究極の境地とは、「無」「不動」というイメージを持つけれど、「全ての有」「全ての動」でもあります。
「チ。-地球の運動について-」
コミックス第1集の冒頭
「硬貨を捧げれば、パンを得られる。」
「税を捧げれば、権利を得られる。」
「労働を捧げれば、報酬を得られる。」
「なら一体何を捧げれば、この世の全てを知れる―――?」
異端審問官が、苦悩の梨(拷問器具)を異端者の口に入れ、広がることによって口が裂けているシーンになります。
「なら一体何を捧げれば、この世の全てを知れる―――?」
このセリフを見たとき、「この世の全てを知る」=全知なら、「この世界の現象全て」を捧げることになると思いました。でも、捧げると言っても「全知」なので、捧げた分何かが欠けるわけではないです。
「この世の全てが知りたいだって?それなら人間であることも含めて、この世界の全ての現象を捧げるのさ(`・ω・´)キリッ」
なんて、ちょっと気恥ずかしい感じのセリフが思い浮かびました。
もちろん、「この世界」では、不完全性定理により、数学ですら宇宙の全てを完璧に記述できず、数学は思っていたほど万能ではないと証明されました。数学的な論理を突きつめていけば、どんな命題についても真偽の判定ができ、それを延々と積み重ねていけば、いつかは神の真理に辿り着ける・・・わけじゃない・・・。
不完全性定理によって、全知全能で全てのものを含み、かつ矛盾しない存在は存在し得ない・・・神は存在しないことの証明に至ったようです。全知全能ではない、矛盾を持つ神は存在可能らしいですが、私はそんなのは神とは呼べないと思います。
私は、全知全能(以下略)の神は存在可能派です!その神は人型で、罰を与える存在ではありません。そして、全知全能(以下略)の神が存在するということは、宇宙の全てを完璧に表わすことが可能ということです。
その神とは、いつもnoteで書いていることですが【[無/相即/無限]の光】(原初の光)のことです。原初の光は対象作用(この世界の全ての現象を生じる作用)と観照作用(この世界の全ての現象を確かに存在させる作用)を持ちます。宇宙の全てを完璧に記述=万物の理論とは、人間が数式に記述できるものではなく、この原初の光自体が万物の理論そのものになります。根本原理そのものです。
ただ、この世界に完璧で矛盾しない数学、全知全能が存在し得ないのなら、それは何処に存在するのか?
「なら一体何を捧げれば、この世の全てを知れる―――?」
「この世の全てが知りたいだって?それなら人間であることも含めて、この世界の全ての現象を捧げるのさ(`・ω・´)キリッ」
そこでいつも書いている、不確定性原理です!
不確定性原理とは、不確定性関係にある、例えば、位置と運動量において、[位置が確定すると、運動量の曖昧さが無限大に]、[運動量が確定すると、位置の曖昧さが無限大に]なることです。そのため、どちらかが絶対の確定をしないように極小スケールで曖昧にゆらいでいます。物質的な制限、つまり観測するための機器の精度の問題ではなく、物質自体の本質的な性質から生じます(波としての性質、粒子としての性質)。
不確定性原理は、世界が絶対的な確定性によって動いているという古典的な世界観を覆しました。
数学的に無矛盾で完璧な状態、全知全能は、不確定性原理を超越した状態に在ります。それは不完全性定理の超越でも在ります。それは、「この世界で」神と呼ぶのに相応しいと思います。
不確定性原理の超越とは、絶対不動の確定であり、現象は波の性質により重ね合わさって光になり、現象は滅します。対象作用からの現象が滅すると、観照作用が顕わになり、人間が存在するから存在すると思っていた意識の焦点が、実は、根源的な物理的性質に過ぎないことを観照作用(意識の焦点)それそのものに成ることによって了解します。同時に、それが全知状態に成ります。「この世界で」例えるなら、神の視点の体験です。
「不確定性原理と悟り」について、簡易バージョンを書きたいと思っています。
⇓前提が長すぎで、「不確定性原理と悟り」については最後の方に書かれています。
TVアニメ「チ。-地球の運動について-」を見ています。
異端思想の地動説を命がけで、人から人に繋いでいく話です。
地動説と聞くと、コペルニクス的転回を思います!
コペルニクス的転回の意味は2つあるようです。
1つは「見方や考え方が180度変わることの比喩」
もう1つは、「認識が対象に依存するのではなく、対象が認識に依存する」です。
「認識が対象に依存する」:天動説
「対象が認識に依存する」:地動説
と言うことのようです。
中世の「天」と「地」の転回だけでなく、現代では、「人」と「意識」の転回の時代が来るかもしれないし来ないかもしれません。
人間は、人間が意識を所有していると思っています。人間が「主」で意識が「従」の関係です。単純に180度見方を変えると、「意識が人間を所有している」と言う文章になり、主従関係が転回します。しかし、このように単純なイメージではありません。
「人間-意識」という、人間に限定された関係性ではありません。意識は、人間の体表面までだけではなく、世界全体を観ています。意識は、人間専用、人間限定のモノではありません。「人間を含めた世界全体」を「対象」と括ると、「意識は対象を観ている」と言う表現になります。この「観ている」が、存在を確かに存在させます。この「観ている」が無ければこの世界は「無」です。
「意識」を「認識」と表現すると、「対象が存在すると確定することが認識に依存する」と言えます。「対象が認識に依存する」(地動説)に似ていますが、対象と認識は別のモノとして扱いません。
認識と対象(意識と人間を含めた世界全体)は、【[無/相即/∞]の光】(原初の光)の物理的性質であり、一体全体のモノです。自ら対象を生じ、自ら認識します。この文章を読んでいる人が「読めている」と認識できていると自覚できているその性質そのモノが原初の光の物理的性質です。人間専用ではない、この「超越的な認識」そのものを人間は「悟る」ことができます。
意識や認識という言葉を使うとき、意識の内容や認識の内容ではなく、意識の焦点、認識の自覚のことで、純粋意識と表現することもあります。これは、原初の光の物理的性質の1つであり、観照作用、照明作用と表現した方が人間中心の表現ではなく、適切だと思います。ただ、「意識」と表現した方が、人間は理解しやすいと思うので、普段は「意識」を用いる方が使いやすいです。
「人間」と「意識」の主従関係の転回と言う単純なモノではなく、人間を含めた世界全体としての「対象」と「意識」が原初の光源の物理的性質であり、一体全体のモノという、この世界で思考できる最大の転回について書いています。
「チ。」のオープニング「怪獣」の歌詞に、「この世界は好都合に未完成」があります。
この歌詞を聴いたときに、好都合=人間中心主義、地球中心説(天動説)=人間中心主義と思いました。
人間は、人間が「意識」を持ち、空間、時間、概念など非常に広範囲を認識することができる「特異で特別な存在、原理原則から逸脱した存在、存在自体が奇跡」と思いがちです。それが人間から見た状態が正解だと感じさせます。
人間を中心に、人間から見て全天が回転しているように見えるため、天動説にこだわってしまったように、人間を中心にしている限りこの世界の実相にたどり着けないと思いました。
歌詞は「だから知りたいんだ」と続きます。
この知りたいという衝動は、人が「全知」に向かって展開している姿を思いました。「知りたいという衝動」「完璧なモノを求めてしまう衝動」、これは、物理的必然です。
全知で、対象とされる「人間と世界」の循環・振動が重ね合わさり、原初の光源そのものに至ります。(「至る」と書くと時間が経過して「至る」と感じますが、全ての状態は「今」存在、「今」共存するイメージです。人間中心で見ると時間が存在します。)
「全知」は、円相の完成、智慧の完成と表現できます。
「全知」に至るためには、「全知」の一歩手前は、「人間のような知的生命体」がこの世界に登場するのは、必然で、原則に従っていると思います。「人間のような知的生命体」は、自己を観察する能力が圧倒的に高いです。「私とは何か?」「意識とは何か?」「神とは何か?」「完全とは何か?」と問うことができます。これは驚異的なことではなく、物理的必然です。
そして、この「超越的な認識」(純粋意識)は、【遍在/相即/唯一】であり、全ての対象は、唯一のモノが「観ている」構造になり、人間に適応すると、「全ての人は同一人物」と見なすことが可能です。私の「感受・想像・行為・意識・見る・聞く・嗅ぐ・身体感覚・心」も、あなたの「感受・想像・行為・意識・見る・聞く・嗅ぐ・身体感覚・心」も唯一の「超越的な認識」が「観て」(観照作用)います。よっぽど追い詰められていなければ、これを了解していて拷問はできないと思います。「チ。」では、最初に「苦悩の梨」という拷問器具で、拷問するシーンから始まります。