随分と更新をしてませんでした。
告知記事はアップしたものの、記事らしい記事はいつかと見ると、
なんと1年半前(ヒーーーーーッ)
ということで、再び、ぼちぼちとアップしていきたいと思いま~す!
◆
かつて東京にあった3大スラムを歩きました。
スラム。。。およそ平成の世には似つかわしくない響き。
しかし、江戸の中期から先の大戦後まで、
東京にはいたるところにスラム、すなわち貧民窟が点在していました。
全盛期は明治の中期から昭和初期の頃。
すなわち日清戦争から始まる、
帝国ニッポンが戦争の時代へ突入していった時代です。
戦争によって国力を増強していった日本でしたが、
その裏に激しい貧富の差を生み出し、
都内の各所に貧民窟をうみだすこととなります。
最も規模の大きかった貧民窟は、現在の新宿区の南東にありました。
かつて鮫河橋(あめがはし)と呼ばれた、
現在の若葉1~2丁目、および南元町の界隈で、
駅でいうと、JRの信濃町と四谷、
および地下鉄の四谷三丁目に囲まれたエリアです。
■概略地図■
横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
それでは信濃町駅界隈かスタートし、
まずは南元町のエリアから見ていきます。
クリックで画像拡大
信濃町駅の南東、
外苑東通りに隣接して下る坂道があります。
ご覧のように、坂上からたもとが見えないほど急峻な坂です。
なだらかな傾斜の多い東京にあって、
かなり深い谷となっているのがわかります。(概略地図:1)
クリックで画像拡大
坂のたもとへ降りると、千日坂と書かれた碑が立っています。
谷底にあった一行院千日寺に由来する坂道で、
元来あった千日坂は1906年(明治39年)の新道造成の時になくなり、
現在の坂道は、その時にできた、いわば新千日坂となります。
坂のたもとまで来ると、
隣接する外苑東通りや首都高新宿線の喧噪もあまり聞こえません。
それだけこの谷が深いのだと思います。(概略地図:1)
クリックで画像拡大
千日坂を降りた地点から、
東へ向って緩やかな蛇行をしながら続く道。
この道の両側に、かつて多くの細民長屋が建ち並び、
多くの貧民が暮らしていたといいます。
現在では公明党本部をはじめとした党の関連施設や、
創価学会の関連施設が密集し、
いわば“池田村”を形成していますが、
それ以外は、なんの変哲もない住宅街で、
かつて都内きっての貧民窟があった場所とは、
想像もできません。(概略地図:2)
クリックで画像拡大
JR線および首都高新宿線の南側にそって、
ゆるやかに蛇行する道を東へ進むと、やがて香蓮寺に辿り着きます。
香蓮寺の門前には、地中に埋まった石橋が。
そう、谷といえば川筋ですね。
信濃町から千日谷を下って歩いて来た道沿いには、
かつて、千日谷の谷頭付近に端を発する細流がありました。
この石橋はその名残です。(概略地図:3)
クリックで画像拡大
細流には、さらに細い川筋が流れ込んでいたようで、
道沿いには幾つもの暗渠跡が確認できます。
付近には、戦後の頃に建てられたと思われる木造住宅も散見しますが、
もはや貧民窟があった名残はどこにも見つけることはできません。(概略地図:3)
続く
告知記事はアップしたものの、記事らしい記事はいつかと見ると、
なんと1年半前(ヒーーーーーッ)
ということで、再び、ぼちぼちとアップしていきたいと思いま~す!
◆
かつて東京にあった3大スラムを歩きました。
スラム。。。およそ平成の世には似つかわしくない響き。
しかし、江戸の中期から先の大戦後まで、
東京にはいたるところにスラム、すなわち貧民窟が点在していました。
全盛期は明治の中期から昭和初期の頃。
すなわち日清戦争から始まる、
帝国ニッポンが戦争の時代へ突入していった時代です。
戦争によって国力を増強していった日本でしたが、
その裏に激しい貧富の差を生み出し、
都内の各所に貧民窟をうみだすこととなります。
最も規模の大きかった貧民窟は、現在の新宿区の南東にありました。
かつて鮫河橋(あめがはし)と呼ばれた、
現在の若葉1~2丁目、および南元町の界隈で、
駅でいうと、JRの信濃町と四谷、
および地下鉄の四谷三丁目に囲まれたエリアです。
■概略地図■
横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
それでは信濃町駅界隈かスタートし、
まずは南元町のエリアから見ていきます。
クリックで画像拡大
信濃町駅の南東、
外苑東通りに隣接して下る坂道があります。
ご覧のように、坂上からたもとが見えないほど急峻な坂です。
なだらかな傾斜の多い東京にあって、
かなり深い谷となっているのがわかります。(概略地図:1)
クリックで画像拡大
坂のたもとへ降りると、千日坂と書かれた碑が立っています。
谷底にあった一行院千日寺に由来する坂道で、
元来あった千日坂は1906年(明治39年)の新道造成の時になくなり、
現在の坂道は、その時にできた、いわば新千日坂となります。
坂のたもとまで来ると、
隣接する外苑東通りや首都高新宿線の喧噪もあまり聞こえません。
それだけこの谷が深いのだと思います。(概略地図:1)
クリックで画像拡大
千日坂を降りた地点から、
東へ向って緩やかな蛇行をしながら続く道。
この道の両側に、かつて多くの細民長屋が建ち並び、
多くの貧民が暮らしていたといいます。
現在では公明党本部をはじめとした党の関連施設や、
創価学会の関連施設が密集し、
いわば“池田村”を形成していますが、
それ以外は、なんの変哲もない住宅街で、
かつて都内きっての貧民窟があった場所とは、
想像もできません。(概略地図:2)
クリックで画像拡大
JR線および首都高新宿線の南側にそって、
ゆるやかに蛇行する道を東へ進むと、やがて香蓮寺に辿り着きます。
香蓮寺の門前には、地中に埋まった石橋が。
そう、谷といえば川筋ですね。
信濃町から千日谷を下って歩いて来た道沿いには、
かつて、千日谷の谷頭付近に端を発する細流がありました。
この石橋はその名残です。(概略地図:3)
クリックで画像拡大
細流には、さらに細い川筋が流れ込んでいたようで、
道沿いには幾つもの暗渠跡が確認できます。
付近には、戦後の頃に建てられたと思われる木造住宅も散見しますが、
もはや貧民窟があった名残はどこにも見つけることはできません。(概略地図:3)
続く
新刊『東京ディープツアー』を作ってたんで、
全然アップで来ませんでした〜(汗)
これからもぼちぼちアップできればって思いま〜す。
「貧民窟」は、
シリーズの最後でちょっと宣伝してる雑誌『実話裏歴史』で記事を書くことになって取材しました。
そしたら、思いのほかいろいろ発見があったんで、アップすることにしました。
↑
若葉2〜3丁目 では?
あの通り沿いですから、若葉2〜3丁目でしたね。