなく入線してきたわたらせ渓谷鐵道に乗り換えた。





わたらせ渓谷鉄道
わたらせ渓谷鉄道

チョコレート色のレトロな一車輛。
走り出すと、これまでとは打って変わって、
風光明媚な景色が車窓に映し出されて行く。
これはイイ!
りょうもう号の不満を一気に解消してくれる。





わたらせ渓谷鉄道・上神梅駅
わたらせ渓谷鉄道・上神梅駅

しばらく行くと上神梅駅に到着した。
車窓から見える趣のある木造駅舎は登録有形文化財だそうだ。
木製の改札や窓枠等とてもいい感じで、
電車を降りて撮影をしたかったが、すぐに発車してしまった。
実は、わたらせ渓谷鐵道の沿線には、駅やトンネルをはじめ、
沢山の登録有形文化財がある。
さらに水沼という、構内に温泉がある駅があるなど、
なかなか面白い路線だ。




わたらせ渓谷鉄道・神戸駅
わたらせ渓谷鉄道・神戸駅


神戸駅は「こうべ」ではなく「ごうど」と呼ぶそうだ。
この駅も駅舎やホーム等が登録有形文化財に指定されている。
駅は上り下りの入れ替え駅になっているので、
暫く停車している間、車輛を降りて駅舎の外観を撮影できた。

左下にレストラン清流という看板が見えるが、
これは駅構内にある、かつての東武日光線で使われていた、
けごん号の車輛を転用したレストラン。
しかし何でこんな色の看板にしたんだろうか?
せっかくいい気分で乗って来たわたらせ渓谷鐵道だったが、
これまでのイメージが台無しになってしまった。
せめてピンク色のところを車輛と同じ色とかにすればいいのに。
※画像クリックで車輛と同じ色のイメージ。





わたらせ渓谷鉄道
わたらせ渓谷鉄道

車中には懐かしのバスガイドさんのような超笑顔の車掌さんがいて、
名所を通過するたびにアナウンスしてくれる。
そしてその合間をぬって車内販売。
だるまのお腹にはわたらせの「わ」の字が。
それにしてもチョコレート色のだるまは初めてだったので、
そのわけを聞いてみると、
足尾の銅の色を表してると教えてくれた。
車輛も近年チョコレート色に塗り替えたそうだ。





わたらせ渓谷鉄道・沢入駅
琉わたらせ渓谷鉄道・沢入駅

神戸駅の次の沢入駅は、
駅舎は小さいながらやはり登録有形文化財。





わたらせ渓谷鉄道・吉ノ沢架樋
わたらせ渓谷鉄道・吉ノ沢架樋

沢入駅をでてからの路線は殆ど緑に包まれていた。
車輛の最後尾の窓から緑のトンネルを楽んでいると、
突然不思議な構造物が目に入って来たので撮影したが、
あとで調べると吉ノ沢架樋(かけひ)といって、これも有形文化財。
古レールを流用した支柱と桁に、
延長14m、幅2.7mのRC造の樋を載せた、
雨水や土砂が軌道敷に流入するのを防ぐための施設だそうだ。





わたらせ渓谷鉄道
わたらせ渓谷鉄道

最近はどこに行くにも車で移動することが殆どで、
地方で電車や列車に乗ることは殆どなかったが、
ゆっくり趣のある車輛に揺られるのもとってもいいものだと、
いまさらながら再認識。





わたらせ渓谷鉄道・通洞駅
わたらせ渓谷鉄道・通洞駅

やがて下車予定の通洞(つうどう)駅に到着。
駅前には誰もいない。
暫く案内版を見たり煙草を吸ったりしていると、
車輛がいなくなって静まり返った線路に、
猿が沢山溢れて来た。





足尾銅山・通洞地区
足尾銅山・通洞地区

通洞の街。
かつて銅山が栄えてた頃には沢山の鉱員やその家族が往来しただろう道は、
今は殆ど人通りがない。
ただ静かな田舎町の時が流れているだけだった。





足尾銅山・さんしょう家
足尾銅山・さんしょう家

町を歩いていると、さんしょう家というお店がやっていた。
全てのメニューにさんしょうを使っている、さんしょうにこだわった店。
入口の横には、
今回足尾へ来た目的の、写真展のポスターが張られていた。
実は写真展の準備を色々と手伝わせて頂き、
このポスターも作らせて頂いたものだった。

生前、橋本氏から「一度は足尾を見よ!」とよく言われたが、
結局、生きていらっしゃるうちに一度も行けなかった。
こうしてやっと足尾へ来られたが、
生前にこれなかったのがくやまれてならない。

さて次回からは足尾銅山へ。

◆ シリーズ 足尾銅山 ◆
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『第一回ワンダーナイト~産業遺産編~』開催

2012-10-16 21:30:19 | 産業遺産
一つ前の記事で取り上げた、
国内の様々な産業遺産を取り上げてまとめたムック
『産業遺産の記録』の発売を記念したイベント、
『第一回ワンダーナイト!~産業遺産編~』
が10/21に大阪のなんば紅鶴で行なわれます。



『なんば紅鶴』は、
大阪/千日前の『レジャービル味園』内にある、
ディープなトークライブや上映会が行なわれるライブシアター。
夏にブログ記事でもお伝えした
ワンダーJAPAN TV『軍艦島スペシャル』で共演させて頂いた、
ワンダーJAPAN編集長の関口さん、
NPO法人J-heritage理事長の前畑さんとともに、
参加させて頂きます。

産業遺産と廃墟、その意味や保存など、
そのあたりに興味のある方には、
面白いトークイベントになるのではないかと思います。

以下、なんば紅鶴のサイトインフォより

「産業遺産の記録」出版記念!
第一回ワンダーナイト!~産業遺産編~
10/21(日)START18:00/¥1500(D別)
@なんば紅鶴(千日前味園ビル2F)
出演:関口 勇(ワンダーJAPAN編集長)
ゲスト:前畑洋平 (J-heritage代表)、黒沢 永紀 (軍艦島全景/オープロジェクト)

普通の人なら見向きもしない、だけど何かが心にひっかかる、
そんな《異空間》を取り上げ続ける「ワンダーJAPAN」その編集長がついに紅鶴に!
しかも今回は「産業遺産の記録」出版記念ということで豪華ゲストも!
産業遺産を愛してやまない団体J-heritageより前畑洋平、
軍艦島全景の著者であるオープロジェクトの黒沢永紀がゲストに!
廃墟が好きだとか、大きな建物が好きだとか、古い建物が好きだとか、そんなあなた!
この大阪の愛すべきビル味園ビルでこんな話を聞けるなんて凄く素敵ではないですか!?
軍艦島が大好きな人も!軍艦島にまだ行けてない人も!
軍艦島何それ?って人もこの日あなたの何かが開く!

予約は9/29より受付させていただきます。
予約メールは↓マデ
namba_hakugei999@yahoo.co.jp
タイトルに「10/21産業遺産」と書き、
本文に氏名(カタカナ)、メアド、枚数をご入力下さい。
※パソコンからの返信メールをもって予約完了となりますので、
パソコンからのメールを受け取れるアドレスからお申し込みください。

詳しくはこちら


『産業遺産の記録』発売

2012-10-16 15:33:24 | 産業遺産
『軍艦島全景』をリリースして頂いている三才ブックスから、
国内の様々な産業遺産を取り上げてまとめたムック
『産業遺産の記録』が10/19に発売されます。



産業遺産というと、学際的なお堅いイメージがつきまといますが、
国内の産業遺産の見学ツアーを次々と実現する、
NPO法人J-heritageが監修する本書は、
ビジュアルを重視して、まず産業遺産を感じてもらい、
更にそれぞれの産業遺産に関して、
詳細なデータ解説もついているすぐれもの。
私も軍艦島のテキストで参加させて頂きました。
是非ご覧になって頂ければと思います。

以下、三才ブックスの解説より。

『産業遺産の記録』
1,600円/B5版/オールカラー/2012年10月19日発売

2006年大阪市営下寺住宅(通称“軍艦アパート”・1930年竣工)解体、
2007年旧長崎刑務所解体、2012年川南造船所跡解体、
つい最近も三井三池炭鉱有明鉱の立坑が解体され
日本の近代化や経済成長に深く関連したり、
多大な貢献のあった建物・施設が
現在、次々と姿を消していっている。

さまざまな理由から、最終的には解体の道を選んだのかもしれないが
もっと産業遺産のことを知れば、地域活性化のために
解体せずにまだまだ利用が可能だったものもあるのではないか。

本書では、全国に散在する約40の産業遺産を取り上げているが、
そこにあるのは、映画に出てきそうな古びた機械だったり、
複雑な姿の不思議な巨大工場、あるいは懐かしさあふれる校舎、
見知らぬ文明の古代遺跡のような鉱山跡だったりと
ワクワクしそうなワンダーな光景の連続だったりする。

産業遺産というものが歴史の重みをにじませながら
素晴らしい雰囲気で存在していることをまずは知ってもらえたら。
似たような雰囲気のものでは廃墟美というのもあるけれど、
それに負けないぐらいの魅力を産業遺産の遺構物はもっている。


【炭鉱遺産】
赤平炭鉱・奔別炭鉱・池島炭鉱・旧志免鉱業所竪坑櫓・三井三池炭鉱宮原坑

【炭鉱特集】
軍艦島(端島炭鉱)

【非鉄金属鉱山】
尾去沢鉱山・佐渡金山・鉱石の道~明延鉱山/神子畑鉱山/生野鉱山~・
小坂鉱山・別子銅山・若松鉱山・犬島製錬所跡

【近代建築】
公衆衛生院・根岸競馬場一等馬見所・光華寮・旧尼崎警察署

【五大監獄】
奈良少年刑務所・旧長崎刑務所・千葉刑務所・旧鹿児島刑務所・金沢監獄

【セメント工場】
住友大阪セメント田村工場・麻生ラファージュセメント田川工場

【土木遺産】
湊川隧道・宇治発電所・旧志津川発電所・琵琶湖疏水~産業遺産群

【造船/鉄道/学校】
名村造船所跡・万世橋駅・旧新橋駅・円形校舎(沼東小学校/誉田中学校)・吹屋小学校

【軍事遺産】
友ヶ島・大久野島

[座談会]
廃墟から産業遺産へ

[用語]
産業遺産ミニ用語事典

詳しくはこちら





『橋本康夫 写真展』@足尾歴史館 開催

2012-08-03 20:55:27 | 産業遺産


閉山前から足尾銅山に通って撮影され続け、
2009年に惜しくも亡くなられた、
写真家、橋本康夫氏の追悼写真点が、
足尾歴史館で8/1より開催されています。

橋本氏との出会いは、オープロジェクト初期の頃の、
原宿デザインフェスタでの写真展の時でした。

11時開場にもかかわらず、
午前中はお客さんも来ないだろうとたかをくくって、
開場後に設営作業をしていると、そこへ橋本さんがやって来て、
「まだ出来てないのかぁ!」
と、こっぴどく怒られました。
でもそれが縁で、その後おつきあいをさせて頂きました。

橋本さんは、足尾を中心に、
鉱山や炭鉱を撮影しながら研究されている方でした。
橋本さんのサイト→足尾研究会

炭鉱や鉱山のことは勿論、資料や年表の見方など、
様々なことを教えて頂いた気がします。
橋本さんは、炭鉱や鉱山、更には廃墟などに興味ある人に、
分け隔てなく声をかけ、
その輪を広げようとされていたように感じました。

しかし、後進の指導には精力的だった橋本さんですが、
お話を伺っていると、どうやら足尾の写真は撮られていないご様子。
足尾の写真は撮らなくていいのかな?
といつも疑問に思ってもいました。

ある日、
橋本さんから足尾の写真展を開催するお知らせを頂き、
会場へ行ってみると、
そこにはかつて橋本さんがお作りになった、
足尾の写真集がありました。
そしてそれを見た瞬間に、
あぁ、橋本さんは、もう足尾を撮影しなくてもいいんだ、
と感じました。

そこには、普段の優しい橋本さんではなく、
鬼気迫るド迫力の足尾がありました。

きっと橋本さんにとっての足尾の撮影は、
あの写真集で完結したんだと感じました。

2009年に惜しくも亡くなられましたが、
足尾をはじめ、多くの鉱山や炭鉱を一緒に回られていた奥様が、
その意志をお継ぎになって、橋本さんの追悼写真展が、
足尾歴史館で開かれることになりました。

お時間のある方は、是非足を運んで頂ければと思います。



平成24年度 足尾歴史館 企画展
『ヤマと暮らしと人と』橋本康夫 写真展

会期:2012年8月1日~9月30日 月曜休館
時間:10:00~16:00
会場:足尾歴史館


iOSアプリ『廃墟百花』vol.01 リリース

2012-06-03 02:39:19 | 産業遺産
iProductアプリ『廃墟百花』

SCA Talking Book
廃墟百花
Vol. 01 さよなら、川南造船所

廃墟の持つ魅力を様々な切り口から、
画像・映像とトークで解き明かして行く、
iProduct用アプリの廃墟百花シリーズ。
vol.01『さよなら、川南造船所』をリリースいたしました。

iProductアプリ『廃墟百花』

第一回は、今年の春、惜しくも解体されてしまった、
佐賀県伊万里市にあった川南造船所を取り上げます。
このvol.01『さよなら、川南造船所』はオープロのメンバーでもある、
西田氏によるプロデュース。

iProductアプリ『廃墟百花』

1章~4章では、西田氏がナビゲーターとなり、
それぞれゲスト・コメンテーターを迎えて、
歴史、廃墟の魅力、保存活動、ヘリテージ・ツーリズム、
のそれぞれの視点から、造船所を解き明かして行きます。

iProductアプリ『廃墟百花』

第1章では、
私がコメンテーターとして参加。
川南造船所の数奇な歴史と、
造船所の創始者、川南豊作の波瀾万丈な人生を解き明かします。

iProductアプリ『廃墟百花』

第2章では、
廃墟を、様々な方法で表現する事に果敢に挑戦されてる、
サイト『記憶屋「廃墟」』の管理人、ドイテフ氏を迎え、
廃墟となった造船所の異空間の魅力、
そして地域住民と廃墟、
更には、廃墟が結びつけた親子の絆、
など、面白いお話が満載です。

iProductアプリ『廃墟百花』

第3章では、
自ら保存団体を立ち上げ、造船所の保存活動を展開された、
『川南造船所全国同盟』代表、梅津知広氏を迎え、
なぜ造船所を保存したいと思ったか、から、
保存活動の顛末、そしてそこから得られたもの、など、
貴重なお話が満載です。

iProductアプリ『廃墟百花』

第4章では、
国内の産業遺産の見学ツアーを精力的にオーガナイズされてる、
NPO法人『J-heritage』の理事長、前畑洋平氏を迎え、
ヘリテージ・ツーリングの視点から見る造船所と、
こういった産業遺産を見学する意義に言及する、
深イイお話が満載です。

iProductアプリ『廃墟百花』

川南造船所は既に解体されてしまいましたが、
このアプリをご覧になれば、
川南造船所に限らず、
廃墟がただのの崩れゆく建徳物ではなく、
様々な事を感じ、考えさせてくれる、
とても味わい深いものだとお解り頂けると思います。



ユニバーサル・アプリなので、
iPad&iPhone、両方ご利用頂けます。



ギャラリーはゲスト・コメンテーター4人、
およびそれぞれの方の関係者の方の写真から構成されています。



SCA talking book
廃墟百花 vol. 01 さよなら、川南造船所

無料

本編:46分

著者:西田 信之 (オープロジェクト)
ゲスト・コメンテーター:黒沢 永紀
            ドイテフ
            梅津 知弘
            前畑 洋平
画像:ゲスト・コメンテーター、他
編集:西田 信之、オープロジェクト、SCA
MA:山内 悟 (エス・シー・アライアンス)
開発:アトトック
企画・制作:エス・シー・アライアンス

iProductアプリ『廃墟百花』


志免鉱業所竪坑櫓 #04

2012-01-20 05:17:46 | 産業遺産
福岡県の福岡空港にほど近い、
糟屋郡志免町にある旧志免鉱業所竪坑櫓。
コンクリートのロボットの様なルックスとともに、
激動の20世紀を今に伝える炭鉱の巨大竪坑櫓を、
シリーズでお送りします。

最終回は屋上とかその他の施設です。

志免炭鉱竪坑櫓
志免炭鉱竪坑櫓/8階 画像はクリックすると拡大します

前回の記事の最期にアップした、
最上階のメインプーリー室の北東側半分です。
実はメインプーリーをもう一基設置する予定もあった、と聞きました。
また画像床の奥の壁寄りの穴は光が射し込んで少し大きそうですが、
資材等はおもにここから搬入していたようです。





志免炭鉱竪坑櫓
志免炭鉱竪坑櫓/8階

右寄りに階段がみえますが、
これが8階から屋上へ通じる階段です。
8階までは建物の南側に階段が位置していましたが、
8から屋上への階段は、北側に位置することになります。

しつこいようですが、もう一度櫓の北東面です。

志免炭鉱竪坑櫓
志免炭鉱竪坑櫓/北東面

前面の右上寄りに出っ張りがあり、
窓から斜めのコンクリートが所々みえますが、
これが屋上へ通じる階段です。
下層階よりさらに狭く手摺もない階段なので、
この窓から見える部分を通過する時は、
足を滑らせると真っ逆さまです。





志免炭鉱竪坑櫓/屋上ペントハウスと避雷針
志免炭鉱竪坑櫓/屋上ペントハウスと避雷針

やっと屋上へ到着です。
遠くから見てもその存在が分かり、
櫓にいいアクセントをつけている避雷針は、
目の前で見ると、かなり大きなものでした。





志免炭鉱竪坑櫓/ボタ山
志免炭鉱竪坑櫓/ボタ山

屋上からは西原ボタ山が見えます。
ボタとは石炭を産出した時にでた残土や残石を積み上げたもので、
画像では2山に見えますが、実際には4山あるそうです。





志免炭鉱竪坑櫓/屋上からの眺望
志免炭鉱竪坑櫓/屋上からの眺望

屋上には、コンクリ製の低い手摺しかなく、
あっさりと階下を眺める事ができますが、
これもまたちょっとバランスを崩すと真っ逆さまです。





志免炭鉱竪坑櫓/斜坑
志免炭鉱竪坑櫓/第八連卸斜坑口

竪坑の近くには斜坑口も残っています。
竪坑が垂直に地中へ降りて行くエレベーターの様な構造だとすると、
斜坑は斜めに掘り進んだ穴を、レールに乗ったトロッコが移動する、
いわば地底登山電車のようなものです。

志免炭鉱には沢山の斜坑があったようですが、
現存するのはこの第八(一説には第六)坑連卸坑口だけです。
「連卸(つれおろし)」というのは、
主に石炭・ボタの搬出や資材の搬入に使われる斜坑のことで、
隣接して、作業員の揚げ下げを行なう、
「本卸(ほんおろし)」があるのが一般的です。
また本卸、連卸以外にも坑内の換気用の斜坑など、
必要にあわせて様々な斜坑がありました。

ちなみにこの斜坑の近くには、近年まで、
換気用の第八扇風機坑口もありましたが、
道路造成のために、平成12年(2000)に解体されてしまいました。

土地の少ない東京ならいざしらず、
志免炭鉱の櫓まわりの土地は、
道路を少し迂回させる事など十分可能と思われるくらい、
かなり広々としている様に見えますが、
あえて解体してしまった理由はわかりません。

先人の素晴らしい技術に、実際に触れられる施設だったと思いますが、
とても残念です。

志免炭鉱竪坑櫓/斜坑
志免炭鉱竪坑櫓/第八連卸斜坑

斜坑口は鉄のレールで完全に塞がれていますが、
隙間からは内部の様子を見ることができます。
だいぶ暗い坑内ですが、暫く進むと、
竪坑の坑口と同様、塞がっているようです。

竪坑は炭鉱施設の中でも最もコストがかかる部分にもかかわらず、
使わなくなった坑道はすぐに水没させ、口を塞いでしまいますが
これは国内の石炭の質に関係しているようです。
国内の石炭が出来たのは主に、
恐竜絶滅後の新生代古第三紀(約6,500万年~3,000万年前)と言われていますが、
これは極めてガスが発生しやすい炭質のために、
採掘が終わった坑道はすぐに水没させてしまうようです。
一度水没させた坑道は二度と使えません。
それに対してドイツやイギリス等の石炭は主に、
爬虫類が出現した古生代石炭紀(約3億6,000万~3億年前)に出来た石炭なので、
ガスが発生せず、使わなくなった坑道も簡易閉鎖にとどまり、
採掘再開の時は、容易に同じ坑道で再採掘ができるようです。

志免炭鉱竪坑櫓外観
志免炭鉱竪坑櫓の夕暮れ

明治22年(1889)、海軍によって採掘が始まり、
多くの坑道を造って石炭を掘り出しては軍艦に燃料を補給し、
敗戦間近には最新式の巨大竪坑まで完成させ、
戦後は鉄道輸送の燃料に役割を変えて活躍するも、
時代の流れに従って昭和39年(1964)、
その75年の歴史に幕を下ろします。

閉山後は、
石炭鉱業合理化事業団(後に新エネルギー総合開発機構→NEDO)が管理してました。
当初志免町は、NEDOに櫓を解体してもらい、
土地だけの無償譲渡を考えていたものの、
折り合いがつかず、結局解体が長引く結果になり、
その間に解体のニュースを聞きつけ、全国から保存の声が上がったことで、
2006年4月、NEDOから櫓付きで志免町へ無償譲渡され、
何も手をつけない「見守り保存」という、
軍艦島と同じ様な保存方法へ方向転換しました。

その後2007年には国の有形登録文化財に、
さらに2009年末、重要文化財に指定され、
おしもおされもしない保存産業遺産になったわけですが、
先日解体の始まった佐賀県の川南造船所をはじめ。
多くの産業遺産は今でも解体され続けています。

そしてそのたびに、
解体したら最期、なんで保存しないのか?と疑問を持ちますが、
思えば、私たちは近代化産業遺産が実際に稼働していた時代を知りません。
それらのもつ戦争体験や労働争議等の負の側面の記憶がないから、
手放しに保存して欲しいと思えるのかもしれません。

ふと自分の身に置き換えて考えると、
自分や家族が多大な犠牲を強いられた産業構造物が、
とても価値のあるものだから残す、と聞いたとき、
果たして手放しで良かったと思えるかは、
疑問に思います。

志免炭鉱竪坑櫓/運転室
志免炭鉱竪坑櫓の夕暮れ

櫓内部の見学は、
軍艦島を世界遺産にする会の坂本理事長のご紹介で、
志免町議会議員で志免立坑櫓を活かす住民の会・会長の
古庄信一郎様にご案内頂きました。
たいへんありがとうございました。


★ ワンダーJAPAN _ vol. 11★

  

志免炭鉱竪坑櫓内部レポート 地上50mの《異空間》
オープロジェクトによる志免炭鉱竪坑櫓のリポート。
このブログに掲載中の画像以外の画像を含め、
オープロ全員の画像と詳しい解説を掲載。

★ オープロジェクト DVD ★

  

『鉄道廃線浪漫 ~風の声・時の音~』
国鉄専用の炭鉱だったことから、
鉄道廃墟としてのアプローチで、
志免炭鉱のパートを収録。

志免鉱業所竪坑櫓 #03

2012-01-18 06:42:12 | 産業遺産
福岡県の福岡空港にほど近い、
糟屋郡志免町にある旧志免鉱業所竪坑櫓。
コンクリートのロボットの様なルックスとともに、
激動の20世紀を今に伝える炭鉱の巨大竪坑櫓を、
シリーズでお送りします。

今回は櫓を登りながら実際に中を見てみようと思います。

志免炭鉱竪坑櫓
志免炭鉱竪坑櫓/低層階段

実際に稼働していた時は、
上層階との行き来はエレベーターが使われていたので、
階段は非常用。そのためかそれほど幅は広くありません。

この先しばらく進むと、
安全のために閉山後コンクリートで塞がれていた部分が、
近年の内部調査の為に壊され、
そこを通過して上層階へと進めるようになっていました。





志免炭鉱竪坑櫓
志免炭鉱竪坑櫓/1階から見る櫓内部

下から櫓を見上げると、
ずっしりとした幾本ものコンクリートの梁が、
幾何学模様の様に並び、
その隙間から柔らかい日差しが降り注ぎます。





志免炭鉱竪坑櫓
志免炭鉱竪坑櫓/2階X梁

櫓の脚は基本的に縦横の梁だけですが、
2階部分だけXの梁が追加されているのは、
補強の力学からでしょうか。
台風の激しい九州という気象条件を考慮して、
櫓の脚はことのほか頑丈に造られたようです。

また、植物が絡み付くコンクリートの橋脚は、
とても魅力的な、摩訶不思議な光景ですが、
同時にコンクリートの強度を弱める働きもあるとも聞きます。





志免炭鉱竪坑櫓
志免炭鉱竪坑櫓/露出する鉄筋

閉山から約50年、
表面のコンクリートは至る所で剝落し、
内部の鉄筋が剥き出しになっているところが沢山あります。
しかし、この鉄筋の太さと間隔は半端なく、
敗戦間近の日本において、ここまで頑丈な建造物を造れたのは、
やはり海軍が国の威信をかけて取り組んだ証だと思います。

台風によってコンクリート片が飛び散り、
一時は危険構造物として解体の危機にさらされた櫓でしたが、
その後の調査によって表面のコンクリが多少はがれようとも、
躯体が崩れる事はまず考えられない程頑丈に造られている事が判明。
その結果も手伝って、保存の方向へ進んだと説明を頂きました。





志免炭鉱竪坑櫓/ガイドプーリー跡 志免炭鉱竪坑櫓図
志免炭鉱竪坑櫓/ガイドプーリー跡

撮影場所の図も付けました。

実は志免炭鉱の竪坑櫓には階数があります。
ただし1階~5階はすでに見て来た様に脚部分なので、
横に梁がある場所を階数と数えているようです。
最初に床がある階は6階で、ここはガイドプーリーと呼ばれる、
直径4mの滑車があった階です。
現在では櫓内の装置は完全に撤去されていますが、
その溝の大きさからも、滑車の迫力が目に浮かびます。
穴を覗き込むと、25m下の坑道の入口が遠くに見えます。





志免炭鉱竪坑櫓/ブレーキ施設跡 志免炭鉱竪坑櫓図
志免炭鉱竪坑櫓/ブレーキ施設跡か?

7階は一部分が中6階的な構造にもなっていていますが、
その端にあるのは、位置と形からして、
おそらくひとつ上の階のメインプーリのための、
ブレーキ関連施設だと思います。
(確かではないので、いずれ調べてみようと思います。)






志免炭鉱竪坑櫓/メインプーリー室 志免炭鉱竪坑櫓図
志免炭鉱竪坑櫓/メインプーリー室

いよいよ櫓の心臓部。、メインプーリーのあった8階です。
外からは四角い窓が並んでいるとしか見えませんが、
5段分ある窓の上3段がブチ抜きで天井の高いスペースだとは、
想いもしませんでした。
しかしそう思って改めて外観を見てみると、
確かに、上部の四角い窓の下2段と上3段の間隔が違い、
上3段の方が間隔が狭くなっているのに気がつきます。

志免炭鉱竪坑櫓外観
参考:志免炭鉱竪坑櫓外観

メインプーリー室の話に戻って、
一つ前の画像の床、中央の穴が、
直径5mのメインプーリーが設置されていた溝、
そしてその左隣の直角に拮抗する穴が、
東芝製のモーターが設置されていた場所です。
また左奥が運転室、中央奥がエレベーターホール。





志免炭鉱竪坑櫓/運転室 志免炭鉱竪坑櫓図
志免炭鉱竪坑櫓/運転室

運転室は、これだけの規模の竪坑を操るには、
いささか小さい気もしますが、
おそらく操業時は最新鋭のコンソールが置かれて、
操作していたんだと思います。
ただし図でもお分かりの様に、外にはみ出した部屋なので、
ちょっと不安は感じたかもしれませんね。





志免炭鉱竪坑櫓/エレベーター 志免炭鉱竪坑櫓図
志免炭鉱竪坑櫓/エレベーター

蛇腹式開閉ドアと針式階数板が郷愁を誘うエレベーターは、
主に人員の移動に使われたようです。
コンクリートの脚は一見均等のようにみえますが、
建物の南の隅だけ他の脚より太く、
その太い部分がエレベーターシャフトになっています。

志免炭鉱竪坑櫓/エレベーターシャフト

右側の太い柱がエレベーターシャフト。
その隣に、1~6階の非常階段も見えます。

ところでこの画像は櫓の南西面、
また前出の画像は反対側の北東面の姿で、
櫓はどこから見ても魅力的に見えるかと思いきや、
これら2面の幅が17mなのに対して、
北西面と南東面の幅は13mと、
平面は長方形の形をしていて、
13mの南東面はこんな感じ。

志免炭鉱竪坑櫓/エレベーターシャフト

かなりいただけないっすorz
「志免炭鉱竪坑櫓」で画像検索しても、
この面だけを撮影した画像は殆どアップされていません。
やはりみなさん、アップするのを止めるのでしょうか…



★ ワンダーJAPAN _ vol. 11★

  

志免炭鉱竪坑櫓内部レポート 地上50mの《異空間》
オープロジェクトによる志免炭鉱竪坑櫓のリポート。
このブログに掲載中の画像以外の画像を含め、
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国鉄専用の炭鉱だったことから、
鉄道廃墟としてのアプローチで、
志免炭鉱のパートを収録。

志免鉱業所竪坑櫓 #02

2012-01-17 06:15:40 | 産業遺産
福岡県の福岡空港にほど近い、
糟屋郡志免町にある旧志免鉱業所竪坑櫓。
コンクリートのロボットの様なルックスとともに、
激動の20世紀を今に伝える炭鉱の巨大竪坑櫓を、
シリーズでお送りします。

ところでウェブ等で志免炭鉱竪坑櫓関連の記事を読んでいると、
「ワインディングタワー式のハンマーコプフ型竪坑で、
1000馬力ものケーペ捲きを持ち~」
といった説明を目にしますが、
これっていったいなんのこっちゃ?
さっぱりわかりませんよね。
なので、実際に櫓を登る前に、
そのあたりをちょっとまとめてみました。


1.ワインディングタワー式

まずは「ワインディンタワー式」について。
ワインディングとは「巻き上げる」「巻き取る」の意味で、
捲上機がタワーの上部に設置されている構造を、
ワインディングタワー式と呼んでいるようです。
前回の記事でも少し触れましたが、
国内の炭鉱の多くは捲上機が独立して地上にあるタイプで、
これがランドワインディング式。
ワインディングタワー式の櫓は、
この志免炭鉱の櫓以外には三池炭鉱の四山竪坑など、
国内ではほんの数基しか造られませんでした。

ちなみに海外では
ワインディングタワーという単語は単に櫓のことをさすらしく、
産業建築写真で有名なベッヒャー夫妻の炭鉱シリーズの写真でも、
特にタワー上部に捲上機を乗せていない櫓に対しても、
ワインディングタワーとタイトルをつけています。
→ 例1 例2

逆に、海外のサイトで櫓の上に捲き上げ機を設置した構造は、
「tower mounted hoist」などと紹介されているのを多く見かけます。
「櫓に設置された捲き上げ機」なのでこれなら分かりやすいですね。


2.ハンマーコップフ型

次に「ハンマーコップフ型」について。
これは「~型」という言葉からもわかるように櫓の外見の形状。
kopfはドイツ語で「頭」。
つまりハンマーヘッドだったら分かりやすいんですが、
ドイツの技術だったんで、日本語訳もドイツ語のままにしたんでしょうか。
志免炭鉱の櫓はハンマーコップフ型としては変形タイプなので、
ちょっとハンマーヘッド感がありませんが、
世界の他のハンマーヘッド型の櫓を見ると、
確かに上部が両方に出っ張っていて、ハンマーヘッド感があります。

志免の櫓の建設に大きな参考となり、
現在でも現存している同じ形の櫓が、
中国撫順の龍鳳炭鉱にあります。
みに・ミーの部屋『満州写真館 撫順』(ページのかなり下の方)

画像を見ると、
上部がバランス良く左右に張り出しているのがわかりますが、
これは、2基の捲上機を設置しているからですが、
志免の櫓の場合は、捲上機は1基なので、
本来はバランスが悪くなる所を、
要塞の様にいろいろな出っ張りを造る事で、
バランスを保っているようです。

龍鳳炭鉱の櫓は志免の櫓よりも7年早い、
昭和11年(1936)に建設されています。
志免町教育委員の徳永博文氏が、
龍鳳の櫓を視察された際のリポートがアップされています。
中国撫順炭鉱の竪坑櫓(PDFをダウンロード)
それによると、
櫓は煉瓦造りで、高さは志免より少し高い63mであることなど、
櫓の克明な記述が綴られていますが、
なべて言うと志免の櫓と同じ構造だそうです。


ちなみに北海道の羽幌炭鉱の竪坑櫓も、
志免と同じく捲上機を櫓の上に設置した構造、
すなわちワンディングタワー式ですが、
志免や龍鳳のように、剥き出しのハンマーコップフ型ではなく、
頑丈な鉄骨脚と捲上機室をまるごと直方体の建造物で覆う形です。
これはワインディングタワーの進化系で、
「ビルタワー型」と呼ばれるようです。

羽幌炭鉱竪坑櫓
羽幌炭鉱竪坑櫓/櫓鉄骨脚(左)とビルタワー外観

羽幌のワインディングタワー上部の、
捲上機室内部を撮影した (しかも解説付!)、
貴重な映像がUstreamにアップされています。
LEVEL 7G『羽幌炭鉱 ワインディングタワー 巻き上げ室』


余談ですが、志免炭鉱の櫓の敷地に掲示された、
志免町教育委員会の解説板には、
「建物の形はワンンディングタワーといいます」
と書いてありますが、上記の2つのことから、
「建物の形はハンマーコップフ型といいます」
が正しいのではないかと思います。


3.ケーペ

最期に「ケーペ」について。
これは滑車(英語だとシーブとかプーリーなど)とロープを使って、
物を上げ下げする際の原理の1つ、とでもいうんでしょうか。

もともと炭鉱の捲き上げ構造は、
滑車1個に1本のロープをかけ、
ロープの片方に荷物、もう片方にドラムを設置して、
巻き付けたり巻き戻したりする構造が主流で、
要するに釣りのロッドの様な構造でした。

従来のドラム捲上機
従来のドラム捲上機 ※オレンジ色がモーターの接続された滑車

それに対してケーペ式はエンドレスに繋いだロープを滑車に引っかけ、
行ったり来たりさせながら荷物の上げ下げを行なう構造で、
要するに端が繋がっている井戸釣る瓶のような造りです。

ランドワインディングのケーペ捲上機
ランドワインディングのケーペ捲上機

つまりドラム式の捲上機は、
必要距離のワイヤーが巻き付くための、
溝が深く幅も広い大きな巻き取りドラムが必要なのに対して、
ケーペ式は1本ないし数本のワイヤーが行ったり来たり移動するだけなので、
1つの溝の深さと幅は、ワイヤー1本分でことたります。

ケーペ(カール・フリードリッヒ)はドイツの鉱山技術者で、
彼の発明に因んでケーペ巻きと呼ばれるそうですが、
一般的には friction hoist (摩擦捲上機) と呼ばれます。

国内でもこの捲上方式を採用した炭鉱は結構多く、
現存する赤平炭鉱・奔別炭鉱(北海道)や、
三池炭鉱有明坑の第1&2竪坑櫓(福岡県)など、
全てケーペ式の捲上機でした。
ただし捲上機は櫓から離れた場所に設置され、
志免の竪坑櫓のように、
捲上機を櫓の上に設置したものは殆どありません。

ワインディングタワーのケーペ捲上機
ワインディングタワーのケーペ捲上機



志免の解説板には
「捲き上げに使われたモータは1,000馬力もの力があり」とありますが、
龍鳳炭鉱の捲上機は5,500馬力もあったので、
果たして志免炭鉱の馬力が「~もの力があり」と、
自慢出来る程のものだったかは疑問です。

しかし、
捲上機が1基のみのハンマーコップフゆえに造られた外観は、
極めて特殊な形であると同時に、この不規則な頭の形が、
志免の櫓の大きな魅力でもあると思います。

それでは次回から、櫓の上へ登ってみたいと思います。


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志免炭鉱竪坑櫓内部レポート 地上50mの《異空間》
オープロジェクトによる志免炭鉱竪坑櫓のリポート。
このブログに掲載中の画像以外の画像を含め、
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『鉄道廃線浪漫 ~風の声・時の音~』
国鉄専用の炭鉱だったことから、
鉄道廃墟としてのアプローチで、
志免炭鉱のパートを収録。

志免鉱業所竪坑櫓 #01

2012-01-14 01:42:18 | 産業遺産
福岡県の福岡空港にほど近い、
糟屋郡志免町にある旧志免鉱業所竪坑櫓。
コンクリートのロボットの様なルックスとともに、
激動の20世紀を今に伝える炭鉱の巨大竪坑櫓を、
シリーズでお送りします。


志免炭鉱竪坑櫓全景 ※画像はクリックで拡大します

既にオープロジェクトのオフィシャルブログ、
廃墟賛歌ブログではアップしましたが、
その時はワンダーJAPAN掲載記事のプロモーション的な内容でしたので、
今回はワンダーJAPAN誌に掲載しきれなかった画像も含めて、
志免炭鉱竪坑櫓の内部を、隅々までお伝え出来ればと思います。

福岡空港のほぼ真東、空港から車で約10分、
現在では市の福祉センター等がある公園に隣接した場所に、
志免炭鉱竪坑櫓跡はあります。
Mapion

高さは地上約50mあり、櫓に近づくに従って、
その異様なルックスと大きさに圧倒され、
更に目の前で見上げると、
そのずっしりとした重量感が伝わってきます。


志免炭鉱竪坑櫓

志免炭鉱は、国内にあまたあった炭鉱の中でも、
特殊な足跡を辿った炭鉱でした。

まず炭鉱の開削が海軍によってなされたこと、
そして、戦後国鉄(現JR)がその事業を引き継ぎ、
その結果、
開削から閉山まで一貫して国内唯一の国営炭鉱だったこと、
また、現存する櫓がワインディング・タワーと呼ばれる、
世界でも珍しい構造を採用していたこと。


操業時の志免炭鉱

この地域から産出される石炭が、
黒い煙を出さない、いわゆる無煙炭と呼ばれる種類のものだったため、
軍艦の燃料に使っても敵に発見されにくいことから、
それに目をつけた海軍が明治39年(1906)に採掘を開始。
明治から昭和の帝国時代を根底からささえ、
軍事の重要施設としての役割を担いました。
やがて地底深くの石炭を採掘する計画が進み、
そこで造られたのが当時最新鋭だった、
ワインディング・タワー式のこの竪坑櫓です。


志免炭鉱竪坑櫓の断面図

炭鉱の竪坑櫓(たてこうやぐら)とは、
竪坑(たてこう)、すなわち地中に垂直に掘り進んだ穴に、
ケージと呼ばれる籠を昇降させて、
作業員や採掘した石炭を上げ下げする機械で、
いわば地中エレベーターのようなものです。

炭鉱の一般的な竪坑櫓は、
捲き上げ機が櫓とは別の場所にあり、
櫓の頂点から斜めにワイヤーを張って、
ケージの昇降を行なう構造でした。

それに比べてワインディング・タワー型というのは、
現在のエレベーターのように、
昇降機が籠の真上に設置されて、
そこから昇降の操作が行なわれる形のもので、
専有面積が破格に狭くて済むという利点と同時に、
修理の際に、部品をその都度上げなくてはならない、
とう欠点もありました。

結局ワインディング・タワー式の竪坑櫓は、
三池炭鉱(熊本)の四山竪坑や貝島炭鉱(福岡)の大之浦竪坑など、
数カ所で造られるにとどまり、歴史から姿を消します。

最新鋭の櫓を完成させた海軍でしたが、
時は終戦間近の昭和18年(1943)のこと。
軍事施設として殆ど活躍する事なく敗戦をむかえます。

戦後まもなく国鉄の管理下におかれ、
蒸気機関車の燃料として復活をはたすものの、
エネルギー変換の時代とともに、
昭和39年(1964)、志免炭鉱は閉山を迎えます。


志免炭鉱竪坑櫓/坑口跡

画像は櫓中心部の直下にあたる竪坑の坑口跡。
かつて地底深く430mの竪穴が口を開けていた場所は、
今ではまったくそんなことが分からないくらい奇麗に塞がれ、
植物が生い茂ってました。






志免炭鉱竪坑櫓/坑口跡

竪坑口の横に残るレールの跡。
地底から籠に乗って運び上げられたトロッコは、
地上に出ると、レールに乗って、
各種の処理施設へと運び出されました。






志免炭鉱竪坑櫓

竪坑の中心から櫓を見上げたところ。
かつては中央の穴から何本ものワイヤーロープが垂れ下がり、
ギシギシと音をたてながらケージを昇降していたのだと思います。

次回からは徐々に上の階へ登りながら見て行こうと思います。



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志免炭鉱竪坑櫓内部レポート 地上50mの《異空間》
オープロジェクトによる志免炭鉱竪坑櫓のリポート。
このブログに掲載中の画像以外の画像を含め、
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『鉄道廃線浪漫 ~風の声・時の音~』
国鉄専用の炭鉱だったことから、
鉄道廃墟としてのアプローチで、
志免炭鉱のパートを収録。

細倉鉱山 #06

2011-10-18 05:43:51 | 産業遺産
宮城県の北部、奥羽山脈の東側の麓にある、
細倉鉱山のシリーズです。
前回に引き続き、鉱山住宅跡。

鉱山の南東、佐野地区と呼ばれる所に、
嘗ての幹部職員用の「佐野社宅」が残っています。Mapion

この社宅群は、実際に使われなくなった直後に2007年に
映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
のオープン・セットとして使われたために、
かなりの部分で手が加えられてしまっています。

前回の記事では、
当時の姿を留めてると思われる場所をアップしましたが、
今回は、
オープン・セットとして作り込まれてしまったと思われる場所を中心に、
アップしようと思います。



入口から入るとまず目に入って来るのがこの光景です。
最初は嘗ての商店の名残かと錯覚しますが、
この部分は建物も含めて全てオープンセット。
しかし、いくら近ずいて見ても、
建物の壁や扉など、並んで建つ当時の建物と比べても、
まったく遜色がありません。







この一角は、当時の建物の外観を利用しながら、
主に看板だけ付け加えて、
商店街にしてしまったエリア。
昭和かどうかは分かりませんが、
雰囲気のある街並にはなっています。







映画での居酒屋に改造されてしまった建物。
居酒屋のセットは確かに良く出来てますが…







電柱に設置された看板の傷み具合等、
TDR並みの気合いの入り様です。
右側に写る建物は棟割長屋ですが、
幹部職員の住宅で棟割りは考えられないので、
これは建物自体もセットで造られたものじゃないでしょうか。







敷地の奥には、社宅街で一番大きな、
鉱長さんの社宅があります。
建物は実物ですが、
奥の「西島炭鉱」と描かれた事務所は書き割りです。
映画の舞台は筑豊炭鉱で、
西島炭鉱も架空の炭鉱なので、
細倉鉱山とは全く関係ない世界ですね。







一般公開では室内も見学ができます。
これもどこまでが実際のものかは分かりませんが、
段差のある土間や竃など、
貴重な光景を見る事はできます。







部屋をもう一つ。
鏡台や炬燵櫓など、これらも今では見る事のなくなった、
日本の家具ですね。
ただ鏡台に布がかかってなかったり、
炬燵やぐらが剥き出しで部屋に置いてある等、
なかなか不思議な光景だとは思いますが。



佐野社宅は無料で一般公開されていましたが、
3.11の震災以来見学は出来なくなってしまっているようです。
1日も早く復興してくれるといいですね。

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細倉鉱山 #05

2011-10-16 18:12:57 | 産業遺産
宮城県の北部、奥羽山脈の東側の麓にある、
細倉鉱山のシリーズです。
今回は、現在も残る嘗ての鉱山住宅跡。

鉱山の南東、佐野地区と呼ばれる所に、
嘗ての幹部職員用の「佐野社宅」が残っています。Mapion

昭和の初期の頃に建てられ、
平成16年(2004)まで実際に使用されていた社宅群です。
更に平成20年(2007)には、
映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』
のオープン・セットとして使われ、現在は観光名所となっているため、
取り壊しを免れた貴重な社宅群です。

オープン・セットは、社宅群の至る所を改造し、
勝手なイメージを作ってしまっている所も多々ありますが、
その辺は次回アップするとして、
今回は当時の姿を残しているだろうと思われる場所を中心に、
アップしようと思います。



段違いの板塀、板張りの壁、
雨よけが付けられた玄関、
幹部用職員の社宅だけあって、
どの建物も造りがとても丁寧です。







右手前に写る木製の塵箱は、もしかしたら、
映画のオープンセット用に作られたものかもしれませんが、
ともあれ現代では殆ど失われてしまった街並が、
ここでは見る事ができます。







庭の垣根、木製の縁側、そして木製の物干。







縁側があり、内側には障子の仕切りがあって、
外側は木枠のガラス窓、
左端には雨戸の戸袋がみえます。
私は生まれも育ちも東京ですが、
子供の頃、こんな家に住んでいたのを思い出します。







佐野社宅は全て幹部職員用の住宅ということで、
どの家も手の込んだ造りの一戸建ですが、
一般の鉱員の方々は主に三軒長屋と呼ばれる、
棟割長屋に住んでおられたそうです。
鉱山資料館のエントランスには、
学生さんが制作した精密な三軒長屋の模型があり、
当時の生活の様子を知ることができます。







鉱山の生活を知るにはちょっと特殊な建物ですが、
昭和の息吹は十分に感じられる貴重な住宅群です。







住宅街の裏手には、
取り外されたくり電の信号機が横たわっていました。

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細倉鉱山 #04

2011-10-15 01:24:45 | 産業遺産
宮城県の北部、奥羽山脈の東側の麓にある、
細倉鉱山のシリーズです。



˚細倉鉱山の守り神、山神社。Mapion
元々は1800年の初頭に、
山伏達によって建立された神社だそうです。
奉られているのは山の神と鉱山・精錬の神。







前回の記事で触れたように、
細倉鉱山は、当初この辺りから採掘が始まりました。
鬱蒼と茂る林の中に佇む神社は、
修験者達の息遣いも感じる雰囲気を漂わせます。







参道階段の両脇には、
当時の献納物が今でも沢山残っています。
これはその一つの灌盤。
「灌盤」は聞き慣れない単語ですが、
手水(ちょうず)と同じ様なものでしょうか。
側面に「大阪銅御吹屋 鍵屋忠蔵」と掘られています。
吹屋とは銀や銅の精錬をする仕事で、
細倉の鉛が、大阪まで運ばれて、
精錬業者に使われていた証拠だそうです。







高橋勘五郎の狛犬。
ちょっと剽軽な顔の狛犬ですね。







参道階段には草が茂り、
あまり人が訪れていないことを物語っています。
今でも鉱山開きや山神祭の時には祈祷されるそうですが、
それでも訪れる人は少ないのだと思います。







山頂に鎮座する神殿。
屋根や正面の回廊以外は、
1800年初頭の、建立当時のままだそうです。







神殿の横には、小さな祠があります。
細倉山神社のお告げで発見に至った、
大土ケ森鉱山を奉っての祠だという事ですが、
ガンプラがお供えしてある理由は、わかりません。

何百年もの歴史を持つ細倉鉱山の、
栄枯盛衰を見守り続けて来た細倉山神社。

現代の都市部でも、
朝な夕なに神社の入口で拝礼をする方をよく見かけるので、
日本ではまだまだ神道が根強い人気があるのがわかりますが、
命を預ける仕事だった鉱山の守り神は、
ことさら大事にされたことと思います。

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