徒然草庵 (別館)

人、木石にあらねば時にとりて物に感ずる事無きに非ず。
旅・舞台・ドラマ・映画・コンサート等の記録と感想がメインです。

太陽の棘 彼はなぜ彼女を残して旅立ったのだろう (3回目・ネタバレあり)

2014年12月23日 | 舞台
(12/22 あらすじ追記)


キャラメルボックス『太陽の棘』3回目、観てきました。



≪あらすじ≫ ※キャスト敬称略

主人公・永沢亮二(鍛治本大樹)は20歳の大学生。2ヶ月前に4つ年上の兄・恭一(多田直人)を事故で亡くした。中学校の教師だった恭一は、駅でホームから転落した子どもを助けた際に電車にはねられ自らは命を落としたのだった。兄の大学時代からの同級生で恋人の星宮明音(岡内美喜子)は、マスコミによる報道の過熱や恭一の死の美談化、プライバシーを無視した見ず知らずの人間からの激励の電話や手紙などが(恭一と同棲していた)自宅へ殺到し、平穏な生活が送れなくなり、勤務先である学校を2ヶ月の間休職している。亮二は従姉妹で幼馴染の草見はるか(小林春世)と明音の元を訪れ、兄の遺品の整理を手伝う。そこへ明音の姉・陽子(石川寛美)とその夫・水田康介(筒井俊作)がやってくる。事故以来連絡の取れない妹を案じる陽子に反発する明音。姉妹の諍いに行き場のない怒りを抑えられない亮二。そんな3人を気遣う康介とはるか。

「今年もやわらかが育った。
 いつか君がネリと一緒に、再びこのイーハトーヴを訪れてくれることを楽しみにしている。」

兄の遺した本の中の一冊「ペンネンノルデの伝記」(宮沢賢治著)に挟まれた、恭一宛の不思議な一通の手紙に何かを感じ取る亮二とはるか。イーハトーヴ、とは賢治の故郷、岩手のことではないか。二人は強引に明音を誘い、岩手の花巻に住む、恭一と明音のかつてのサークル仲間・菊池新平(左東広之)を訪ねる。だが、新平は昨年花巻を訪れた恭一と電話で話した…と語るが、手紙のことは知らないと言った。恭一が花巻を訪れたことを知らされていなかった明音や亮二は驚く。
追い打ちをかけられるように、明音はそれまで恭一との大切な思い出として胸にしまっていた言葉や出来事が、すべて「亮二のオリジナルではなく、宮沢賢治の書いたもの・作ったもの」だと知り、激しく動揺する。「全部宮沢賢治の作ったもの、言ったこと…私が好きだったあなたは一体誰だったのだろうか?」と、明音の想いが揺らぎ始める。

手紙の謎を解こうと、花巻一帯の農家を訪ね歩く亮二・はるか・明音・新平。とある古い農家で、富家(ふうけ)と名乗る独り暮らしの老人(久松信美)に会う4人。驚くべきことに、その老人こそ手紙の差出人「フウケーボー大博士」であった。そして恭一が花巻を訪ねた理由は、恭一の死を知らされた富家の重い口から明かされる。

「私は、あなたがたの父親を殺したのです…」

7年前、恭一と亮二の父は自動車事故で死んだ。その時の加害者が富家だったのだ。せめてもの贖罪を、と兄弟への送金を続けた富家を、恭一は訪ね、そして「あなたがいたから、今の僕たちがいる」と、感謝と許しの言葉を伝えたのだった。しかし罪の意識を背負う富家は、悲しみ・憎悪・葛藤や苦しみの果てに恭一の見出した「答え」をすぐに受け入れることはできない…と思っていた。恭一と語り合った記憶を辿り「彼はまるで賢治の作品『ペンネンノルデの伝記』におけるノルデのような、いや、むしろ宮沢賢治自身のように人を思い人のために何かをしようという心を持ち、その通りに生きていた人間だった」と富家は語った。

まだ幼く父親の事故死当時の記憶がなかった亮二は激しく動揺する。しかし明音の心はもっと乱れた。自分の愛した「永沢恭一」の記憶は「宮沢賢治になりたかった男」の「他人の真似事」だったのか。言葉も歌も振舞いもすべて「賢治のコピー」だったのか。混乱した明音は亮二たちを残して部屋を飛び出していってしまう。

亮二もまた、兄の想いとは別に、自分はこの事実を受け入れられない、兄のように許すことが出来るかわからない、と煩悶する。富家はそんな亮二の姿に「あなたは私を許す必要はない。恭一くんのように、自ら答えを見出せる人など、ほんの一握りの存在でしかないのだから」と静かに語りかける。

宮沢賢治の遺した『ペンネンノルデの伝記』に沿って、ノルデ(多田)の生い立ちとエピソードが平行して劇中に挿入される(脚本・ほさかよう氏の創作部分も大きい)。父の死、飢饉、農民たち(石川・筒井)との触れ合い、フウケーボー大博士(久松)との出会いと学び。そして恋人となる少女・アルネ(岡内)との交流。かつてない干害の原因となった太陽に直接の対処をするため、ノルデは博士の作った飛行機に乗り、生きては帰れない任務に赴く。地上から声を枯らして叫ぶアルネの声を耳にして、それがとても美しいものだ、と思いながら「この身があの太陽の棘に貫かれても、後ろにいる人たちを救えるならそれでいい」と、ノルデは呟くのだった。





宮沢賢治が作品で描いた自己犠牲、それは確かに崇高な精神の発露かもしれない。だが「残されたものの悲哀、苦しみ」は誰が救えるのか。愛するものの死と喪失を受け入れることができず、明音は一人苦しむ。亮二にその苦しみは理解できても、どうすることもできない。そこに後を追ってきた富家が、是非読んで欲しい、と一通の手紙を明音の前に差し出す。

恭一の手紙には、まごうことなき彼の「真実の想い」がしたためられていた。ある日弟・亮二に呼び出され、明音と結婚しないのか、と詰め寄られたこと。弟の成長を感じて嬉しかったこと。『ペンネンノルデの伝記』では主人公・ノルデの恋人であったアルネの存在が、完成稿たる『グスコーブドリの伝記』にはなかったこと…生涯独身であった賢治には、家族以上に自分の命を賭けてでも大事にする「他人」というのが想像できなかったのではないか、そして残される恋人を含めた「自分の死後の世界」が想像しがたかったのではないか、という洞察も記されていた。

しかし、恭一はハッキリと書き残していた。自分は賢治とは違う。家族のほかにも、自分が心から大切にする存在に出会えたこと。星宮明音という女性が彼の人生で何よりも大切なこと。その出会いを作ってくれた全ての人間、頼りない兄を慕ってくれる弟、そして自分や弟の進学と自立を支えた富家の経済的援助にも感謝すること。自分が幸せであることを明音にも知ってほしいこと。いつか明音を連れてイーハトーヴの地に行きたい、でも、その時は明音は「恋人」のアルネではなく、ネリ…つまり恭一の「家族」になっているかもしれない…ということも、書かれていた。

「いつか君がネリを連れて…再びこのイーハトーヴに…」

富家の手紙にあった一節は、恭一の想いを受け止めたものだった。
そのとき、振り続けていた雨が上がり、満天の星空が現れる。

恭一が生前見たいと願っていた「星蛍」…彗星の塵を受けて鮮やかに瞬く星々の輝きを皆が見つめる。





恭一の言葉が明音の心に響いていく。
星空を見上げる亮二の頬を、涙が伝っていく。








12月が文字通り「飛ぶように」過ぎて行き、早くも二十日。
もともとこの日は行く予定でチケットを取っていました。席は17列目センターブロック。舞台に近くはありませんが、サンシャイン劇場は後方席の段差がきっちり付いているので、視界を遮られることなく快適な環境ではあります。双眼鏡なしでも十分演者の表情が見て取れるかどうか、の距離感も20列以内なら大丈夫かと。

この『太陽の棘』…2回目の感想を書けぬまま今日ここに至りました。2回目での感情の揺れ動きを3回目でさらに再確認して、新しい場面の魅力を見つけたり、所謂「泣き所」が日によって違うことに気づいたり…そんな感じでした。
とはいえ。やはり「死にネタ」話、特にこの手のシナリオは自分の経験から絶対に受け入れられない部分がある、というのは変わりませんでした。初見での衝撃は若干薄れたものの、やっぱり「想起するもの」の辛さが(所詮お芝居!でありながら)耐えられない部分も、正直あります。

(初見感想)
http://blog.goo.ne.jp/sally_annex/e/b93ad331fc4a35155b1afe74ba70b458

友人たちの中に、配偶者を突然亡くした人が(複数)います。
実の弟のように可愛がっていた後輩は、恭一と同じ形で父親を突然失いました。

別れはいつも突然にやってくるものです。とはいえ、残された彼ら彼女らの苦しみや悲しみをリアルに知っているだけに、やりきれない…お芝居の出来とは別に、と初見感想で書いた理由は、そこです。所詮お芝居(フィクション)でしょ?自分のリアルとは無関係じゃん、と割り切る方もいらっしゃるかとは思いますが、私はやっぱり…そこだけは「ダメ」でした。(←ごめんなさい)

もしも私が大切に思っている人間が他人の幸せのために「自己犠牲」という手段を取ろうとしたなら、私は全力で止めるでしょう。世界で一番卑怯な人間でもいいから「私のために」生きていて欲しい。キレイゴトで死んでも私も誰も幸せにはならない。そう信じているからです。利己的でもいい、自分勝手でもいい。生きててくれればそれでいい。愛する人間にはそう願うのが、人の業というものです。他人の為に無条件に命を捨てることを絶対に受け入れられない自分がいます。むしろカッコ悪くても汚くてもいいから、生き残れ!これまでに自分が「そういう生き方」を選んできた所為もあるかもしれません。

ただ芝居でそういうシナリオを扱ってはいけない、と言う気持ちはありません。むしろ現実と乖離した世界を見せるのも舞台の魅力。ですが、突き刺さる台詞や表情のあれこれにこちらの心が一緒に傷ついて、一緒に血を流してしまうんです。「これはキャラメルで観たい芝居ではないかもしれない」という迷いのようなものは初日以来これまでずっとありました。

そこを省いての話をすると、3回目の今日、やっぱり「受け止める側」が変化すれば、舞台の印象もまた変わる。涙する場面も、初見や二度目とは違う箇所で突如「無遠慮なほどの」揺さぶられ方で感情がオーバーフローする…そんな感じでした。

基本的に、私は「自分の内的領域に無遠慮に入ってくる人」が苦手です。そもそも「大声で叫んだり、感情を爆発させる」ということは、日常で全くない!がゆえに、舞台上の感情表現のオーバーさに時として辟易とするときがあります。
この舞台のキャラクターで言うなら、草見はるか(恭一、亮二の従妹)、水田陽子(明音の姉)がそのカテゴリーに入ります。特に前半のはるかは、ものすごく苦手です。彼女なりの善意や考えがあって、無茶苦茶とも見える思い付きや行動に出るのですが、自分がもし亮二の立場だったらやりきれない…なんて思ってしまったり。亮二の内向的なキャラクターゆえに「物語を強引に動かす役」としては必要なのでしょうが、あのテンションは、こちらのささくれている感覚には少々キツいものがあります。

ヒロイン明音(=岡内さん)は3回観てもやっぱりシチュエーションが辛すぎて見守るのすらキツくなります。ラスト近くの「私はもう大丈夫」でいつも涙腺決壊。そして続くお姉ちゃん(=石川さん)に声を殺して号泣!!!!!ちなみに陽子さん(=お姉ちゃん)は、私自身が「姉」であるせいか、極端な行動の裏にある「気持ち」が実は分かってしまうので嫌いになれない(→だから最後に号泣する)のですけれども。それを支える年下ダンナらしき康介さん(=筒井さん)は、本当にイイ男だと思います!

そんなこともありつつ、自分としては今日は特に前半、開演後65分までがちょっと芝居的にはキツくていたたまれなくて、むしろ後半に、この物語の全てを握る鍵と言ってもいい存在・富家(=久松さん)が出てからがやっと本番!という印象でした。久松さんのお芝居がこの物語の中で一番重い部分のはずなのに、何故かあの姿と訥々とした岩手言葉の台詞と言葉に救われるような気がするのです。(逆に、開始後65分までが苦痛でない、と次回思えればいいな、と正直思いました)

そして、恭一の「素顔」が判明していく後半30分…やっぱり涙なくしては観られなかったのでした。





≪今日の感想≫
毎回「泣き所」が違うのですが、今日は何故かラストの「恭一の手紙」と、そこに付随する恭一=多田直人さんの演技を観て、頭の芯が痛くなるほど涙を流しました。エンディング曲(Shepherd:彗星のゆくえ)の爽やかさや、白いスポット照明の中で透明感溢れる彼の表情、手紙の内容とそこから伝わって来る彼自身の聡明さや強さ、劇場の隅々までに行き届く「語る声音」に涙が止まらなかったのです。

彼自身はもう死んでいるのに。もう「これから」なんかないのに。
生きていた頃の「過去」、本当の姿が、眼前で蘇る。
希望や愛情に満ち溢れた表情に、声に、ただただ現実の残酷さを思う。


この『太陽の棘』は「生き残った者たち」の再生への物語とも言えると思っていますが、何という残酷な結末か、とも。そのシーンがとても上質な芝居によって仕上げられていて、余計に残酷で、やりきれなさでいっぱいになってしまって…。思うに『太陽の棘』ラストって『TRUTH』のラストシーンに匹敵するくらい残酷ではないでしょうか?今日観て、私にはそう思えました。あれを残酷だと感じるかそうでないかは、個人によって違いはあると思いますが…。

ちなみに多田さんのお芝居を観ていると、基本的に「憑依型かな?」と思うときがありますが、今日の恭一/ノルデを見ていると、SEや音楽をすごく注意深く聞いて、自分のセリフや仕草のタイミング、間の取りかたを測っていらっしゃる気がします。『無伴奏ソナタ』でも感じていましたが、今日のラスト「主役の座乗っ取りタイム」で確信しました。 ←

そういえば(これは初見でも思ったことですが)ノルデ(≠恭一兄)のコスチューム、特にシルエットは、紛れもなく『無伴奏ソナタ』のクリスチャンへのオマージュを感じました。それを見越して演出は舞台を作っている、観る側のデジャヴ(既視感)すら演出として利用していたのではないか…と思っています。中盤、黒いリボンを使ったパフォーマンス2での動きや舞台上の絵面は、クリスチャンが一瞬その場に降臨したかとすら思いました。

初見で「主役の弟」と評した亮二こと、鍛治本さんですが…今日もやはり「そこ」からは抜けきれていなかったと思います。ただ、これはこれで必然、これで良かったと心から思えました。亮二の持つ兄・恭一への思い、ひそやかなコンプレックス、兄の恋人への想い(すごく繊細で、言葉にして書いてしまうには余りにもったいない、と思うほどの空気感が滲み出ている)、かなわないという彼我の実力差…すべてが「中の人」の持ち味を通して遺憾なく&納得できるレベルで受け入れられた気がします。あの青臭さ、未熟さ、純粋さ、繊細さ、一所懸命さ、それこそが「亮二」の役に求められたものだったのだろう、と今では思います。

この世とあの世が一瞬行き来するシーン。恭一が亮二の頭を撫でて「頼んだぞ」という場面は、問答無用で泣きます。それでなくとも、二人の間に圧倒的な経験値の差や芝居レベルの差を感じているので、あのシーン+他でも「見守る存在」としての恭一兄の大きさがジワジワ来ます。亮二のすがるような眼差しや、頼りない幼子のような表情にもキュンキュンしますが…。(このキャスティングやっぱりネ申!) ←

そして「星蛍」の場面で亮二が星空を見上げている時に、その頬をキラキラ涙が伝っているのを見て、胸がいっぱいになってしまって…ウルウル涙目に。さらにカテコで挨拶してる鍛治本さんを見て(違う意味で)またボロボロ泣いてしまいました…(T_T) 多田さん&筒井さんの笑いに癒されたはずなのに、何故か最後の主演挨拶で話している鍛治本さんを見て、拍手しながら安堵と嬉しさでボロボロ泣けて泣けて…(何故だ?)三方礼リード見て感極まって泣くって、おかしくないか?と突っ込んでおきます。

確かにお芝居的な意味では、亮二は恭一を越えられないと思います。ですが、あの若さ、青さ、純粋さがやっぱり「たまらなく良い」・・・観るほどに、そんな未熟な彼を愛おしく見守らざるをえない観客は多いはずです。

決して諸手を挙げて感動した!とは言えないのですが、ここまで書いてきたイメージが最後まで変わらないのか、4回目にあの星空や手紙の場面を観たら何かが変わって、物語の受け止め方に「新しい地平」が開けるのか…正直、まだ想像がつきません。





≪写真撮影≫
12/20夜はカテコの挨拶by多田さんの間は撮影OKボードなし。撮影タイムだけ独立していて、最後の鍛治本さんの座長挨拶は撮影NG。余韻を楽しみたい!という気分的にはだいぶ救われました。というか拍手しながら声殺して泣いていたので、ハンカチ片手にボロボロ。いくらなんでも泣きすぎだ、自分。







次は24日、マイラスト&千秋楽です。先日『ブリザード』を代わりに観にいってくれた友人との参戦。
どんな感想が飛び出すか、ドキドキしています。





(追記)
今日の公演後『太陽の棘』のエンディング曲「彗星のしくみ」を歌っているバンドの方がチラシを配っていらっしゃいました。この曲であのシーンが脳裏にリアルに蘇ります。iTunesでダウンロードしました。ありがとうございましたv