母が東京に移ったのには訳がある。
ある日、伯母(母の姉)に異変が出始め、そんな情報が母に入り始めた。
「待ち合わせに来ないことが増えた」
「人にお金をあげているようだ」
「毎日同じものを食べている」
「鍋を焦がしたりしている」
「銀行の人と喧嘩した」
様々なことがあちこちの人から聞こえ始めて
時々様子を見に行くようになった。
それは15年程前の話。
段々に認知症が進み、通いでは面倒見切れなくなり
そのうち住み着いてしまった。
伯母夫婦には子供がなく、
私たち兄弟は二人からその時々に可愛がられていたと思う。
ただ、伯母には宗教があり、また性格的にも変わった人で、
そんな関係で、大きくなるにつれて兄の他は
なるべく関わらないようになっていった。
母に請われ仕方なく伯母の家に行くと
伯母の理不尽で執拗な叱責に合い、
やはり行くべきではなかったと悲しい気持ちで帰るのだった。
そんなことで、私たち兄弟3人(兄以外)は
若いころはほとんど伯母夫婦との接触を避けて生きて来た。
ところが、伯母が認知症になり、
母が介護に通うようになり、母が大変だということを知ると
兄弟其々自分たちの方法で、関わるようになっていった。
特に伯父が亡くなってしまうと、伯母を抑制できる人がいなくなり、
母一人での介護は難しくなった。
だからといって、頻繁に助けに行くこともできず、
結局伯母は施設に入ることになった。
母は伯母を施設に入れたことをとても気に病み、
自分がしっかり介護すれば在宅で看れたのではないかと
思っていたようだった。
そんな気持ちを察して、伯母が施設に入って以来、
弟は毎週土曜か日曜日に母の家に通っている。
母を連れて伯母の施設に行き、お昼を一緒に食べ、
食材の買い物をして帰った。
感心なことにほとんど毎週続けてくれた。
伯母の状況が変わり、母の肺がんが悪さし始め、、、
母自身の状況も年々変わったが、
弟の介護は変わらず続いていた。
私は弟にすっかり甘えていた。
これまでの10年程はどんなに大変だっただろうか。
仕事もして、子供との遊びもして、介護もする。
疲れるに違いない。
自分の生活はどうなんだろう。
母の家に数日いて、一番心に引っかかったのは、
弟の心の問題だった。
「こんな状況で一人暮らしなんて無理なのに、ご家族は何を考えているんですか」
「小バエがこんなにいたんでは仕事に入れません」
そんなことをケアマネやヘルパーに言われた時、
普通ならやり過ごせるけれど、疲れていたりすると
全部自分に受け止めてしまうかもしれない。
何も言えない家族のことを、
介護に関わる人はもっと分かってほしいと切に思う。
結局、弟とは会えず仕舞いだったのが心に残る。
今回私へのヘルプの内容は
・母の現状を判断する
・今後生活する上での必要なサービスを考え、週間スケジュールを作る
・主治医との連携
・問題点の発掘
母も認知症だ。
段々進んで来ている。
しかも肺がんがあり、脳転移している。
脳にあったがんは数ミリの細かいものだったけれど、
30個もあり、そのうち15個をガンマーナイフで照射した。
今後は1ヵ月に1回の割で、MRIをして様子を見て行く。
今回、主治医との話で、今後のことが少し見えて来た。
病気のこと、生活のこと、同時に考えないと話は進まない。
生活の立て直しを新しいケアマネにお願いして、
家族のことは、北九州から見守ることにした。
母には一人で生活するのが大変だという認識が生まれた。
だけど、誰かの家に移ることは考えていない。
ならばどうしたって一人で暮らして行かなければいけない。
家族は自分たちのできる精一杯をして、
出来ない所はフォーマルケアに依存するしかない。
母には申し訳ないけれど、これが現実だから仕方ない。
母にも頑張ってもらわないといけない。
同じ日本に住んでいるけれど、
やっぱり遠い北九州から東京の母を思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/09/e1c9dfb556259c27da1723ea1ca162be.jpg)
(利用者さんの家から北九州の海を見る)
ある日、伯母(母の姉)に異変が出始め、そんな情報が母に入り始めた。
「待ち合わせに来ないことが増えた」
「人にお金をあげているようだ」
「毎日同じものを食べている」
「鍋を焦がしたりしている」
「銀行の人と喧嘩した」
様々なことがあちこちの人から聞こえ始めて
時々様子を見に行くようになった。
それは15年程前の話。
段々に認知症が進み、通いでは面倒見切れなくなり
そのうち住み着いてしまった。
伯母夫婦には子供がなく、
私たち兄弟は二人からその時々に可愛がられていたと思う。
ただ、伯母には宗教があり、また性格的にも変わった人で、
そんな関係で、大きくなるにつれて兄の他は
なるべく関わらないようになっていった。
母に請われ仕方なく伯母の家に行くと
伯母の理不尽で執拗な叱責に合い、
やはり行くべきではなかったと悲しい気持ちで帰るのだった。
そんなことで、私たち兄弟3人(兄以外)は
若いころはほとんど伯母夫婦との接触を避けて生きて来た。
ところが、伯母が認知症になり、
母が介護に通うようになり、母が大変だということを知ると
兄弟其々自分たちの方法で、関わるようになっていった。
特に伯父が亡くなってしまうと、伯母を抑制できる人がいなくなり、
母一人での介護は難しくなった。
だからといって、頻繁に助けに行くこともできず、
結局伯母は施設に入ることになった。
母は伯母を施設に入れたことをとても気に病み、
自分がしっかり介護すれば在宅で看れたのではないかと
思っていたようだった。
そんな気持ちを察して、伯母が施設に入って以来、
弟は毎週土曜か日曜日に母の家に通っている。
母を連れて伯母の施設に行き、お昼を一緒に食べ、
食材の買い物をして帰った。
感心なことにほとんど毎週続けてくれた。
伯母の状況が変わり、母の肺がんが悪さし始め、、、
母自身の状況も年々変わったが、
弟の介護は変わらず続いていた。
私は弟にすっかり甘えていた。
これまでの10年程はどんなに大変だっただろうか。
仕事もして、子供との遊びもして、介護もする。
疲れるに違いない。
自分の生活はどうなんだろう。
母の家に数日いて、一番心に引っかかったのは、
弟の心の問題だった。
「こんな状況で一人暮らしなんて無理なのに、ご家族は何を考えているんですか」
「小バエがこんなにいたんでは仕事に入れません」
そんなことをケアマネやヘルパーに言われた時、
普通ならやり過ごせるけれど、疲れていたりすると
全部自分に受け止めてしまうかもしれない。
何も言えない家族のことを、
介護に関わる人はもっと分かってほしいと切に思う。
結局、弟とは会えず仕舞いだったのが心に残る。
今回私へのヘルプの内容は
・母の現状を判断する
・今後生活する上での必要なサービスを考え、週間スケジュールを作る
・主治医との連携
・問題点の発掘
母も認知症だ。
段々進んで来ている。
しかも肺がんがあり、脳転移している。
脳にあったがんは数ミリの細かいものだったけれど、
30個もあり、そのうち15個をガンマーナイフで照射した。
今後は1ヵ月に1回の割で、MRIをして様子を見て行く。
今回、主治医との話で、今後のことが少し見えて来た。
病気のこと、生活のこと、同時に考えないと話は進まない。
生活の立て直しを新しいケアマネにお願いして、
家族のことは、北九州から見守ることにした。
母には一人で生活するのが大変だという認識が生まれた。
だけど、誰かの家に移ることは考えていない。
ならばどうしたって一人で暮らして行かなければいけない。
家族は自分たちのできる精一杯をして、
出来ない所はフォーマルケアに依存するしかない。
母には申し訳ないけれど、これが現実だから仕方ない。
母にも頑張ってもらわないといけない。
同じ日本に住んでいるけれど、
やっぱり遠い北九州から東京の母を思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/09/e1c9dfb556259c27da1723ea1ca162be.jpg)
(利用者さんの家から北九州の海を見る)
小説を読むように、引き込まれていきました。
文章がうまいですね。
介護はnashiko さんは専門家のようで、さす
がだと思います。ポイントをきちんと押さえて、テキパキ捌いている感じがします。
うちの母も認知症が進み、、一人暮らしは危
ないと思った頃、私たち兄弟姉妹の家に来る
ことや、施設に入ることを勧めましたが、ガ
ンとして断りました。 ヘルパーさんにも来
なくてよいといったり、気丈なところは人一
倍でした。
その母が今年1月に、添田から大阪に移ったの
は、父の退院(寝たきりですが)で大阪の介
護付高齢者マンションに父を移すことにし、
父の介護に母も一緒に来てほしいといって、
来てもらったものです。従って、母にとっては、住み慣れた家は留守にするだけで、いず
れは戻る意識だったのです。私達、兄弟姉妹は、高齢の両親の人生最後の生活を一緒にさ
せてあげたいという思いで、連れてきており
福岡の家に戻すことは考えていませんでした。
失敗だったのは、胃ろうをした父と認知症の
母を一緒の部屋に入れることは、危険だった
ことです。 専門家のnashiko さんはお判り
でしょうが、父に口から飲食させてはいけな
いと、散々言っていたのに、やはり食べさせて、誤嚥性肺炎になり、結局、父は一週間も
マンションにいることなく、長期間病院暮ら
しとなったのです。 福岡の家(借家)は、
兄弟姉妹で苦労して、4月初めに、明け渡し
たのですが、母には言えない話になりました。
その後、母が倒れて、亡くなる1週間ほど前に
見舞いに行ったとき、母に「早く直して福岡
の家に帰ろうね」といったら、大きくうなず
きました。 母にとっては、永年住んだ家は
何ものにも代えがたい、やすらぎの場所なの
です。 かといって、一人暮らしを続けてい
たら、今回、母が倒れた病気が起こったとき
誰も気づかず、孤独死になっていたかもしれ
ません。 事実、今回、救急車で運ぶのが、
あと10分遅れていたら、助からなかったと主
治医から言われました。
母の気持ちを大事にしてあげたいという感情と、医療、介護の面からの適切な措置をとい
うの理性とがせめぎあいます。
その意味で、nashiko さんがお母様の認識を
変化させようとしているのは、非常に賢明だ
と思います。
話は変わりますが、北九州の海の写真、海と
遠くの山並み、空のそれぞれのブルーが美し
く、見ていて爽やかな気持ちになります。
以前からnashikoさんの写真を見て、素直に
美しいものを捉えられているなーと感心して
います。
長くなりました。 素晴らしいブログ、楽し
みにしています。
お返事遅くなり申し訳ありません。
私は看護師とケアマネの資格があり、
在宅で、訪問看護を11年、
ケアマネを兼任で4年間しました。
その間、職場の都合で3校からの学生指導や
職場の同僚たちの持ち物の準備、滅菌作業など
雑事に追われ、疲れ果てリタイアしました。
今思うとよくあそこまで出来たものだと感心しますが、
当時は必死だったのかもしれません。
今はデイサービスの管理者で、
それなりに大変ではあるのですが、
楽しさの方が多く、皆さんに感謝して
過ごす毎日です。
母は、電話では元気にデイサービスの初日を
過ごしたとのこと、
少しだけほっとしている所です。
写真はその時々の思いを写しているのだと
友達にも言われましたが、
何気ない日常が写真の中に閉じ込められたら
それはそれで素敵なことだと思います。
もっともっと勉強して
良い写真を撮りたいと思います。
ありがとうございます。