黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

細倉鉱山 #03

2011-10-14 00:09:43 | 産業遺産
宮城県の北部、奥羽山脈の東側の麓にある、
細倉鉱山のシリーズです。



前回アップした細倉鉱山の富士竪坑の周辺には、
他にも幾つかの水平坑道の跡が残っています。
薮の中にひっそりと残る、
坑道の入口をコンクリートで固めた、
比較的新しい時代の印象をうける坑口跡。







こちらはノミ掘りの跡が残る、
比較的古い時代の印象の坑口跡。







更に時代が遡った、
「たぬき掘り」と呼ばれる坑口跡。このあたり→Mapion
たぬき掘りを見たのは、
北海道の幾春別炭鉱のもの以来ですが
幾春別より遥かに時代も古く、
とても小さな穴です。
ためしに体を当ててみましたが、
曲技団状態でやっと通れるくらいの大きさなので、
当時の日本人の体が小さかったのだと思います。







この付近には「かもじ坑(かもじしき)」と呼ばれる、
伝説のたぬき掘りも残っています。

かもじ坑の伝説

ある日のこと、
若い夫婦の金掘りが細倉に流れ着き採掘を始めたが、
掘れど進めど良い鉱脈に当たらなかった。
時は流れ、ついに米も油もなくなってしまった。
なんとか掘り続けさせたいと願った妻は、
命より大切な黒髪を切り落とし、
それをかもじ(つけ毛)屋に売り、米や油を買った。
夫は妻の愛情に心をうたれ、再び掘り始めた。
間もなくのこと、ついに念願の鉱脈を掘り当てる事ができた。
それから人々は、この坑を「かもじ坑」と呼ぶ様になった。

ウゥ、泣ける話や…(T.T)







上記の伝説は、坑口横の解説板によりますが、
これだと金脈を当てた様に読み取れます。
しかし『細倉鉱山史』に記述された話では、
掘り当てたのは鉛の鉱脈で、
かもじを売って手に入れたのも米や味噌と、
若干の違いが見られます。







細倉鉱山資料館には、
その様子を伝えるイラストが展示されていますが、
実際はここまで広くはなく、
また世界記憶遺産の山本作兵衛氏の絵と同様、
ここまで明るくはなかったと思います。

いずれにせよ、鎚と鏨だけでの手彫りのみ。
その涙ぐましい苦労が偲ばれます。

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細倉鉱山 #02

2011-10-13 02:15:45 | 産業遺産
宮城県の北部、奥羽山脈の東側の麓にある、
細倉鉱山のシリーズです。



細倉鉱山にはかつて3つの竪坑があり、
その一つはマインパークとして見学坑道に再生されていますが、
ちょっと山の奥に入った富士地区の富士竪坑は、
現在も操業時を彷彿とさせる雰囲気です。
このへんだったかな。→Mapion
上部は塞がれていますが、
現在でも坑道自体はそのまま残っているようです。







竪坑に隣接する弾薬庫。

富士竪坑は明治22年に開削されたそうですから、
100年以上もの歴史があるんですね。







中はご覧の様に、素彫りの狭い空間です。

鉄道産業が20世紀で終わりを告げたのと同様、
地底産業もまた機械化によって、
採算ベースの所まで全て掘り尽くされた結果、
20世紀で終焉を迎えた産業の一つだと思います。







竪坑の付近には、画像の様な水平坑道の跡もあります。







竪坑の周囲には、こんな施設もありましたが、
これは何だかわかりません。







ちょっと離れた所には、
排水施設の小屋がありました。







小屋から流れ出ていた排水溝を見ると、
真っ赤に染まっていたので、
鉱山関連の浄化排水施設かと思いますが、
詳細はわかりません。

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細倉鉱山 #01

2011-10-12 02:56:29 | 産業遺産
宮城県の北部、奥羽山脈の東側の麓にある、
細倉鉱山のシリーズです。



前回までアップして来たくりはら田園鉄道。
その終点の細倉マインパーク前駅の先には、
かつての大亜鉛鉱山であり、
経産省認定の近代化遺産群33にも選定されている、
細倉鉱山があります。→Mapion
採掘作業は1987年に終了し、事実上閉山していますが、
今でも施設を利用して、都市鉱山の再生などを行なっています。







鉱業所内の見学をしようと思って申し込みましたが、
さすがに当日の見学は無理の様で、
隣接する細倉鉱山資料館→Mapion
で予習することにしました。
敷地内にはかつての人車や鉱車などが展示され、
産業資料館の見学心を盛り上げてくれます(笑)







昭和初期のろうそくカンテラ。
あまりにカッコよすぎるデザインですが、
命の危険と隣り合わせの職場を照らすライトだと思うと、
過酷な労働条件だったことが偲ばれます。

細倉鉱山は16世紀の後半に銀山としてスタートし、
17世紀の後半には鉛の産出に力を入れる様になったそうです。







幕末の頃は隆盛を極め、
江戸時代として破格の大きさ(約6cm四方)の、
「細倉当百(とうひゃく)」という地方硬貨も作られたそうです。
基本的には鉱山内での使用だったそうでうが、
地域の通用硬貨としても使われたそうです。







昭和の初期に使われていた、
水中で撹拌沈殿させて鉱石を選別する選鉱ジッガー。
館内には鉱山の歴史が、テキストと写真で、
丁寧に解説されています。







大正時代に使われていた亜鉛精錬変流器、
とかいう装置だそうですが、
電気?鉛?って感じで、全然わかりません。
ただ、近代化産業の息遣いは、
とっても伝わって来ます。






画像はクリックで拡大します

電気も鉛も全然わからないんで、
ついついこういったものに目がいってしまいます。
特に鉱山には関係なく、
当時、こういった言葉遣いをしていた、
という参考だそうですが、
なんでまたこんな顔にしたんでしょうね?

「かばねに就いて」「つらに就いて」の「ついて」って、
こんな字を書いたんですね。
「くびた」「ももた」「あしのべら」「けつめど」「ほねから」
どれも衝撃的です。







当然ジオラマコーナーもあります。
マネキンを流用したからか、
作業員が全員、イケメンのヨーロッパ人でした。

尚、細倉鉱山の見学は、
併設された細倉マインパークがメインだと思いますが、
この時は廃線のロケがメインだったので、
マインパークへは行かず、
周囲を散策することにしました。

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「‘文化’資源としての炭鉱」展と「映像の中の炭鉱」

2009-11-13 05:07:21 | 産業遺産
東京の目黒美術館で「‘文化’資源としての炭鉱」展が開かれています。
戦前の産業近代化と戦後の経済復興から高度経済成長に大きく貢献した石炭産業。
その「炭鉱文化」を、視覚文化を通して読み解くと同時に、
「炭鉱」という主題が視覚芸術にどう影響したのかを検証し、
さらに炭鉱地域の活性化や再生化について共に考えるエキシビション。
炭鉱に関する作品や資料の展示他、
川俣正の「コールマイン田川」プロジェクト報告のインスタレーションなど。

「‘文化’資源としての炭鉱」展
場所:目黒美術館
会期:2009年11月4日(水)~12月27日(日)
会場:ABC展示室、展示ロビー、ワークショップ



同時に、
今野勉氏(演出家・脚本家)× 川俣正氏(美術家、本展企画委員)の対談をはじめ、
様々な講座も開催。
世界遺産にする会理事長の坂本氏による講演や
『1972青春軍艦島』でおなじみの大橋氏による対談と、
軍艦島関連の講座も2つ用意されています。

‘文化’資源としての<炭鉱>展 スペシャル講座
<夜の美術館大学コールマイン・アート学科>

●講座番号 4:「軍艦島を世界遺産に!」
日時:11月17日(火) 18時30分~20時00分
講演:坂本道徳(NPO軍艦島を世界遺産にする会理事長)

●講座番号 13:対談「軍艦島で、凝視めた青春」
日時:12月17日(木) 18時30分~20時00分
対談:大橋弘(写真家)+ 聞き手:本展担当学芸員

会場:目黒区美術館展示室ならびにラウンジ
時間:18時30分~20時00分 
定員:各回30名
参加費:1,200円
    展覧会招待券1枚、お茶+スイーツつき。
参加費は受講日当日美術館受付にて。 
申込方法:電子メール or FAX
     参加日、講義番号・講師名、申込者の氏名、電話番号
     FAXの場合はFAX番号と電話番号
申込先:目黒区美術館  夜の美術館大学・予約係
e-mail : mmatoffice@mmat.jp
fax : 03-3715-9328



更に、
「‘文化’資源としての炭鉱」展の関連企画として、
映画館<ポレポレ東中野>で炭鉱が関連する記録映画や、
劇映画の特集上映「映像の中の炭鉱」が開催されます。




炭鉱会社のPR映画、炭鉱の実体を記録したドキュメンタリー、
青春映画、怪獣映画、文芸映画など炭鉱が登場するさまざまな映像作品から、
厳選の14作品を上映。

▼詳細はこちら
http://www.mmjp.or.jp/pole2/

▼上映スケジュールはこちら
http://www.mmjp.or.jp/pole2/

▼ポレポレ東中野
http://www.mmjp.or.jp/pole2/



こんなに炭鉱が一堂に見られるなんて、
なんて素晴らしいんでしょう!
垂涎の年末ですね。。。


飯田建機工業 WJ誌に掲載

2009-10-31 13:34:23 | 産業遺産
このブログを始めた初期の頃アップした飯田建機工業が、
ワンダーJAPAN誌 13号 (2009年9月17日発売)に掲載されました。
小島氏の忌明けと長崎さるくシリーズが重なって、
超遅めのインフォメーションですが、
まだご覧になっていない方は是非どうぞ!
以下、WJ誌の没画像でおさらいをしたいと思います。



千葉県のほぼ中央、のどかな村の中に忽然と現れる、
かつて東洋一の規模を誇った巨大砂選機。
操業時は薄緑色に塗装されていたんでしょうが、
動かぬ鉄の塊と化した砂選機は、
真っ赤に錆び付いて夕日を浴びていました。
背高粟立草がとてもよく似合いますね。





砂選機を真下から見上げると、
巨大な昆虫の腹の中に包み込まれたような錯覚を覚えます。







砂選機の隣に建つ浄化用沈殿槽。
これもまた砂選機に負けずとも劣らない巨大さ。







砂選機や沈殿槽があるメインの場所から、
少し離れたところに眠っていた巨大クレーン。
地面に垂れたワイヤーの先が植物で固定され、
クレーンが眠りについてからの時の経過を、
物語っていました。






ワンダーJAPAN13号の巻頭特集は、表紙にもなっている円筒分水。
これ、凄過ぎ!
また砂選機も掲載されている「南関東ワンダー」は、
千葉を中心にしたワンダースポットの紹介。
銚子電鉄とかも、いい感じです!


煉瓦温室の廃墟

2009-06-18 05:21:08 | 産業遺産
仕事で湘南へ行きました。
早めに仕事は切り上げて、かねてより撮影しておきたかった、
江ノ島のサムエル・コッキング苑へ。
サムエル・コッキング苑は南国系のさまざまな植物が育つ植物園ですが、
といっても別に植物に興味があるわけではなく、
目的は園内に残る煉瓦温室の廃墟です。



ポンペイの廃墟、といったらかなり言い過ぎですが、
園内の一角に大規模な煉瓦温室の廃墟が残っています。
サムエル・コッキング苑は、明治15年 [1882] に、
アイルランドの貿易商サムエル・コッキングさんによって建造された、
国内で3番目に古い植物園。



その後園内に煉瓦造りの温室が建造されるも、
関東大震災で崩壊。
昭和24年 [1949] の植物園改修の際に、
地中に埋められてしまった温室の基礎が、
平成14年 [2002] の改修で発見され、公開にされることになった、
現存唯一の煉瓦温室の廃墟です。



地下空間はたまに公開されるようですが、
この日は偶然開いていたので見学が出来ました。
地下通路はボイラー室と貯炭庫へ続いているようです。





地下通路へ入ってみると、
右側の壁にくりぬかれたスペースがありますが、
案内板によると水性の植物を飼育していた水槽だそうです。





地下通路はTの字型になっていて、
更に奥へ進むとボイラー室と貯炭庫があります。
煉瓦壁に群生するシダがいい感じです。





暗いトンネルの更に先にある貯炭庫。
左側の壁面が黒いのは石炭の煤の跡でしょうか。

ここに石炭を備蓄し、隣のボイラー室で蒸気を作っては、
園内に張り巡らした鉄管や鉛管を通し、
温室全体を24度に保っていたそうです。
天井にあいた穴は、石炭を庫内に投入する窓。
ここから石炭を落としては蓄え、
ボイラーを炊き続けたんですね。


廃養鶏場

2009-05-13 02:32:11 | 産業遺産
先日、普賢岳の大野木場小学校をアップしましたが、
その行く道すがら突然現れた廃養鶏場。



細長い施設が8棟並び、
すべてが廃墟と化していた養鶏場跡です。





入り口付近。
施設の後方にたくさんの緑が見えますが、
各棟の間から育った植物が、
屋根を越えて育っています。




1棟の入り口。
施設は木造ですが、鶏のかごは金網製です。
施設に近づくとほのかに鳥の餌臭が漂います。




施設内部を見てみると、
両側にずら~と金網篭が並び、
その手前に細長い餌といが並んでいます。
かつては昼な夕なにコケーココとうるさかったんでしょう。




ずっと以前の記事で書いたかもしれませんが、
親戚の家の周囲には養鶏養豚の農家が多く、
子供の頃そこへ行くたびに、
その芳しい香りにクラクラしたものです。

あるお盆の晩、
親戚の子供たちと盆踊りへ出かけたものの、
途中ではぐれてしまい、不慣れな夜道を一人で
親戚の家まで帰らなくてはならないはめになりました。
街道から一筋中へ入るともう街灯もなく、
あたりは漆黒の闇です。
上を見上げて木と木の間の、
濃紺の空の色をたよりに帰るしかないんですが、
途中、夜中の突然の訪問者にびっくりしたのか、
木々で眠る鳥たちが一斉に飛び立ち、
こっちも相当びっくりさせられたのを思い出します。
やがて芳しい香りが鼻をつくようになり、
その後木立の中に灯りが見えてきて、
やっと親戚の家の近くへたどりついたと知りました。

廃養鶏場から漂う仄かな香りを嗅いだときに、
この時のことがリアルに思い出されました。

音楽は、それを聞いていた時代を思い出させてくれますが、
同様に臭いも、特殊な体験のものなら、
その記憶の瞬間に一気にトリップできるものなんですね。


オラガビール工場跡 #07

2008-04-10 00:48:23 | 産業遺産
リンクさせて頂いているRoc写真箱さんの記事で、
最近解体されたのを知ったオラガビール工場跡。

昨日までは工場跡をアップしましたが、
最後に工場跡を全方位から見てみようと周囲を歩いた時に、
目にとまったものです。



オラガビール工場跡の隣にある工場の施設。
こういったのがあると、ついつい撮影してしまいます。







すぐ隣は鶴見川です。
堤防の内側には、木造平屋一戸建て、
飲料水完備、階下へ降りる梯子付きの、
サバイバル・ハウスが建っていました。
やはり、
こういったのがあると、ついつい撮影してしまいます。


オラガビール工場跡 #06

2008-04-09 02:31:07 | 産業遺産
リンクさせて頂いているRoc写真箱さんの記事で、
最近解体されたのを知ったオラガビール工場跡。



反対側にまわって、高台から眺めてみました。
アシンメトリーな造りで、少し低い方の屋上には、
空中庭園らしきものが見えます。
実際に屋上に立ってみると、
どんな感じだったのかと想像します。





日本のビールの発祥の地、横浜。
その地で、一瞬にして生まれては消えたビールを造った工場は、
その工場自体も解体されてしまったわけですが、
これって、
横浜のビールの歴史がひとつなくなった、
っていう事だとも思います。


オラガビール工場跡 #05

2008-04-08 04:42:41 | 産業遺産
リンクさせて頂いているRoc写真箱さんの記事で、
最近解体されたのを知ったオラガビール工場跡。



昨日の記事で少し触れた急勾配の外階段は、
近くで見る程信じられない勾配で、
なんでここだけ外階段にしたのか、疑問が残ります。




そしてメインの出入口と思われる場所の上部に残るレリーフ跡。
さて、このマークは何のマークのレリーフなんでしょう。

この工場は、
かつて大正の中期に日英醸造という会社が設立したビール工場。
そしてカスケードビールという銘柄を売り出すものの、
経営不振で寿屋(現サントリー)に転売。
サントリーはあとを受け継いで、新カスケードビールとして販売するも、
翌年ネーミングを変えて「オラガビール」として発売。
しかし、これもうまくいかず、歴史にごく短い足跡を残して永久に消えた、
短命のビール工場、だそうです。

少なくとも新カスケードビールの商標オラガビールの商標
そして一時期「響」をデザイン化したマークを除いて、
一貫してサントリーの社章として使われる向獅子マークには見えないので、
これは日英醸造のものか、それとも、
サントリー撤退後使用いていた、妙高企業の社章か。
気になります。


オラガビール工場跡 #04

2008-04-07 00:15:57 | 産業遺産
リンクさせて頂いているRoc写真箱さんの記事で、
最近解体されたのを知ったオラガビール工場跡。
今日からオラガビール工場跡です。



要塞のようなルックス良し、壁の剥落具合良し、
ズガーンとした存在感があります。
なんとなく横浜の根岸競馬場一等観覧席跡を連想します。







近くで見ると、
柱や屋根など、細部に気を配った造りをしているのがよくわかります。
それにしても設置された外階段は、
勾配や高さからいって、かなり怖かったはず。


オラガビール工場跡 #03

2008-04-06 00:44:18 | 産業遺産
リンクさせて頂いているRoc写真箱さんの記事で、
最近解体されたのを知ったオラガビール工場跡。
最寄り駅の京急鶴見市場駅から、
工場までぶらぶら歩いているうちに目にとまったものを、
工場跡をアップする前に2、3。









昨日アップしたトタンの要塞の画像の背後に写る、
コンクリの塊のようなビルも気になります。
壁面に大きく会社のネームプレートが掲げら、
敷地内に建っているのを見ると、
社員の為の寮として使われている様にもみえます。
もっと海に近い土地よりは産業エリア的な臭いが少ない場所ですが、
そんな中では工業地帯らしい雰囲気を醸し出す一角です。


オラガビール工場跡 #02

2008-04-05 14:58:38 | 産業遺産
リンクさせて頂いているRoc写真箱さんの記事で、
最近解体されたのを知ったオラガビール工場跡。
最寄り駅の京急鶴見市場駅から、
工場までぶらぶら歩いているうちに目にとまったものを、
工場跡をアップする前に2、3。









以前トタンを多用した物件(こんなのとかこんなの)を、
いくつかアップしましたが、
この物件も負けず劣らずの存在感です。
傾いたアンテナは、電波受信の角度を探した結果か、
それともすでに用済みということか。


オラガビール工場跡 #01

2008-04-04 14:56:23 | 産業遺産
神奈川県の鶴見は、
以前鶴見線石油支線のシリージで取り上げましたが、
石油支線が走る海側とは反対の内陸側、
鶴見川沿いにあったオラガビール工場跡が解体されたと、
リンクさせて頂いているRoc写真箱さんの記事にあったのでびっくり。
記事>『クリスト・オラガ』『オラガビール跡 裏から失礼
(※クリスト・オラガ・・・なるほど、確かに!)

そこで
いつかアップしようと思いながら放置していた画像をさっそくひっぱりだしました。

まずは京急鶴見市場からオラガビール工場跡まで、
ぶらぶらと歩いていくうちに目にとまった物件を3つアップし、
そしてオラガビール工場跡をアップしていこうと思います。



鶴見線沿線同様、この一帯も大小の工場が目立つので、
こういった飯場的な店がよく似合う街です。


築別中学校 #04

2008-02-12 03:30:20 | 産業遺産
北海道の築別炭鉱にあった築別中学校。
最後は綺麗な紅葉です。



訪れたのは9月下旬でしたが、既に完全な紅葉で、
北海道の底力を知りました。







もしまだ校舎があるとしたら、
今ではかなり葉に覆われて、
紅葉する時には、真っ赤になると思います。

2005年の築別中学校を見つけました。
4回に分けてアップして来た画像と、
同じ被写体を撮影されたものが多いので、ご紹介します。
めぐみのホームページ1000 / 旅行記 / 築別中学校

校舎横の車はひしゃげ、
体育館への渡り廊下の屋根は、完全になくなっています。

◆ 築別中学校 ◆ [1] [2] [3] [4]