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不完全な支配社会には自由と民主主義は与えられないし、男性社会の国民主権では恐怖社会となる。

2015-09-13 | 社会問題
民主主義とイデオロギーの関係には今や非常に密接な相互関係が必要となり、両者の理論的な社会構造はその為しばしば逆説的な定義となる。

民主主義の概念が自律的かつ内在的な成長を遂げることによって最強の思想力の起源による容易な部分から発展するというばかりではなく、同様に国民が望めば何でもありという基準概念のシステムが社会混乱を増すように、民主主義には正しい思想の形式を規定しなくては危険である。

人権とは全ての国民が理解するものでなければ悪用されていることに気付かないにしても、常に私達の目の前に開かれているものである。

目の前にある自然権の証明性に対して頑なな態度をとっていると非難する平和主義者達の人権には自由と義務がセットメニューだ。世界は人権の上に成り立っているのではい。思想の上に成り立っている。

このような人々は自然権に対して盲目的であり、そこに何があるのか気づいていない。自然権から何を見出すかが出来ないのなら、黙って自然権に従うしかない。

開かれた自然権という人権主権を乱用し、その誰でも殺される平等を理解するのに相応しいのはごくわずかな人々だけである。

世界の正常な進行がすっかり明らかにされて初めて異常なものに気付くことが出来るのだが、その一つに無知な者には自由と民主主義が与えられないという事実である。

日本人以外の人権と主権が襲い掛かってくるそれを制限する人々が基本的に願っているのは、泥棒が夜、目を覚ましていない人だけを襲うように、強い者同士によるぎこちない平和を無理やり維持する以外には、支配し管理された平和と軍隊と奴隷制度による、毎日上司の足の裏を舐めるだけのイエローモンキー以外には平和はない。

憲法9条をこの救済の歴史の末期に属するものと黙示録的な前兆と見なすならば、そうした平和主義者だけが自分達の世界の中だけで上司の足の裏を舐めればよいので、その他の真面目な日本人には関わってもらいたくないのが本音である。どこかよそへ行って上司の足の裏を舐めてくれ。

この自然権は自らの意思を持ち、終末へ向かっていることを告げる変貌を経験しているものなので、自然権の中に新しいものが発見されるのも同時に当然のことであって、没落の中から生まれ出てくる新しい人権を約束するものでもある。

新しく発見された平和的な人権その主観的な新しさは自然権そのものの客観的な真理になる。すなわち、自然権の存立が永遠ではない支配的な平和主義によるものではなく、男女共存社会ということの兆候になる。

力関係による救済の歴史による民主主義の分岐点に対する決定的な変化があった訳ではない。それどころか、それ自身が誤っていて疑いがあるという基本命題へと高められているのである。

人類の知恵によって創造された民主主義が同じく他国の知恵によって発達した民主主義と矛盾するはずがないのなら、平和主義の矛盾を危惧する者は、自分自身が真理を捉え損なっていることを自覚するべきであるということになる。

自然権の認識をどこに見出すのかについては現実問題として未解決のままである。

本来ならば日本人こそが独自の思想による、日本の原理を世界に広めるべきであり、和の精神性、文化と伝統、異質な宗教観など日本の思想家や哲学者たちは強い世界統一概念を本気で考えて良い課題である。

女性社会の創設にせよ、日本国の中立国家の設立にせよ、絶対思想による死の恐怖からの解放にせよ、日本人の独自性と異質性が可能する強い世界統一論である。

人類が信頼に足るのは、闘争本能を管理できない人権、死の恐怖から生まれる主権、それによる現代民主主義の末路となるが、古典と現在の不完全な哲学では正しく民主主義が機能しないように、自由には主義や思想、イデオロギーが必要だからである。

自然権の中に隠されているもので表現していないものはこの世界には存在しない。社会が物事を表出する場合、物事を概念化する。

時間と空間に従うしかない私たちの判断力は、主権による民主主義の不完全さと平和憲法にはあまりにも弱者思想なので、古典的平和主義達が見る事が出来なかった夢を見る事が出来る新人類と新秩序に頼らざるをえない。

感覚主義では意味が何を意味するのかを把握できないから感覚主義なのである。

感覚主義というものは全て感情を単純化するので、何が一体間違っているのかということを知らないことに関しては一流なのである。



真の宗教哲学とは男性支配ではなく女性解放にあるが、現在の宗教概念は弱い。

2015-09-12 | 社会問題
現代宗教が争い好きなのは男性支配によるものだが、世界統一には女性たちの統一思想が無ければ達成されない事実である。

暴露しつつある近代社会には独特の作為が内在し、それには二つの観念が不足している。

一つは、女性主導による物事の対象の知恵への拡大を認めることと、もう一つは、今となってはもはや信用を失った前史であるとみなすような人間の古典知識の過去との脱却である。

片方に男性がいて、片方に女性がいる。単純に考えてみても、片方が支配して片側が支配される現代社会が「最高だ」なんてどんな宗教観を持ってすれば正義と断定されるのか、現代人たちは古代人と未来人に試されているのである。

良く解らずにとりあえず行うそのような作為において好まれるのは、後悔や知られざる無知の発見、乗り越えられる限界、突破される壁、問題を大きくしたり分類したりするといった作為である。

人類が方向性を見失う最大の理由には、男性同士による死への恐怖が挙げられるが、ここから目を逸らす為に複数の欲望を生み出しては逃れようとしているのが社会現象である。

この男性社会が生み出す恐怖が示しているのは、標準化された尺度や基準や方向性の概念がほとんど完全に欠けていた現実における方向感覚の問題である。

実際、人は死の恐怖を知ってから人間へと進化して行く過程で、動物と人間との違いはこの恐怖からの解放と理解に目的があるように、社会を力で混乱させて支配することで解決される問題では決して違う。

現代宗教も今では終末や、時代間の境界設定など、こちらの世界とあちらの世界の権限分割に役立つように構成されているが、その張本人でさえもそれが良いのか悪いのか定まらないままに末法思想に混乱している。

宗教書と専門家の奥深くにある種の新しい女性概念という啓示を引き合いに出されて打撃を受ける現代宗教は、女性たちとの共存と言う世界に残された唯一の自然法則、そしてその自然法則が認識にとって最終審判を待つという終末論にとって体制を立て直す。

重要なのは、男女共存社会というこの自然法則を他の様々な理念、あるいは啓示というもう一つの概念に対して何が優遇するのかを、一体どのようにしてこの普遍性を私達社会に受け入れやすいものにするのかである。

自然真理と大いなる啓示という二つの宗教観念の信者にしては、その伝達の正しさが思い込みの問題の全てである限り、宗教闘争において個人の要素はそれ自体として意味が空虚で、全体に奉仕する為に自らが犠牲となるだけの理由としては確信が曖昧でしかない。

その為に、聖戦での犠牲は大いなるものの意思によるものだとする、そのご加護は敵から見ればご加護ではなくただの勘違いであるのだから、現代宗教の歴史とは勘違いの宗教史と記録されることになる。

創設者の構造する女性たちによる新秩序としての社会全体に要素が奉仕するということに疑念を差しはさむ余地はなく、あるのは現代人がそれをやるのか、やらないのかだけである。

世界の新しい国有の評価には、何よりもそれぞれ個人の女性の固有な価値が評価ということに他ならず、各国の事実が全体の悪習を変更できないとする暴力行為の保留を破棄できない国家にこそ問題があって女性たちに問題がある訳ではなく、むしろ犠牲者である。

それにもかかわらずに、現代宗教の先読みは、女性の統一と宗教の完結という約束の地に向けられた預言にいたるまで、支配関係の馬鹿げた細部化が進む過程では決して放棄されずに期待感も薄くなる。

矛盾する様々な社会現象を研究し尽くそうと思うなら、それを自らの足で踏査しなければならないように、こういった知識がなければ、暗い迷路を彷徨い歩くことになる。

男性思想に対する権威ある解釈との葛藤が始まる前に、女性たちは自然法則の理解とその普遍性の正しさを硬直化した博学の形而上学に真っ向から対立させて用いた死の恐怖からの解放による絶対思想の証明が現代人たちの誇りとなる。

現代宗教の魍魎とする方法論考に特有の歴史的役割が、この偽装鑑定には古典学的にも見て取れる。つまり古典を保持しては男性支配となるのは確定している。

男女共存社会は然るべき共同体の持つ哲学思想には、そこから始まる知性と認識する理知とが出会う基準、男性と女性とが出会う基準なのである。

この基準を満たしているかどうかが果たされるのか、というかむしろ疑わしいほどの現代社会であるが、時代が違えば現代人は恐らく火あぶりに合わされる事だろう。

世界の転換期に必要なものは女性たちと仲良くしようとする、たった一度の人生だから、どうせ、いずれは死ぬのだから、どうせ死ねなら女性たちと仲良くした方があの世で待っていてくれている先人たちの冥途の土産になるのである。




女性たちに聞きたい。男性社会で成功して本当に充実していますか?

2015-09-11 | 社会問題
社会を偉大な世界と考えると、現代はその偉大さと到達可能な高みを、そして私たちが世界の共存者的な因果関係によって働きかけながら自己を維持しているという考えとは間違っても、この社会の実態を指し示す責任と役割を持っている。

女性たちの役割の信憑性が高まれば高まるほど、男性と女性のうち男性だけが、この自然と言う社会では十分に満足することが出来ず、女性たちは共存へ導かれるよう男性たちの意思により選ばれてゆく。

出世した女性たちの体験と社会的評価は、新しい世界観として社会性に適合して提供し、本来所持していたものに働きかける真理の所有を即している。

たとえば、あらゆる男性模擬から解き放たれた、女性たちによる社会貢献では、男性たちがその市場の規則に従うのがそれである。

人間社会は本能的な強さや感情的な優しさから成り立っている訳ではないし、理性によって自然との共存を無理やりにでもこじ開けるのに使う理知による独特の中間世界から成り立つものである。

現代社会の中に単なる男性の意志以外の一切の個人的意志が守られていないのなら、というのも、この現代社会の存続と成り立ちは、今なお二千年前の古い考えに縛られている、あらかじめ定められた疑いのなさに包まれているからなのだが、例えば女性の形態や本質において何が尊敬されているのかということを問われることはない。

完全性と唯一性の絶対思想のみが権化される、混乱する死と矛盾する複雑計を用いて、そのことを語られることから実体への扉が開かれるのである。

何かが生成する時にはすぐさま全てのものが生成するということが、死の恐怖からの創造ではなく、命あるものからの創造の概念に込められた真実らしさなのである。

現実にあるものからへの恐怖は、この世界と何か別の世界との差異ではなくて、決定的な裂け目でもなく、これが死の恐怖的な弁神論にとって全ての意味する事柄になる。

女性たちが自己実現を手に入れる為には、好きとか嫌いに関わらずに、男性社会にゴマをすらなければ維持できないが、単に男性に対する絶対的な力を誇示しているのではないという考え方を排除することによって、これまでの現代思想に抵抗してきた。

この差異の中に、自然との共存性という女性社会の到来が成し遂げられることが出来上がるものについての全ての情報があらかじめ刻み込まれているのだから、それを理解し活用する。

現実社会が可能なのは可能なものが全て実現する訳ではない場合のみであり、現実社会はそれを示す表現なのだという形而上学などは、男性社会の生みの親であり、これを超え出る哲学が女性社会の実現には必要だ。

女性が表現する世界。何の表現であるかはともかく、女才の表現としての世界は、普遍的な力がその可能性の全体に対して自己制限をかけられているところからしか生まれることが現代では不可能だが、その不可能を可能に変えるものが、美しさへの追及であって女性社会は途絶えたりはしない。

男性には力強さが、女性には美しさが、芸術には善と悪が同居しているのはなぜかといえば、世界を創り出した創設者がそういう意思をお持ちだったという以外に合理的な理由はないのだから、人間はそれに合理的に同意する以外に説明がない。

女性達が現代社会において感覚的経験で把握できるものは、それゆえ男性社会の矛盾する思弁に従わなくとも、社会について女性たちの意図を表明している創設者の意思の言葉に素直に従えば良いのである。

現実社会の現れ方には無限の知力と無限の美力が有限の芸術作品に集約している限り、大いなる意思について語ることは可能だが、真意について触れることは未だに出来ていない。

現実社会の真意として現れるものは力の絶対的な大きさを制限から外すものなので、まさしく力と相対するものは美的なのである。

男性は女性の代弁者にはなれないが、女性はより深い男性との全てに対して友好的な、共感性といって良く、調子を合わせるのは世のならいである。

創設者の叡智は大自然において自らが顕現する時の協力者を創り出そうとするのだから、創り出された人類は、他の動物たちの助けを借りずに、ありのままの形で創設者の叡智を理解することに集中するのである。これこそ人類史に継続される偉業の特徴となる。

重要なことは全て古典古代が成し遂げられて、現代人に遺してくれているのだから、それ以上は何も新しいことを発見することは出来ないと思わせるものだが、それにも関わらずに言われたこと以外、余計なことを行う者は愚かだという考え方には、現代人はそれほどまでに馬鹿にされて良いのだろうか。

創設者の世界との間の仲介者や二次的な動因が余計なものに成り始めた現代では、人間と救済者の間にある共存的救済を管理する社会制度や、現代宗教と聖者の間にある躾制度、それに男性と女性との間にある感情も複雑で余計なものに成り始めているのである。

愚者が持つその知性の類似性に込められた破壊的な表現は、外的経験から内的経験へ、概念構造から矛盾社会へ、古典古代の権威から人類の発展へと方向を転向させながら、主観において新しい確信を基礎づけるという必要に迫られた現代社会にとって、むしろ精神的な教訓に対して肉体的な経験がどうでも良いものになってしまったこと、思い込みと勘違いによる主観が利己的な自己自身に愛着を感じて、暴露されてしまったその虐めに似た新しい快楽に圧倒されてしまって他を省みなくなり、それによって客観的な主観による優れた明証性の必要がすっかり緩和されてしまったという意味で現代は殺伐感と残忍性が持てはやされてしまっている。

ある意味では、世界概念は自然現象よりも人間の現象に近く、人間世界は主観の反省と、主観の自己発見の領域と、美しい概念の創造にある。

別に重要ではないが、荒々しい本能の開放的な構造に従って行われた充実感は、世界にたった一つしかない種類の独自性であるとしても、それは自己満足である。

その独自性もまた重要な生物多様性である訳だが、その多様性が示しているのは、女性たちが男性組織に入り込む偶然性と必然性いう意味では、誰も異論を唱える者はいないだろう。


正しい宗教観とは何か。一時的な男性崇拝はあるにせよ、社会体制でもそうあるべきなのだろうか。

2015-09-10 | 社会問題
宗教の自由は好むと好まざるとに関わらずに、矛盾する社会を幸福に生き抜くための一つの手段であるはずが、何時からか信者の確保と管理体制が目的とされている。

不安的な社会体制と、自ら考えるのを放棄した者たちにとっては、宗教は格好の隠れ蓑であるが、開祖や教祖にとってはいい迷惑である。まともな信者は僅かしかいないのが現状だ。

理想と現実との分化がいかに苦難に満ちたものであろうとも、またその継続がいかに長い道のりであったとしても、宗教は人間が考え出されたものであり、最初から原型があった訳ではないと考える傾向が女性たちにやがて生じ、その結果、女性たちの自立性や拘束性は犠牲から解放へと向かうようになる。

女性思想によって初めて現実のものとなる世界統一が、支配的で複雑な現代社会から選び出されたものに留まると言われている訳ではないのだが、それにしても現代思想の観念は現代思想の脱却の前提として、その動因である。

宗教観念は不可視なものの中にある可視化がもはや継続不可能な現象の崩壊による混乱する現象になる時に初めて、証言される。

男性の特別な地位が崩されて平均化されてしまわない為には、現代宗教以外の普遍性に自然界との自己啓示という異質な表出関係を無理やり引き受けさせねばならない。

社会現象と宗教概念の説明不足的な形而上学を打ち切って、自然とその根源の理解の為に私たちが共存的と呼ぶことになる関係性に優先権を与えることに成功していなければ、自然と言う母なるものは必然的に重要視され、その全ての対象に向かう方法は、もっぱら形態に即したものによって成されてゆく。

表現を変えれば、世界最古の宗教は女性によって生じたものであって、直観的に生じたものではないというところに理知の価値がある。

現代宗教の基準に従えば、世界は命令によって生じたものであって、技術の力と頭脳を用いた創造行為によって生じたのではないということになるが、それは今後の女性思想によって具体的な体系に合わせられてのことである。

創造の行為には普遍性が見本であり、仮説と案出による創造が一つになるやいなや、社会は原理的にも上部から押さえつけることが出来ない事実になってゆく。

宗教は本来、世界の救済にとっての最大の敵を攻撃すべきなのに、その攻撃を自らも共に受ける事になる。

それと同時に、歴史的に解釈すれば人間の好奇心の領域を開き、それを正当化し、宗教社会に偏った固有の創造性の土台を準備することになる定義も出来上がったのである。

私たちにとっての宗教は鏡であるとして、世界はあらゆる創造されたものには、いわば現実社会のようなものに、私達にとっての鏡であると言われる。

それゆえ、その鏡の中に映し出される現実をありのままに認められるかどうか。男性社会の有り様を、宗教よ、認めよ。そしてそれを自らのことだと知れ。

比類のない現代社会の方法は、人間が地球のガン細胞であるということを単に証明することから離れて、創造者の意味するものからその宗教社会を推定することを可能とみなす点において、男女共存社会の方法となる。

全てについて判断を下すことが出来る知性的な人間は、女性宗教の外部的な美しさの中にその創造者の驚異すべき内的な英知を見て取るとされる。

愚か者はそこで外面的な形態だけに感心するのに対して、賢者は外側から見えるもののその内部に真の英知の深い真理を思いやるのである。

女性宗教はその能力の統一を自らの形式の多様性の中で繰り広げる時、生命を生み出す大自然の法則である母なるものの様に振舞う。

現代は男性社会の行為とその歴史以外に、何に基づくべきなのか、よく分からない。現代社会を賢く学べば学ぶほど、頭が可笑しくなってゆく。

男性社会と女性社会との間にある何の注意も払わなくても構わないような救済の変更不可能な決定性は、それゆえ見直されなければならないのである。



現代の宗教は混乱する男性社会の発展の為のものだが、未来宗教は女性たちの手の上で統一する。

2015-09-09 | 社会問題
現代宗教の行き詰まりも現代社会の行き詰まりと同様に、男性支配の行き詰まりに原因がある。

女性とって何だか違和感のある現代宗教は、元々男性支配時に出来た宗教観念であるから、日本人の目から見ても、現代宗教には何ともし難い違和感を感じる。

ゾロアスターで始まる現代宗教に足りないものとは、女性であり、やはり女性たちが悉く支配された世界観でしかない。

男性世界と支配関係を描く現代宗教の概念は、ある意味統一性を表出する総合的機能を提示していて、これには一種の分析的機能が建て前とされている。

それは残虐な歴史や従順な階級制といった概念に対立することで支えられている時代錯誤であるばかりではなく、解釈学的な誤認でもある。

近代社会の進んだ主観性の条件の元で、ようやく社会は目に見えないものを信じることを止め、もはや直接的なもの、確定的なものをあの世的な代理を務めるものではなく、そういった主観的なものを視野に入れて準備するのが合理的だということが神の意思にかなうのではないかと感じ始めているのである。

男性社会の終末論は、単に観察することに喜びを見出しているだけでもあるが、これは根本的には救済に関して、もはや自由にならないものの安易な娯楽の言い訳でしかない。

終末論の楽しみ方の一つには、その歴史の現場に居合わせることができなかった者であらざるをえないと、そういう形でしか歴史は彼らの対象にはなれないからだが、それとは違った形で歴史との直接的な結ぶ付きを楽しむべきが、男性支配に背を向けることにある種の混乱と歴史的価値の否定が見出されるのである。

神の名にかけて誓うが、神は決して男女差別はしない。神が創り出した性別にケチをつけるとは何様だ。

万人にとっての真なる宗教とは、可能な世界の中で最良の世界を実現させる為に、全ての物事は最良の状態にあるはずだ、という前提から出発する体系を継続する為に、これはダメあれはダメと規制を設ける消去法でもあるが、実際に行っていることは叡智による融合ではなく、力による支配でしかない。

事実、世界が偶然に生じたということに対する反証が提示される時代はいずれも不透明で理解しがたい物語によるものが一般的だ。

一番大切な個人が全体主義的に犠牲を強いる構成部分やそれらの単なる総和や全体を優先させる考えを導入した大智は認めるにしても、特に人間の理性に関しては、その完全性は個々の世界そのものよりも完全であるはずがなく、個人を認識することが、理性の役割でもある。

女性的比喩と社会での自己中心的主義者たちの目的はいつまでたっても幸福と結び付くことは決してなく、祈りや感謝はいけにえに対する慈悲深い言葉にさえ聞き取れる。

いかなる平和主義論者とも決定的に違っているのは、女性の感性が欠けているのに称賛するのは女性達であったかのように、私達が犯す社会の不道徳は直接女性たちに影響を及ぼし犠牲を与えているのに対して、宗教支配としての男女関係は、手段であって目的ではなく、全てを引き受けがたい唯一の分別ある受取人として利用できるものであるその範囲での活用でしかない。

宗教の戒律や啓示に耳を傾けることに基づく根本真理にいかにして到達することができるのかという問題を解かなければならなかったのかが、それゆえ男性的精神の形成過程を、五感という低次の形式から高次の形式への変容して象徴化し、確信を与える形式とすることが出来るどころか、対立を生み出し、分裂するにしても、それは結局、男性固有の内容を持ち拡大された領域を抜け出せずに開拓などできるはずもない。

本来、宗教とは世界に広まるものであるが、そうならないのは力不足が原因ではなく、男性支配に問題があるからだ。

実際、何千年も続いた宗教に女性が代表になれない理由をどう説明するのか。そしてその説明が現代社会における女性差別の理由であり根本原因である。運命を決定するとされるものには実態がないのがそれである。

男性宗教の因果関係に従えば、それは厳密な意味では、霊知的ではなく運命的でもなく、人為的な搾取的である。まして正義とは一切無関係だし、個人の特殊性、天才的閃きとも無関係だと言える。

この世界には原因と結果とはまったく違った別の神々しい関係、すなわち三位一体的な相互依存関係というものもある。

個人の宗教観念はそれぞれの本質に従って完成し、自分自身の活動における他者と協力し合うようにできているはずが、支配的で差別的な意思が組み込まれ、私達が現在、神を象徴的と呼ぶことになる状況は、このような現象と理解を前提としている。

経験的で直接的に接近不可能な事象が他の事象を、つまり知覚できない本来の社会現象を、因果的な責任を負わすことが出来ないように、それを指し示すことが出来ないでいる。

どの宗教法人であっても、どちらの事象も法則、道理、神の概念による共通の根源から生じ、これを唯一絶対神的に発展させているので、共時的には一方が他方の神を侮辱したことにつながってゆく。

この始まりは世の成り行きを通り抜ける始まりに過ぎないかもしれないが、決定論と思われている現在の宗教観念によるものでは、人間の唯一の絶対的真理による啓示が宗教観念によって見出だされにくく、精神と魂の関係では存在と生成の関係に等しくなるあの、霊性による霊知にのみ達成されるものが、それを叶える一部の男性たちと、グレイトマザーである女性たちなのである。

この世の唯一の絶対思想のみが私達の英知であり、恐怖からの解放へと導くものである。

2015-09-08 | 社会問題
真実はいつも納得のいくものとは限らないことをはっきりとさせておかなければならない時がある。

現状を正しく認識できないでいるのは、概念が還元され成立していないからで、現実を説き伏せられないからである。

世界生成の段階的な構成的条件は、現象を直視することであって、創り出した成果を語ることではない。現象と摸造の間を関係づけるものは、何よりもまずその具体性において捉えられなければならない。

この世界にある唯一の絶対として存在するものを直視するのはいささか勇気が必要になるが、いずれにしろその法則からは逃れられないのだから、立ち向かうか目をそらすかのどちらかにしても、人類の英知は未だその領域には踏み込んでいないのが現状である。

世界統一において重要なのは、自然の理解や命の尊厳を必要とするものであるが、世界統一が保証するのは、死法と言う異質な啓示形式なのである。

生命の成りゆきと生命の終末を表出するものが、世界の光景の善的な統一に対応しているからである。

命から発する全ての指示が執行されないと終末も救済も運命さえも到来できないのは、命の活用から生じる法則であって、失うことは与えられるものよりも実は重要な真理だということにある。

創造される為に真なるもの全てが与え尽くされてなお、最後に与えられるものは無であって矛盾ではない。救世者の出現はおおよそ死の恐怖からの解放者でしか成し得ない。

私達が考えられる助言と審判、その社会計画と大自然の法則には、それぞれに排除し合うか、あるいは少なくとも弱め合うことに思われているが、それは大きな勘違いであり、不純な思想である。

世界の偶然性はこの唯一の絶対との関係として表明されており、世界の存続はその絶対思想の存続にすべてが集約し、依存している。

この絶対思想を根拠とし、この絶対ゆえに世界は存在する。世界が自らの機能を満たせないとしても、世界は自らの存在理由をしっかりとした形で示しているのである。

世界と社会の機能とは、この絶対思想を理解すること、たとえ理解できなくても無傷のまま保存することに他ならない。

現象する自然法を、自然の存続について決定を下す原理の単なる割り切った話ではなく、今の心を夢中にする唯一の答えが目の前にあるのである。

想起によって誰もが自分自身の創設者となり、自分自身によって法典と自らの所業の何たるかを読み解くことが想起することである。

いつの日か人類史がそうなるであろう想起によって、最後の審判は消滅する。

英知による良知が独自の仕方で一瞬にして、そして全員に対して一挙に生じさせられるものこそが人類の長所であり、絶対思想なのである。

こうした審判と創世は最高に美しい死生観の対称性を得られる反面、他の表象に対する戦闘的な反抗を露出して、無駄な流出や実体のない根拠に止めを刺すことになる。

そうなると最後の審判や興味深い黙示録はもはや出番がなくなり、聖戦やテロ、宗教間の争いでも何の意味さえもなくなるのである。

全ての行為は生命、そこに生じた出来事と同じ分だけの結果を伴うものとされるが、この行為と結果の間には何の必要性も結び付きもない。あるのは必然なのである。

それに対して黙示録的な価値は、行為と結果からなる歴史をそれ自体に完結したものとみなし、これが人類の結果と言う別の次元で裁かれることによるものである。

絶対思想それは時代を超えて世代や民族もろとも人類をも巻き込む究極の真理であるが、意味が分からず、負傷して戦場から帰還する戦士のように、背負っているものは過去の戦死者ではなく、絶対的な真理を背負っているのである。

現代思想の限界は、いずれ全人類にとって最後にこれまでの莫大な負債を生産したもの、その責任を放棄して滅亡信者の仮面を覆って終了すること以外に何も考えていないのが現代思想のレベルである。

絶対思想は、自我の為に社会を混乱させては支配する闘争社会をつまらない世界観に変えられるし、それに死の恐怖を煽って金儲けを企む悪徳業者によるあらゆる悪趣味な原因となりうるものに、制裁が入る。

絶対思想による救済プログラムとグレイトマザーその女性たちによる共存社会の創造とのダブルパンチでは、競合する自然の法則とを併せ持つシステムの開発が人類の価値を引き上げることに間違いなく結びついてゆく。

創造者と救済者が敵対的に分裂していた時代には得られなかった真理には、救済は創造の因果律の帰結として現れようがなかったが、死の恐怖からの解放が因果律にもたらす世界統一には、人類が犯した全ての原因の源が救われるように、恐怖による競争や恐怖による奪い合い、恐怖による全ての混乱に終止符を打つことが可能なのである。

過去の歴史における啓示は、生命の根源による啓示的な明確化としては少し不十分であることは薄々解りかけてはいたが、押し迫って幻惑する牢獄での迷宮であったことには現代社会は素直に認めざるを得ないのである。



女性に備わる美しさの追及はパーフェクトな自己充足である。

2015-09-07 | 社会問題
男性的な正しさの中には強さが存在し、女性的な正しさの中には美しが存在する。その単純な道理に不感症になっているのが現代だ。

言い方を変えると、正しい喧嘩とは、美しい喧嘩の後に生まれる友情であるように、醜い喧嘩では後で恨み辛みを残すだけで終わる。

正しいディベートは、強さと美しさがその持論の中に備わっているかが弁論の優位性だが、感情論では醜い戯言で終了する。

従って男性の強さは正しいものであり、さらに女性の美しさの追及もパーフェクトな自己充足であり正しさと言える。

なぜなら、美しさは万人の心に触れることができるからである。どれほど堕落した人間であっても、その美しさへのあこがれや敬意は、失いはしないからだ。人間の特権は、一つの美しさにあると断言できる。

つまり、男性的な力強さの中に美意識が備わり、女性的な美しさの中に英知が備われば完全体である。そう考えるとニューハーフに優れている人が多いのもうなずける。

男性が女性を見る目は、その美しさに隠された知性と、仕立ての良いドレスの下に隠されたファンタジーにある。

そして何より重要なのは、現代社会に潜む隠された問題の一つに、正しい性欲とは何かが挙げられる。

実際、男性でも女性でもセックスによって頭が冴える。マスターベーションでは頭が冴えない。

なぜなら、異性との刺激はホルモンへの最大の影響であり、天才脳とは興奮脳だからである。

赤ちゃんは抱きしめられて自己を認識するように、温もりのないマスターベーションでは無常である。

肉体の目覚めは精神の目覚めであるのだから、性欲が自らの肉体と頭に方向性を示して、たった一晩の出来事で大人に変わることだって現にある。

従って、男性的な性欲の正しさには、男性は力強さが正しさなのだから、性欲をまき散らしては腑抜けた弱い男たちであって正しい男とは定義出来ない。

逆に女性的な性欲の正しさには、女性は美しさが正しさなのだから、そこに知性である愛の概念を男性たちに伝授する方法の一つがフリーセックスだ。

生産活動に重要なインスピレーションやイマジネーションはセックスによって掻き立てられるし、マスターベーションがジェネレーションの役に立った試しはなく、レボリューションでは情けない。

マスターベーションでは自己実現には結び付かずに、自己満足で尽き果てる。生殖と愛のない性欲では、快楽とも不快とも言わず、その間にある一瞬の偽快で終わる。

マスターベーションで鍛えたはずが、いざ本番では役に立たずに、溜まった性欲を放出する単純作業の習慣から逃れられなくなり、ただの抜き過ぎでは、欲望志向とも呼べずに、一年中盛りに付いた裸の猿である。

一般的な宗教ではマスターベーションを禁じているが、その性欲を社会や女性に爆発させるのではなく、宗教活動に爆発させるところに宗教の強味が隠されている。

世界はエロスによって動かされているという人もいる。

恋愛や夫婦の問題にも、やはり性欲の課題があげられるが、ここからは避けては通れない現実である。

性的欲求は幼児の活動にも認められるように、私たちには性欲の欲求を満たす必要性がどうしてもある。

この性的性格はあなた自身の本来の姿とは異なり、罪でもなければ情欲でもなく、まして本来の自分自身でもない。

人類は性的生活にちょっとばかり不慣れである。世界中の美しい性的生活が何かを誰も説明していないのが問題だ。

セックスレスや浮気は性的生活に不慣れな人々の、心の叫びでもある。青春時代のツッパリと同じである。

その性的生活における問題の中でも最も困難な行為はセックスの難しさである。私たちはセックスの真実を本当には知らないようです。

無意識で無鉄砲な性欲だけでは情欲となって継続させるのが困難となり、さらに心が通わずに相手を傷つけかねない危険性がある。安心して快楽が得られるためにも、性的生活の研究と工夫が生命線だと考えられる。

人間に備わっている欲求の中で、性欲と食欲は似ているかもしれないが、果実の旨さは旬にあるように、春夏秋冬の情緒に合った、日本人特有の工夫が、私たちの性的生活にも求められているかもしれない。

また反対に、いつも満足していては、性欲の感度は振るわない。そこに快楽と苦痛との落差が伴わなければ二人の関係はフリーズ状態だ。

実際、苦しみや悲しみが人を愛へ向かわせるように、間違いがあるから正しさも生まれる。

離婚の原因にもなるセックスレスには、上手な解決策が見当たらない。不自然に思うかもしれないが、自然な関係に任せていては自然とは残酷な結果しかもたらさないのだから、二人でしか解決できない問題があるのも事実である。お互いの関係が助け合いの中でさえも問題が無くならないのは一体全体なぜだろうか?

いっそのこと、性欲本能だけに従えば浮気はロマンスであり、情欲に従えば嫉妬やヒステリーは自己中心的なわがままになりかねないのだから、脳の快楽の仕組みである愛の概念との交換能力と、性欲との関係のテクニックを考え出すことが円満の秘策になると考える。

食欲の好き嫌いと同じく、毎日の同じ料理は人を不快にさせるように、一年中同じ行為では人をそれから飽きさせるものであるから、普遍性のあるもの、癒しや飽くなき技術的向上、鍼師やマッサージ師のスキルアップなど、何か善いアイデアが必要だ。


企業に理念があるように、家族にも、夫婦にもやはり話し合いの合議知による理念の確立と愛の概念の向上が家族の存続には何よりも重要だ。

その合議知に必要なものは、道徳観念であり、道徳観念とは母なるものだから、女性の考えが優先されるのである。

事実、女性を尊敬できない男性はただの子供である。恋人たちの恋愛は事故だが、結婚は技術であり、友愛は道しるべである。

知らない者同士が運命的にも一緒になり、子を授かり、一生をともに暮らすという、こんな素晴らしい話が世界中いたる所に用意されているとはまさに驚きである。

最後に、ゲーテはこう言っています。「人格を形成するのはロマンである」と。



善悪の見分け方はいたって単純だ。それが美しいか醜いかのどちらかで決まる。

2015-09-06 | 社会問題
男性社会と現実の間にはある種の敵対関係は必然だが、女性たちが現実の間にある種の支配関係は男性社会には必然だ。

現実を段階的に分類されたもの、確定されたものとして余計なものにしてしまう機能を現代社会は備えている。

当たり前に受け継がれてきた男性社会、結局は男性社会に指示され命令されてきた伝統だが、繰り返しの言い伝えによる信ぴょう性が弱められつつある現代では、偏った社会体制の傲慢な部分が現れ始め、受け継がれる美意識がある程度存続したことによって蓄積された美を前にして、圧倒的な影響を与え始めているのである。

美意識に抵抗したのは常に力関係であって、美意識が再び共存社会の中に見出されるようになるまではこの抵抗は続く。

異質なもの、ばらばらに分類しているもの、背を向き合うもの、なじみのないものを、最後には美的な統一として把握する力、あるいは少なくとも
統一的に把握したものとして提示する美的な力は、どんな対象に向けてその力を行使したとしても、美意識にとっては本質的な力である。

美意識はいったん習慣として定着されると、調和的な一つの全体という空間に与えられ、あらかじめ法則下にある概念と協調して強制された統一を体験する習慣による習得が可能な洞察として基礎付られることで確証されているのが美的感覚である。

見慣れたものであるという先入観を削除する為には、男性社会は確かに一つの方法だが、偏った社会体制には醜さの本質が映し出されている。

第一に男性は男性と共存出来ずに対立し支配するという、男性の競争好きと言う行動心理の基礎を経由して初めて現在社会の前面になる現象である。

このような対立する性質を持つ状況を抜け出せずには、もはや女性たちの考えられる標準を遥かに超え出た現象が現在の支配関係である。

女性達は理論的に専門化された固執したものよりももっとなじみのある表現への親密な情景を表す自然原理にある美意識に、社会学、人類学的な理論自体の構造的な手段を直観化するものとしてあり続ける。

男性たちが誰も気づかない女性たちの潜在能力の展開が阻まれ、たとえ気づかれることがあっても、決まって打ち砕かれて消されたであろうと思われる女性たちの権威が比類のない例と言えるのは、社会の概念が自然の様々な表象に対して得てきた優位性に基づくものではないからだ。

私達の歴史哲学では、差別的な結合や支配的な管理の体系的な構造を担う意味を効率よい内容に満たされていることによって構築されている。

美的で効果的な効率を通じて社会は現象を母性的で美的な現象経験として認めるようにすべきである。つまり、正しさとは男性的な強さと、女性的な美しさであり、その強さと美しさの同居にこそ正しさがある。

女性原理が意識に語りかける場合、それが意味するものとは、女性の存在がまるごといわば純粋な形式に当てはめられる、もっぱらある特定の意味を伝え、それを他の意味と結合して共存を意味する組織なり共存の複合体にまとめ上げられる課題に奉仕することにある。

時代錯誤との境界はどこにあるのかという、理解することが出来るか出来ないかの境界線は、今一度素直に感じれば解るように、強さと美しさとの共存共生ということになる。

共存共生とは果たして男女が理解される為の条件として、あるいはすでに男性社会が女性社会の形態を備えている存在にだけ、つまりもっとも広い意味での人類学的なもの、少なくとも証言として意図され解り合えたものだけにしか理解出来ないものなのかもしれない。

存在する男女関係が用いる美的な創作活動に、美意識の定義が堕ち果てた現代観念では、排除法で力の強い側に軍配が上がるが、本来備わる美意識の目的手段関係を排除するのではなく、理性と感性の融合にある誰もが美しいと感じるもので理屈ではない。

社会が理解する段階において、ますます美的な方向に向かうことが望ましいし、美的センスの向上に用いられるようにもなる。

現在の社会学がどれほど人類に役に立っているのかは計り知れないが、人間社会だけが男性の意志だけで判断されては今までの社会学と人類学は偽物と証明される。

男性たちが創り上げてきたものだけが真理に接近できるという現象と、歴史哲学がはたして本当に真実から創られたものだろうかという疑念を経由して、解釈の違いが一般的な常識として創り上げられる社会現象に美的な聖域への移行を、一足遅れて遣ってくる正しさの意味づけに影響を及ぼすのは必然である。

美的な解釈と対応は実際に触れ合って感じてみて初めて、伝達が意図的に変更されるのが世の常であるから、その美的解釈の対象を一義性に目指すものでは決してなく、むしろ多様性にこそ価値がある。

共有する意図があったという前提が証明されない時でも、情報の伝達や、それどころか啓示にさえ備わっているに違いない神の意志を美的に感じてこれまで生きてきたのが私達である。

美意識が現象化するのは、それぞれの意味を持ち、それを明らかにし、いつまでもその意味を保持できるものだけでもなく、まさにそれが多義的であるゆえにその美的解釈を自らの意味の中に受け入れるものである。

その美的解釈は対象の常に新しい美的解釈によって豊かになることを求める為にも、その対象は新しい世界観を受け入れ、新しい社会現象を引き受け、ことに自らの生存関係の事実に正しい意味を持つことになる。

時を経て、歴史的な地平に立つ者たちにおいて私達の善悪は美的センスの上に築かれてゆく。男女共通の美意識によって、今までには存在しえず手に入れられないものが手に入るようにもなる。

美意識に必要な女性たちの理念は、科学的で客観的で理想的に抵抗する解りにくい現代社会構造に全面的に役立つものなのである。




この世から戦争や差別が無くならないのが前提であって、それに乗るか反るかの問題です。

2015-09-05 | 社会問題
残念な結果ですが、私達がどんなに必死になって頑張ってみても矛盾からは逃れられない。

平和を望めば混乱が生じ、差別を無くそうとすれば闘争が勃発するこの世界において、私達が取るべき道は逃げるかそれとも自然に任せるかのどちらかにしても、この結果は厳粛に受け止めなければならない。

世界が平和であるなら、世界はすでに差別のない平等社会を手に入れているはずであるのに、それが達成されていないところを見ればうすうす解るように、どうやら私達は楽園から追放されていることは周知の事実のようである。

この矛盾する世界の中での最低限の真理は、人間は絶対に死ぬと言うことである。それ以外に絶対はない。

言い方を変えれば世界の秩序は死によってもたらされている訳だが、この答えに対して誰も返答するどころか、あの世論に逃げようとしているのが現状だ。

世界宗教が出す答えには、人類の英知ではなく感性よって語り継がれているが、現代人にとって現在の宗教に多くに人達が疑問に思っているのが本心である。

宗教が言う様に、いずれ人類が絶滅するとしても、恐怖と無知と混乱によって絶滅するか、英知に到達し優れた社会を創出して絶滅するかにしても、そのどちらを選択するのかが我々人類の残された課題である。

人は一体何のために生きているのか解らなくなるものである。男性支配が良いとか、女性社会が良いとか、男女共存社会が良いとかは、実はそれほど大した問題ではないかもしれない。

現実にある社会問題の解決には男女共存社会は理に適っていると考えられるが、実際、これだけではこの社会から戦争や差別が無くなるだろうとはそんな甘い話がある訳がない。

現在存在する人類の英知は競争原理によって美化されているように、どこまで行っても終わらない苦しみと次々に訪れる問題に対して、どんなに優れた知恵者であっても逃げ出したくなるのは当然である。

男女共存社会がこの混乱し矛盾する社会において達成されたとしても、おそらく人間の苦しみや社会混乱の解決には至らないことは良く解っている。

そんな不安的な社会だから現実から目を逸らし、何も考えないようにするのが最善だと、ただ、ひたすら自分自身に言い聞かせては自らの身を守ることにのみ時間を費やす訳である。だが、答えはある。死の恐怖からの解放、これだ。

世界宗教に挑戦状を叩き付けても勝つ自信があるが、その解放者は女性なのである。だからその前に男女共存社会が重要なのである。



激動の8月かと思いきや、意外と爽やかな8月でした。

2015-09-04 | 日記
軍事パレードが示す男性支配の映像は、人類の悪行に気付かせてくれるものである。その模範的国家が中国である。

中国人の優れた英知とリーダーシップを世界に示せば良かったのだが、実際はうそと他国の悪口と武力による力関係によって更なるファシズム宣言を示してしまったように、中国人の恥を世界と歴史に残している。

自国の強化につながるつもりで始めた無知な軍事パレードが、結果、自国をだます形で終了する。

華僑にしろ、在日中国人にしろ、ジャッキーチェンにしろ、世界で活躍する偉人たちにとって自国の恥をさらす行為にはもううんざりだ。


習首席は国家を代表してこう言う。「中国は世界平和を守護する使命を帯びている」と。軍国共産主義はどうやら世界正義と勘違いしているらしい。

また、「私達は平和を愛する民族、永遠に覇権を追求せず、拡張を企てず、過去に経験した戦争の悲劇を他の民族に強要しない」と言うがこれはコピペなのか。大したスピーチライターはいないらしい。

空母キラーと呼ばれる中距離弾道ミサイルやステルス戦闘機の売り込みには成功したようだが、中国経済の問題を解決するには、もう、核兵器の安売りしかないようである。

一つだけ習首席は正しいことを発言した。「正義は必ず勝利する。平和は必ず勝利する。人民は必ず勝利する」と。これは市民革命が必ず勝利するという合言葉であろう。

国連の事務総長も反ファシズム政権同様、ファシズムを堪能したそうだが、国連に戻って何を語るのかが今後の楽しみの一つである。

最後に、「侵略を否定したり、歪曲したり、さらには美化したりする全ての言動は自らも他人もだますことだ。侵略戦争後に生まれた人であっても、正しい歴史観を持ち、歴史の教訓を心に刻まなければならない」と発言。意味を解かっていない子供の発言にしては上出来だ。


破滅に向かう核兵器に対して、「時」は味方していない。

2015-09-03 | 社会問題
「時」は命から生まれるように、時間は歴史から始まるものではなく、その流れを死の恐怖で管理するものでもない。

命の誕生はもちろん女性から生まれるものであり、その「時」を終わらせようと時間を浪費する者が好む核兵器である。

母から生まれて母殺しで終わる人類の英知は、地獄での終末論への結果に男性社会は活気づく。

生みの女性と、殺伐とする男性との未熟な社会関係では子供は単なる道具でしかない。

実際、世界の大問題には社会を支配する男性の力量と変革が問われているのが現状だ。


新しい生命の誕生は、最初の時間的運動の結果であり、社会現象に由来する性別の多くには男女関係に大きく影響し相互に連続性という継続と反復という関係によって結び付けられている。

次々に生まれ育てられる母とその子どもたちは、それぞれにばらばらの個としての社会的存在ではなく、国家にとっての重要人物なのである。

この重要人物に対して国家の態度は生命誕生の保護と先行投資にあるが、その担い手がお年寄りの知恵と女性の愛情である。

部性的な理念を尊重する者はお年寄りであり、全体的な理念は女性だけではないのだから、私達が間違っているとしたら、その人間学と社会学との関係性を正せば良いだけである。

命の連鎖は、第二の行為が第一の行為をより以前の時間に移行させられるので、一方で過去という理念を生むことによって、復讐や憎悪を形成させ、また他方で、生殖行為の習慣による繁殖の悪用が行われることによって、毎年行われる行事が戦勝記念軍事パレードとなるのである。

生命を管理する支配と核兵器の関係は次の通りである。生命を管理する場合、核兵器最終所持者が出発点になる。支配の場合は逆に、最初の核兵器取得者が出発点になる。この出発点と到着点を管理する者が女性であるなら世界の悲劇は免れるかもしれないが、闘争本能が支配していては元も子もない。

生命を管理する支配関係には母性的種族が対応し、その他の権利と発展には父性的種族が対応する。母性的種族の関係は社会継続であり、そのすべての女性構成員は生まれた時から連続的に繋がっている。

生命の管理を計算する場合、核兵器最終所持者から遡って因数分解して行くように、母系は複数の国民不安を重視するのではなく、多数の権利の場合のように、一つの大きな世界的安心に絞り込む防衛論から個人的防衛論へと拡大する。

核兵器の一致は決して偶然に成されることがないように、エントロピーは元には戻らない。

生命の管理はその事実的物質的な性質を女性原理と共通にしており、恐怖による支配は形相ないし形式付与原理という一度壊して造り直す破壊的な性質を男性原理と共通にする。

それゆえ母性社会との共存は全ての関係性を必然的に、むしろ社会秩序的性質を帯びていることになる。

それというのも、物質が支配的であると考えられるところではどこでも、必ずこのようになるからである。

特に法的人格が拡張され個人の自由を継続するという理念は、純粋な女性社会に適ったものであり、男性支配では自由は与えられないということになる。

このような人類の承継と大いなる連続性との理念は、精神的な母性社会に由来し、それを応用し初めて男性たちの科学の偉大な成果となる。

国家繁栄と存続は衰滅とか死という観念の恐怖に依拠しており、それに伴い闘争本能は生きるか死ぬかの生存競争の継続という観念の恐怖に依拠している。

核兵器社会の相続人は男性支配だけでは自由が与えられないのと同様に、相続人の母性人格を持って承継し、自由の権利をその人格者の権利のうえに基礎づける。

一つの母国の核兵器を中止すると、自ら核兵器を開始するのが男性的であるから、核兵器の有効利用を導くならば、世界中に存在する核兵器の統一による世界統一を導き出す。

決闘で勝利を治める者が自らの権利の根拠とするのは、継承の継続ではなく、破壊による死である。

最終の核兵器所持者は一連の大義名分を持つが、継承人は一人としてそれを持たない。彼らを結び付ける唯一の絆は、全員が自らの支える支配関係に対して等しい関係に立っているということである。

核兵器による正当な権利請求の解決は、常になお完全に物質的、事実的法原理に服している時代に終わりの祈りを啓示している。

暗く恐ろしい核兵器の掟として人間を支配する段階である。一つの原理つまり物質の優位から、これら太古の歴史と社会現象は全て帰結している。

核兵器が支配する暗い時代こそが、女性に「優位」を与え、残虐な血による復讐だけを知り、決闘しては共倒れを繰り返し、何もかもが闘争本能の掟に従い、死の恐怖に脅えていた時代から、女性たちの存在価値が育まれるというのも、皮肉な話である。

これまでの世界秩序とは一体何だったのだろうか。支配する者だけが幸福に生きられる仕組み。あらゆる不幸を絶望的に耐えるしかない時代、自ら選択することなく後悔に老ける時代、私達は世代として連続することなく、ただ個々に個人の死などその他同然に忘れ去られてしまうだけの時代であった。

自由で平和な母なる法の下では、核兵器の恐怖に囚われない、自由な精神的生活と男女による共存社会に目覚めることによって母性原理の意向が男性原理の社会から始まるネクストステージである。


女性が自己犠牲を強いられた代償が、さも悠然とした軍事パレードである。

2015-09-02 | 社会問題
私達の根源は自己保存にあるが、自己保存だけでは強いものだけが生き残ればあとは何でも許されてしまうことになる。

その勝つか負けるかの二者択一が許される世界では、おのずと支配関係が男女平等社会よりも勝ることになる。

それはあたかも幸福を追いかければ手に入らないように、そこには自己保存を超えた英知が必要なのである。

私たちは生かされているのだから、そこからしか自己中心的な態度が正当でないということが理解できないのである。

この世界が地獄であるなら自己中心的で傲慢な態度は善に当たるかもしれないが、いつだって馬鹿にされ犠牲になるのは世の女性達である。

実際、私たちは命を食べて、生かされている現実である。

生命の偉大な芸術はこれまでいかにしてもっともすみやかに自らが自ら以外に自己犠牲をさせるかに尽きる。

人間はこの地球の守護者として生きる権利を与えられているのだから、自己保存だけでは単細胞生物と何も違わず、そんなことを自然界は望んではいない。

自己犠牲といえば、苦痛を伴うもののように聞こえるが、そうではない。ただ、心の中で自己を離れることにある。

般若心経のメッセージにはこう記されている。「命を捨てるのではなく、命から離れるのである」と。

それはイメージである。夫婦が円満なのは、夫が働き者だから良いのではなく、妻が働き者だから良いのでもない。家族が裕福だから幸せなのではなく、お金が無いから不幸なのでもない。運が悪いからどうしようもないのでもなければ、たまたま幸運にめぐり会えたから幸せになったのでもない。夫婦が円満なのはただ一言、「ありがとう」の感謝にあるのだと。

人生は捨てる修行である。とらわれているものから離れることにある。

時に、人生の幸福には、命がけの遊戯でなければ、生きる喜びがわかない時がある。勇気ある大胆な生き様に人は酔いしれるものである。

人生は刺激的だ。それも他人の為に生きる時が一番刺激的だ。

自分が他人に好意を持つのは、相手が何かをしてくれた時ではなく、自分が相手に何かをしてあげたことゆえである。

方法として逆説的であるが、意識的に幸福なしで生きる努力をしてみる。ギブアンドテイクだけでは相手に見返りを与えなければ、すぐに関係がストップしてしまうから、夫は妻の為に、妻は夫の為に自らを離れることによってこそ、逆説であるが個人は解放される。

何かを得るには何かを差し出すのがこの世の道理であるから、捨てなければ何も得らず新しいものが入ってこない「玄語」である。

残酷なまでに正直になれ!、現実を否定し、目をそらしてはいけない。

痛みは神からのメッセージだ!、痛みに立ち向かうことで人格は完成される。

自己犠牲的な態度は自己中心的で感情的に生きている人たちには受け入れがたいものであるが、本能と理性とでは受け入れられる。

どちらにせよ、自己犠牲を避けることは、自己犠牲へと導く。それを避けては生きられない、世に常である。

それに、ガンバルだけでは努力とは言えない。それでは信用と成果は勝ち得ない。努力とは自らを離れることであり、その代償に栄光が与えられるのだ。

事実、命と命には本気で応えなければ、見えない世界観や気づかない成果が山ほどある。これを知らない者たちは生きているとは言わない。生きながらえているのである。中途半端な努力ほど、苦しいだけで終わり、後悔だけがのしかかるものである。

自己犠牲は罪人であるという人もいる。人間は罪人であるには違いないが、ほんの些細な自己犠牲は人格の形成に役立ち、大きな罪を犯さない為の方法でもある。

仏の問う輪廻転生によるカルマとは、自らの犠牲や代償によってすみやかに社会問題を一つ一つ解決に導くことが、解脱となる。苦痛の深手が眠れる真理を蘇らせるのだ。

争い好きな小さな社会には男性の力は重要だが、原爆による母殺しはやり過ぎた。

2015-09-01 | 社会問題
私達の社会は、男性たちのおかげによるより高度な科学的本質を自覚するようになって大きな発展を遂げ、古い時代の素行の全てを支配している純粋に動物的な観念から解放されてきた。

高度な科学的技術の進歩を告げるようになって初めて採用される男女共存社会である。

自然の創造的な活動が女性的な愛であるなら、変成的で創造的な活動が男性的な理性とされる社会に発する影響は世代から世代へと受け継がれて行くが、最初にある動機は意思を失いそれぞれの世代に付き添うことはない。

男性にとって世代とは、過去からの自らの後ろにあるものに対して、女性にとって世代とは、自らの前に広がって行くものである。

社会が男性的な最初の動機に由来するものには、連続性の理念、世代を結び付ける別の相違と関連している継続的な積み重ねであり、これに対して女性的な最初の動機はこれから生まれる未来への継続に由来する、まったく別の反復という理念を生む。

女性が持つ感性的で実体的な性格は、一方で観念的で肉体的な生活の関係を支配する男性社会に向かうとしても他方、欲望的で強制的な側面ではなく、むしろ女性の美の肉体的追及により高次の側面が従事すべき側面がある。

換言すると、美の精神の領域を支配するのは女性であり、その美を物質の範囲で支配するのは男性である。

全て同一の美意識による美への憧れには、いかなる残虐者であっても美への敬意は失いはしないものであり、女性の美が人間存在の本質的基礎であるのに対して、男性は身体的能力であるという理念を示している。

女性が素朴からでも敬意を生み出すのに対して、男性は技巧的な形で敬意を示す。それと言うのも、喜びと憎しみ、生と死を美意識に転換することを学んだ者は、もはや双方に敵対する意志はもたない。

現実の無情という側面だけが、恐怖へと人間存在の究極に掻き立てる唯一の思想を芸術的に完成させる。

物質的生活の領域の場合と同じように、女性は精神の領域でも需要的であり、男性をより生存原理として、静かに覚醒させるに定めるのである。

女性は男性を物質から高度な精神状態である美意識へと引き上げ、男性は女性を物質から純粋な感性的精神性へと、さらに普遍的なものへと高められる。

過去には、女性は受胎するだけの存在だとして男性よりも低く見られていたが、その女性も子を守護することにかけては、男性以上に大きな英知と不動の力を覚醒する。

女性の特権には、肉体的な真理と感性的な本性がある。女性の強さと弱さにはこの特性の感情の調節に共感の知恵が内在する。

生成物と社会は単純に性欲の融合によって生ずるものではなく、神秘による特別な力によって母体の中に生殖源を創り出されたものであり、そこに生命の誕生を勃興する社会現象である。

男の神は人間の女性と交わることが許されるが、人間の男には女神を孕ませることが出来ないという逸話がある。


秩序、節度、調和は、女性社会が収める国家の美徳的な特性である。こうした特性と母性的原理の内的連関は明らかであるが、母性原理が平和的で、友愛的で、法の番人として、男性社会の無節操と暴力的行為に対応するように、女性社会の貢献は、これらの美徳への配慮を、女性が法を厳守する裁判人として樹立し始動する国家にこそ平和的に発展する仕組みに結びつけられる。

このような社会構成は、その後、文化として世界全体として母性の神聖な聖域に依拠し発展を続ける。裁判人の職責を全うすると同時に、世界宗教もまた女性社会との結び付きが強く、女性社会は常に一切の献身と敬意の担い手であると共に、普及者でもある。

国民国家とその家族社会の頂点にグレイトマザーをおき、その母なるものから法的な生活の習俗や規則を獲得する、より単純で合理的な高次の状況におかれるものである。

人類はその誕生以来、幾分遠回りをしてきたが、高貴な存在であったという過去の女性たちの自尊心を傷つけずに復活させるであろうとも、男性たちの野性的な本性がしだいしだいにそして段階を踏まえて克服されることに目を向けるならば、人類が成し得る文明の進歩はさらなる上へ、そして恐怖の闇から展開する精神的美意識の原理ともいうべき光へと至る道をたどり、社会のあらゆる上昇を継げて、ついにはこれを勝利して地獄での遊戯を理想郷に変えることが可能だと確信を抱くことが出来るのである。