かつて東京にあった3大スラムを歩くシリーズ。
前回に引き続き、四谷にあった鮫河橋(さめがはし)の貧民窟です。
常に飢えと伝染病、そして強盗におびえながら暮らしていた貧民窟での唯一の救いは、
貧民窟の住民が思いのほか人情に厚かったことでしょうか。
明治30年代に貧民窟の窮状を記した横山源之助の『日本の下層社会』には、
近隣に葬式があると、生活の困窮も顧みず仕事を休んで参列して、
悲しみを分かち合う様子が描かれています。
■概略地図■
横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
前回は概略地図中央周辺の暗渠道界隈を歩きました。
今回は、メイン通りへ戻ってから若葉の北部地区を歩き、
靖国通りへと抜けます。
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道は商店街の北端から西側へ蛇行していきます。
道沿いに幾つもある細道の一つを奥へ進むと、
高い石垣に行く手を阻まれた袋小路。(概略地図:19)
この付近の路地は、いずれも行き止まりです。
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袋小路の突き当たりには、
石の構造物の上に設置された小さな祠がありました。
すでにご神体が遷座されて長く経つのでしょうか。
扉も壊れかけの廃墟状態です。
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暫く進むと道の両側に坂のある十字路へでます。
進行方向右側の坂は、隣接する寺院に因む東福院坂。
また東福院坂の反対側は、暫く谷底の平坦な道が続き、
やがて高い階段に突き当たります。
階段の上から谷底と東福院坂を眺めると、
鮫河橋の谷がいかに深いかがよくわかります。(概略地図:20)
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階段を登った先にあるのは須賀神社。
江戸時代の初期、寛永年間に赤坂から遷座したと伝えられる神社で、
これまでアップしてきた貧民窟のエリアはもとより、
靖国通りを挟んで四谷四丁目から四谷駅、北は荒木町一帯までの総鎮守様です。
対面する谷頭に並ぶ寺とともに、
貧民窟の時代を見て来た神社といえるでしょう。
石段のほぼ終点、神社の境内へ入る直前の石垣に、
「四ッ谷鮫河橋 揔(=惣)氏子中」と掘られた石盤が埋め込まれていました。
神社に由来をたずねるも、はっきりしたことはわからないとそっけない返答なので、
神社のウェブサイトを見たところ、
東京大空襲の折りに失われた部分を、戦後、氏子崇拝者が復興させたとあります。
その時の記念として残したものでしょうか。
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須賀神社から戻り、再びメインの通りを北上すると、
左手に現れるのが日蓮宗の日宗寺。(概略地図:21)
このエリアにある寺は、そのほとんどが丘の上にありますが、
この寺だけはは谷底にあるのが特徴です。
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寺に隣接した空地の隅に、
貧民窟に並走していた桜川の、もう一つの源流がありました。
こちらも若葉公園の源流とおなじく、
ほとんど生活排水路の様相ながら、
その水流は澄んでいて綺麗です。
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日宗寺の先は円通寺坂へ通じます。(概略地図:22)
既に、東福院坂の麓から日宗寺にかけて緩やかな登り道だったので、
谷底からいくぶんか高い位置へ来ていたのでしょう。
円通寺坂はそれほど傾斜もきつくなく、距離もそれほどありません。
鮫河橋の中では、もっとも緩やかな傾斜地です。
坂を登りきると靖国通り新宿通り。
※DEC. 20, 2017 : unknownさんのご指摘で修正
通りには多くの車が往来し、歩道にもたくさんの人が行き交います。
そこには、慣れ親しんだ東新宿の光景がありました。
■
東京23区のほぼド真ん中に位置する深い谷。
かつてそこにあった都内最大の貧民窟の現在を歩きました。
次回は、三大貧民窟の二つ目、浜新網町へ行きます。
前回に引き続き、四谷にあった鮫河橋(さめがはし)の貧民窟です。
常に飢えと伝染病、そして強盗におびえながら暮らしていた貧民窟での唯一の救いは、
貧民窟の住民が思いのほか人情に厚かったことでしょうか。
明治30年代に貧民窟の窮状を記した横山源之助の『日本の下層社会』には、
近隣に葬式があると、生活の困窮も顧みず仕事を休んで参列して、
悲しみを分かち合う様子が描かれています。
■概略地図■
横線のエリアがかつての貧民窟。
付近の google map はこちら
前回は概略地図中央周辺の暗渠道界隈を歩きました。
今回は、メイン通りへ戻ってから若葉の北部地区を歩き、
靖国通りへと抜けます。
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道は商店街の北端から西側へ蛇行していきます。
道沿いに幾つもある細道の一つを奥へ進むと、
高い石垣に行く手を阻まれた袋小路。(概略地図:19)
この付近の路地は、いずれも行き止まりです。
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袋小路の突き当たりには、
石の構造物の上に設置された小さな祠がありました。
すでにご神体が遷座されて長く経つのでしょうか。
扉も壊れかけの廃墟状態です。
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暫く進むと道の両側に坂のある十字路へでます。
進行方向右側の坂は、隣接する寺院に因む東福院坂。
また東福院坂の反対側は、暫く谷底の平坦な道が続き、
やがて高い階段に突き当たります。
階段の上から谷底と東福院坂を眺めると、
鮫河橋の谷がいかに深いかがよくわかります。(概略地図:20)
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階段を登った先にあるのは須賀神社。
江戸時代の初期、寛永年間に赤坂から遷座したと伝えられる神社で、
これまでアップしてきた貧民窟のエリアはもとより、
靖国通りを挟んで四谷四丁目から四谷駅、北は荒木町一帯までの総鎮守様です。
対面する谷頭に並ぶ寺とともに、
貧民窟の時代を見て来た神社といえるでしょう。
石段のほぼ終点、神社の境内へ入る直前の石垣に、
「四ッ谷鮫河橋 揔(=惣)氏子中」と掘られた石盤が埋め込まれていました。
神社に由来をたずねるも、はっきりしたことはわからないとそっけない返答なので、
神社のウェブサイトを見たところ、
東京大空襲の折りに失われた部分を、戦後、氏子崇拝者が復興させたとあります。
その時の記念として残したものでしょうか。
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須賀神社から戻り、再びメインの通りを北上すると、
左手に現れるのが日蓮宗の日宗寺。(概略地図:21)
このエリアにある寺は、そのほとんどが丘の上にありますが、
この寺だけはは谷底にあるのが特徴です。
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寺に隣接した空地の隅に、
貧民窟に並走していた桜川の、もう一つの源流がありました。
こちらも若葉公園の源流とおなじく、
ほとんど生活排水路の様相ながら、
その水流は澄んでいて綺麗です。
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日宗寺の先は円通寺坂へ通じます。(概略地図:22)
既に、東福院坂の麓から日宗寺にかけて緩やかな登り道だったので、
谷底からいくぶんか高い位置へ来ていたのでしょう。
円通寺坂はそれほど傾斜もきつくなく、距離もそれほどありません。
鮫河橋の中では、もっとも緩やかな傾斜地です。
坂を登りきると
※DEC. 20, 2017 : unknownさんのご指摘で修正
通りには多くの車が往来し、歩道にもたくさんの人が行き交います。
そこには、慣れ親しんだ東新宿の光景がありました。
■
東京23区のほぼド真ん中に位置する深い谷。
かつてそこにあった都内最大の貧民窟の現在を歩きました。
次回は、三大貧民窟の二つ目、浜新網町へ行きます。
○新宿通り
そうですよね!
さっそく訂正いたしました。
そうとはとは知らなかったので、検索してみました。
野村芳太郎監督の『東京ド真ン中』でしょうか?
今度観てみようと思います!
情報、ありがとうございました!
2016年に、若者の間で大流行りした「君の名は」です。
「聖地巡礼ツアー」といって、若葉近辺が賑わったようですよ!
アニメ『君の名は』でしたか(汗)
そうですよね『東京ド真ン中』では、
聖地としてめちゃくちゃ賑わったりしないですよね(笑)
『君の名は』もまだみていないので、今度観てみます!
ありがとうございましたm(_ _)m
四ッ谷鮫河橋 ⚪︎聯 氏子中
だと思います。
ご指摘コメント、ありがとうございます!
氏子中の前についている文字でございますが、
当初アップしていました「聰」はタイプミスでしたが、
おそらく惣の旧漢字「揔」ではないかと思いますがいかがでしょうか。