ほとんど建築的な装飾がみあたらない軍艦島の建物の中で、
かろうじて散見する時代を伝える建築装飾を、
シリーズでお送りしようと思います。
◆
シリーズの1と2でお送りしたスクラッチ・タイルほどではありませんが、
他の建物にも建築的な装飾を見つけることができます。
画像は日給社宅とよばれる、
1918(大正7)年に最初の工事が完成した集合住宅。
国内初の鉄筋集合住宅「30号棟」の成功を受けて、
その2年後に建設された、より規模の大きな集合住宅で、
最終的には細長い5棟の建物を、
海側の廊下でつないだ、櫛形をした建物です。
9階建は当時国内最高層の鉄筋コンクリート造ビルで、
島民からは「9階建」の愛称で呼ばれていました。
大正時代に完成した居住棟は、
30号棟と同様、特に建築的な装飾はありません。
日給社宅の装飾は5棟をつなぐ大廊下棟の階段に見ることができます。
これが日給社宅大廊下棟の外階段。
当初大廊下棟は抜けがいい開放的な造りでしたが、
各棟の岩礁寄りに施行されていた共同便所が不衛生だったため、
1937(昭和12)年に、大廊下棟に移動します。
この時に、外階段も造り直されたと思われます。
日給社宅外階段の真横からの光景。
親柱にあたる四角いコンクリートの柱に、
細長いくぼみが施されているのがみてとれます。
これはフルーティングという建築技表で、
柱感をより強調するために、古代より行われてきた基本的な装飾ですが、
20世紀の初頭に、そのエッセンスだけが残ったものといえるでしょう。
◆
同時代のフルーティングを2例、アップしておきます。
左は、大正末から昭和初期に竣工した東京の跨線橋「駒込橋」の親柱。
右は、昭和7年に竣工した茨城県の「水戸低区配水塔」の玄関柱。
いずれも、柱に長方形のフルーティングが施され、
この時代特有のデザインを今に伝えています。
大廊下棟への出入用階段は2箇所あり、
これは南寄りの階段です。
造りや装飾は北寄りの階段とほとんど同じで、
その向きが違うだけです。
費用対効果が最も重要視される炭鉱、ひいては資源産業。
およそ無駄な出費は極力避けて運営されていたはずですが、
そんな中、戦前の建物に建築的な装飾が見られるのは、
この階段のような手間のそれほどかからない装飾を施すことが、
根深く浸透していたことの現れでもあると思います。
かろうじて散見する時代を伝える建築装飾を、
シリーズでお送りしようと思います。
◆
シリーズの1と2でお送りしたスクラッチ・タイルほどではありませんが、
他の建物にも建築的な装飾を見つけることができます。
画像は日給社宅とよばれる、
1918(大正7)年に最初の工事が完成した集合住宅。
国内初の鉄筋集合住宅「30号棟」の成功を受けて、
その2年後に建設された、より規模の大きな集合住宅で、
最終的には細長い5棟の建物を、
海側の廊下でつないだ、櫛形をした建物です。
9階建は当時国内最高層の鉄筋コンクリート造ビルで、
島民からは「9階建」の愛称で呼ばれていました。
大正時代に完成した居住棟は、
30号棟と同様、特に建築的な装飾はありません。
日給社宅の装飾は5棟をつなぐ大廊下棟の階段に見ることができます。
これが日給社宅大廊下棟の外階段。
当初大廊下棟は抜けがいい開放的な造りでしたが、
各棟の岩礁寄りに施行されていた共同便所が不衛生だったため、
1937(昭和12)年に、大廊下棟に移動します。
この時に、外階段も造り直されたと思われます。
日給社宅外階段の真横からの光景。
親柱にあたる四角いコンクリートの柱に、
細長いくぼみが施されているのがみてとれます。
これはフルーティングという建築技表で、
柱感をより強調するために、古代より行われてきた基本的な装飾ですが、
20世紀の初頭に、そのエッセンスだけが残ったものといえるでしょう。
◆
同時代のフルーティングを2例、アップしておきます。
左は、大正末から昭和初期に竣工した東京の跨線橋「駒込橋」の親柱。
右は、昭和7年に竣工した茨城県の「水戸低区配水塔」の玄関柱。
いずれも、柱に長方形のフルーティングが施され、
この時代特有のデザインを今に伝えています。
大廊下棟への出入用階段は2箇所あり、
これは南寄りの階段です。
造りや装飾は北寄りの階段とほとんど同じで、
その向きが違うだけです。
費用対効果が最も重要視される炭鉱、ひいては資源産業。
およそ無駄な出費は極力避けて運営されていたはずですが、
そんな中、戦前の建物に建築的な装飾が見られるのは、
この階段のような手間のそれほどかからない装飾を施すことが、
根深く浸透していたことの現れでもあると思います。