私達の根源は自己保存にあるが、自己保存だけでは強いものだけが生き残ればあとは何でも許されてしまうことになる。
その勝つか負けるかの二者択一が許される世界では、おのずと支配関係が男女平等社会よりも勝ることになる。
それはあたかも幸福を追いかければ手に入らないように、そこには自己保存を超えた英知が必要なのである。
私たちは生かされているのだから、そこからしか自己中心的な態度が正当でないということが理解できないのである。
この世界が地獄であるなら自己中心的で傲慢な態度は善に当たるかもしれないが、いつだって馬鹿にされ犠牲になるのは世の女性達である。
実際、私たちは命を食べて、生かされている現実である。
生命の偉大な芸術はこれまでいかにしてもっともすみやかに自らが自ら以外に自己犠牲をさせるかに尽きる。
人間はこの地球の守護者として生きる権利を与えられているのだから、自己保存だけでは単細胞生物と何も違わず、そんなことを自然界は望んではいない。
自己犠牲といえば、苦痛を伴うもののように聞こえるが、そうではない。ただ、心の中で自己を離れることにある。
般若心経のメッセージにはこう記されている。「命を捨てるのではなく、命から離れるのである」と。
それはイメージである。夫婦が円満なのは、夫が働き者だから良いのではなく、妻が働き者だから良いのでもない。家族が裕福だから幸せなのではなく、お金が無いから不幸なのでもない。運が悪いからどうしようもないのでもなければ、たまたま幸運にめぐり会えたから幸せになったのでもない。夫婦が円満なのはただ一言、「ありがとう」の感謝にあるのだと。
人生は捨てる修行である。とらわれているものから離れることにある。
時に、人生の幸福には、命がけの遊戯でなければ、生きる喜びがわかない時がある。勇気ある大胆な生き様に人は酔いしれるものである。
人生は刺激的だ。それも他人の為に生きる時が一番刺激的だ。
自分が他人に好意を持つのは、相手が何かをしてくれた時ではなく、自分が相手に何かをしてあげたことゆえである。
方法として逆説的であるが、意識的に幸福なしで生きる努力をしてみる。ギブアンドテイクだけでは相手に見返りを与えなければ、すぐに関係がストップしてしまうから、夫は妻の為に、妻は夫の為に自らを離れることによってこそ、逆説であるが個人は解放される。
何かを得るには何かを差し出すのがこの世の道理であるから、捨てなければ何も得らず新しいものが入ってこない「玄語」である。
残酷なまでに正直になれ!、現実を否定し、目をそらしてはいけない。
痛みは神からのメッセージだ!、痛みに立ち向かうことで人格は完成される。
自己犠牲的な態度は自己中心的で感情的に生きている人たちには受け入れがたいものであるが、本能と理性とでは受け入れられる。
どちらにせよ、自己犠牲を避けることは、自己犠牲へと導く。それを避けては生きられない、世に常である。
それに、ガンバルだけでは努力とは言えない。それでは信用と成果は勝ち得ない。努力とは自らを離れることであり、その代償に栄光が与えられるのだ。
事実、命と命には本気で応えなければ、見えない世界観や気づかない成果が山ほどある。これを知らない者たちは生きているとは言わない。生きながらえているのである。中途半端な努力ほど、苦しいだけで終わり、後悔だけがのしかかるものである。
自己犠牲は罪人であるという人もいる。人間は罪人であるには違いないが、ほんの些細な自己犠牲は人格の形成に役立ち、大きな罪を犯さない為の方法でもある。
仏の問う輪廻転生によるカルマとは、自らの犠牲や代償によってすみやかに社会問題を一つ一つ解決に導くことが、解脱となる。苦痛の深手が眠れる真理を蘇らせるのだ。
その勝つか負けるかの二者択一が許される世界では、おのずと支配関係が男女平等社会よりも勝ることになる。
それはあたかも幸福を追いかければ手に入らないように、そこには自己保存を超えた英知が必要なのである。
私たちは生かされているのだから、そこからしか自己中心的な態度が正当でないということが理解できないのである。
この世界が地獄であるなら自己中心的で傲慢な態度は善に当たるかもしれないが、いつだって馬鹿にされ犠牲になるのは世の女性達である。
実際、私たちは命を食べて、生かされている現実である。
生命の偉大な芸術はこれまでいかにしてもっともすみやかに自らが自ら以外に自己犠牲をさせるかに尽きる。
人間はこの地球の守護者として生きる権利を与えられているのだから、自己保存だけでは単細胞生物と何も違わず、そんなことを自然界は望んではいない。
自己犠牲といえば、苦痛を伴うもののように聞こえるが、そうではない。ただ、心の中で自己を離れることにある。
般若心経のメッセージにはこう記されている。「命を捨てるのではなく、命から離れるのである」と。
それはイメージである。夫婦が円満なのは、夫が働き者だから良いのではなく、妻が働き者だから良いのでもない。家族が裕福だから幸せなのではなく、お金が無いから不幸なのでもない。運が悪いからどうしようもないのでもなければ、たまたま幸運にめぐり会えたから幸せになったのでもない。夫婦が円満なのはただ一言、「ありがとう」の感謝にあるのだと。
人生は捨てる修行である。とらわれているものから離れることにある。
時に、人生の幸福には、命がけの遊戯でなければ、生きる喜びがわかない時がある。勇気ある大胆な生き様に人は酔いしれるものである。
人生は刺激的だ。それも他人の為に生きる時が一番刺激的だ。
自分が他人に好意を持つのは、相手が何かをしてくれた時ではなく、自分が相手に何かをしてあげたことゆえである。
方法として逆説的であるが、意識的に幸福なしで生きる努力をしてみる。ギブアンドテイクだけでは相手に見返りを与えなければ、すぐに関係がストップしてしまうから、夫は妻の為に、妻は夫の為に自らを離れることによってこそ、逆説であるが個人は解放される。
何かを得るには何かを差し出すのがこの世の道理であるから、捨てなければ何も得らず新しいものが入ってこない「玄語」である。
残酷なまでに正直になれ!、現実を否定し、目をそらしてはいけない。
痛みは神からのメッセージだ!、痛みに立ち向かうことで人格は完成される。
自己犠牲的な態度は自己中心的で感情的に生きている人たちには受け入れがたいものであるが、本能と理性とでは受け入れられる。
どちらにせよ、自己犠牲を避けることは、自己犠牲へと導く。それを避けては生きられない、世に常である。
それに、ガンバルだけでは努力とは言えない。それでは信用と成果は勝ち得ない。努力とは自らを離れることであり、その代償に栄光が与えられるのだ。
事実、命と命には本気で応えなければ、見えない世界観や気づかない成果が山ほどある。これを知らない者たちは生きているとは言わない。生きながらえているのである。中途半端な努力ほど、苦しいだけで終わり、後悔だけがのしかかるものである。
自己犠牲は罪人であるという人もいる。人間は罪人であるには違いないが、ほんの些細な自己犠牲は人格の形成に役立ち、大きな罪を犯さない為の方法でもある。
仏の問う輪廻転生によるカルマとは、自らの犠牲や代償によってすみやかに社会問題を一つ一つ解決に導くことが、解脱となる。苦痛の深手が眠れる真理を蘇らせるのだ。