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男性生活に貢献する道徳教育が本当に正しいと断言できる社会体制に異議あり。

2015-09-15 | 社会問題
女性美の世界一を決めるミスユニバースにしても、認識の機会でしかない美女モデルたちは、女性立場が実際にどうなっているのかということを、伝えようとする純粋に理論的な立場には何の手がかりも与えていない。

美女たちを不安定な環境に追いやって男性たちに奉仕させる賢いやり方は、そのうち、神さまと女性たちの怒りを買う。

現実はそのような純粋な理論家ではなく、女性たちに対して搾取的なものである。

男性が決める世界一の美女は良いにしても、女性が決めるミスユニバースには思想があり、女性たちが決めるグレイトマザーにこそ大いなる価値がある。

現代社会の欲求はこう言って良ければ、男性本能による欲望社会の仕事ぶりを監視することを放棄し、自らが快楽を得られるための万能システムの出来栄えを自負し満足しているようである。

それゆえ女性にとってはそれがどのように男性生活の役に立つのかという道徳的確信だけで十分なのである。

全体としての自然権と宗教の完全性およびそこから帰結される人間に対する社会恐怖の真実性という教育で形而上学的な前提のもとに考えさせられ混乱させる不完全な方法には弱者と女性と子供たちが犠牲となる。

確かに犠牲は付きものかもしれないが、生贄になるのは決まって美しい女性である。その理由は何なのか?

私達の理性にとって最も好ましい問題解決が現実に選択される正しさであることを証明する為には、道徳の完全性からの良心という原理ではあまりにも弱いと考えていたとしたなら、これは評価すべき認識論的譲歩であろう。

宗教道徳には頭を曖昧にさせ、つまり偏見で満たさなければいけないように、大自然の規則性が社会正義に結び付くのは、直接の接近を妨げる人為性に対立する美しい道徳性による正しい規則性である。

真の宗教家や道徳者は自然という巨大な良心の中に真理を見出すものであるが、現代社会の道徳観念の目指すところは慎重に注意深く取り組んだ倫理の成果は仮説の形式でしか提出されていないのが現状である。

古典的方法論に調整された道徳は社会性の形式を帯び、また科学史とは呼ばれないものの、それ自身は一つの歴史なのである。

道徳教育でより重要なのは、母性的な自然という人間性の良心による信憑性が間接的なものでしかないということに問題がある。

新時代の自己認識に問して決定的となる自然認識と科学技術、所与のものと創られたもの、生死と構築を同値するには男性道徳と女性道徳の混血が救世者のようになる。

道徳と倫理の両者とも、現代社会の摂理の為に働いているとしたら、そこにはまだ混沌があることに気付かねばならない。

たしかに道徳と倫理はそれぞれ特殊な社会体制を創り出しはしたが、現代社会の欲求の産物以外のなにものでもない。

現在する現実への人間性、共存的な関与の価値を引き上げようという一連の動きの一つには、男女の英知の結集がいかに重要かなのである。

それには啓蒙主義者たちの救済と女性たちの協力によって統一観念が浮上するやり方で示される。

道徳による命令と倫理による掟が教育支配として現れるのは、もちろんその必要性がそれ以外の根拠付けられずに、命令のように見えるものが永遠の真理と見なされる時だけであって、変更可能な道徳は法律と同じく成長していくものである。

というのも、そうしなければ服従は、女性だけでは生きられないような認識から生まれる男性社会に移行するからである。

真の道徳的認識だけが、歴史的、事実的に服従の要約を表明してきたものと同じ組み合わせの中にその源泉を持っているのかもしれないという考えを好むあらゆる傾向とまたもや相まみれてしまい、現代道徳を破る者が現代社会の勝者に成り得るというおかしな社会現象ということになる。

道徳にせよ、倫理にせよ、宗教観念にせよ、正しい教育の重要性はその実態が精神に影響を激しく受けさせる恩恵の前提とされているところにある。


古典支配では我々人類はどう良く見たところで、西暦2,000年くらいで人類が滅亡するだろうと言ったノストラダムスの預言はまんざら当たっていないとは思わないし、古くは労働支配で始まり、現在は教育支配という歴史段階にあって何とか人類を維持しているように思えるが、もう少し楽しく美しく生きられる世界概念を持たなければ、現代人らしさが発揮されないどころか過去の偉人たちとの繰り返しによる何の因果によるものか解らず、現代人の生きた証を残せないままこの世を去る歴史物語では少々、つまらない一生であって、どんなに本気で欲求を満たしたとしても充実されないまま「はい、さようなら」で終了するのが本当に正しいのかを考えなければならない時期が来ているのではないだろうか。