二十代のころ趣味で陶芸をやっていた時のことです。
私はまだ習い始めたばかりで、手捻り(てびねり。ロクロをつかわず
手で作るもの)ばかりを作っていました。
先生が妙に「味がある、味がある」と誉めてくれるのですが、
自分ではなんだか、もっちゃりとして格好悪いなという気がして、
先生が何を良しとしてくれているのかさっぱり理解できませんでした。
1年ほどしてロクロを触るようになり、
どうにかブレずに中心の通ったものができるようになってくると、
だんだん見えて来たんです、「真円」が。
町で売られている茶碗でも、たとえ工場生産の物でも、
すっきりとした「真円」のものとわずかに歪んでいる物との
違いが感じられるようになって来たのです。
そうすると今度は、初めの頃のいびつな作品の良さも
じわっとわかるようになってきました。
■「感じる」と「できる」
何かができるようになる(Do)ということと、
何かを感じられる(Feel)ようになるということは、
いつも同時進行です。
感じられるとは、感覚の目盛(めもり)を細かくしていくことであり、
感覚できる領域を広げることでもあります。
このことなしに、「できない」から「できる」へ移行することはありません。
また、「感じない(わからない)」から「感じる(わかる)」までの間には、
無数のトライ&エラーが隠されていて、
意識に上らない領域での試行錯誤が実はたくさん行なわれているはずです。

《緑香庵のベランダも夏です》
声の修行をやっていた頃(われながら経歴に脈絡が無いなあ)、
ヴォイストレーナーの先生に「2週間でまず耳が変わる。」と
言われたことがあります。
まず耳が変わって、然る後に自分の発声が変わってくる。
なるほど、 CDから聞こえる歌い手たちの声の聴こえ方が
変わってくるのが自分でも分かった瞬間がありました。
まるで「体の様子を聴いている」ような、
またそれを自分の体の中で再現しているような、
不思議な感じでした。
そういう瞬間にすかさず声を出すと、面白いようにコピーできました
(ワンフレーズくらいなら)。
ふと我に帰るとすぐできなくなるのですが。
そういう時は、耳で聴いて脳で処理して再現してという感じではなく、
体全体でキャッチして体全体でアウトプットするという感じになるのです。
■最近やっとわかってきたこと
さて、これらのこと全てに共通するのが、言い古されたことではありますが、経験する「量」と「時間」の必要性です。
量にはもちろん質の側面も含まれます。
特に今感じるのが「時間」の要素。
緑香庵を始めてようやく1年になろうとしています。
拙い私の技術でも喜んでくださるお客様がいること、
何度もリピートして来てくださる方がいること、本当にありがたいです。
そんな中で、私の「Feel」にもそれなりの変化がやってきています。
1年前にはわからなかったこと、
学校で先生からいくら言われても実感として理解できなかったこと、
そういうことのいくつかが、トリートメントしながら
最近少しわかるようになってきました。
それが何か具体的に言葉にすることが出来ないのですが、
強いて言うなら、知識としての骨の形、筋肉の位置が、
人の体のシステムとして全体的にしっくり手に感じられる
ようになってきたというか、
手から得られる情報量が格段に増したというか…。
手だけではなく目も。
たとえばわずかに硬直して血行不良になっているような部位が、
見た目の違和感としてキャッチできるようになったというか…。
■いつでも「途中」ですが...
まあ、とにかく上手く言葉にならないのですが、
それとともに私のアウトプットがどう変化していくのか、
自分でも楽しみなところです。
いつもお客様の前に立つ私は「途中の」私で申し訳ないのですが、
それでもその時点では生涯最高に仕上がった状態なので許してください。
もっと成長して、明日はよりよいトリートメントができるように、
「途中の」私は頑張らなくちゃね。
私はまだ習い始めたばかりで、手捻り(てびねり。ロクロをつかわず
手で作るもの)ばかりを作っていました。
先生が妙に「味がある、味がある」と誉めてくれるのですが、
自分ではなんだか、もっちゃりとして格好悪いなという気がして、
先生が何を良しとしてくれているのかさっぱり理解できませんでした。
1年ほどしてロクロを触るようになり、
どうにかブレずに中心の通ったものができるようになってくると、
だんだん見えて来たんです、「真円」が。
町で売られている茶碗でも、たとえ工場生産の物でも、
すっきりとした「真円」のものとわずかに歪んでいる物との
違いが感じられるようになって来たのです。
そうすると今度は、初めの頃のいびつな作品の良さも
じわっとわかるようになってきました。
■「感じる」と「できる」
何かができるようになる(Do)ということと、
何かを感じられる(Feel)ようになるということは、
いつも同時進行です。
感じられるとは、感覚の目盛(めもり)を細かくしていくことであり、
感覚できる領域を広げることでもあります。
このことなしに、「できない」から「できる」へ移行することはありません。
また、「感じない(わからない)」から「感じる(わかる)」までの間には、
無数のトライ&エラーが隠されていて、
意識に上らない領域での試行錯誤が実はたくさん行なわれているはずです。

《緑香庵のベランダも夏です》
声の修行をやっていた頃(われながら経歴に脈絡が無いなあ)、
ヴォイストレーナーの先生に「2週間でまず耳が変わる。」と
言われたことがあります。
まず耳が変わって、然る後に自分の発声が変わってくる。
なるほど、 CDから聞こえる歌い手たちの声の聴こえ方が
変わってくるのが自分でも分かった瞬間がありました。
まるで「体の様子を聴いている」ような、
またそれを自分の体の中で再現しているような、
不思議な感じでした。
そういう瞬間にすかさず声を出すと、面白いようにコピーできました
(ワンフレーズくらいなら)。
ふと我に帰るとすぐできなくなるのですが。
そういう時は、耳で聴いて脳で処理して再現してという感じではなく、
体全体でキャッチして体全体でアウトプットするという感じになるのです。
■最近やっとわかってきたこと
さて、これらのこと全てに共通するのが、言い古されたことではありますが、経験する「量」と「時間」の必要性です。
量にはもちろん質の側面も含まれます。
特に今感じるのが「時間」の要素。
緑香庵を始めてようやく1年になろうとしています。
拙い私の技術でも喜んでくださるお客様がいること、
何度もリピートして来てくださる方がいること、本当にありがたいです。
そんな中で、私の「Feel」にもそれなりの変化がやってきています。
1年前にはわからなかったこと、
学校で先生からいくら言われても実感として理解できなかったこと、
そういうことのいくつかが、トリートメントしながら
最近少しわかるようになってきました。
それが何か具体的に言葉にすることが出来ないのですが、
強いて言うなら、知識としての骨の形、筋肉の位置が、
人の体のシステムとして全体的にしっくり手に感じられる
ようになってきたというか、
手から得られる情報量が格段に増したというか…。
手だけではなく目も。
たとえばわずかに硬直して血行不良になっているような部位が、
見た目の違和感としてキャッチできるようになったというか…。
■いつでも「途中」ですが...
まあ、とにかく上手く言葉にならないのですが、
それとともに私のアウトプットがどう変化していくのか、
自分でも楽しみなところです。
いつもお客様の前に立つ私は「途中の」私で申し訳ないのですが、
それでもその時点では生涯最高に仕上がった状態なので許してください。
もっと成長して、明日はよりよいトリートメントができるように、
「途中の」私は頑張らなくちゃね。