先月末の新潟公演と岐阜公演で幕を閉じた、再演版キャラメルボックス『無伴奏ソナタ』。
東京4回、三重で1回、合計5回を観てのまとめです。
「その3」では第三楽章について。ラストの「喝采」まで時間が足りませんでした…というか、ホントはこれ10月の25日には九割方書き上げていたんですけれど、どうしても第三楽章ラストの場面でいろんな思いが交錯してしまって+それを思い出すのに苦労してしまって、今までかかってしまいました。前2回同様に、扱われているテーマからの連想や考察が多いです。相変わらず無駄に長いのは何卒ご容赦ください。そしてラスト一幕についてはいずれこちらへの「追記」という形で収めさせていただきます。あああああ、自分が二人いればよかったのに!とこの2週間のバタバタを恨む私でありました…。
≪バックナンバー≫
『無伴奏ソナタ』 総括 (その1)
http://blog.goo.ne.jp/sally_annex/e/eae1c5639f822638edb13d2d540e0a0e
『無伴奏ソナタ』 総括 (その2)
http://blog.goo.ne.jp/sally_annex/e/3bc6000cf12445ceea88e1c990ea6f52
『無伴奏ソナタ』 総括 (その3)
≪第三楽章≫
譬えるなら「荒野の誘惑」か。
だがクリスチャンを誘惑するのは蛇でも悪魔でもない。
他でもない人間、それも善意と思いやりに満ちた素朴な人々である。
一面に広がるサトウキビ畑を貫く道路工事現場。語り手は現場のボス・ブライアン(=岡田さん)。数多い(一人数役をこなす)登場人物の中、誰が見ても一番の「男前」!漢気にあふれたキャラクターが「女優さんが演じる男性キャラ」というのが何とも楽しい。さっきまでヒラヒラしたピンクのワンピースを着ていた人とはとても思えない「なりきりっぷり」が、またこの舞台の面白さと魅力だろう。←総じて「衣装早替え」が大変そうではあった。(笑)
この≪第三楽章≫では、それまでの屋内を中心とした場面と時間経過の分かりにくい青っぽい照明から、工事現場を照らす太陽を思わせる、あたたかい黄色を帯びた照明に切り替わっているように思う。朝であったり、夕方であったり、登場人物たちのドラマに合わせて繊細に色合いを変える照明も、私は好きだ。サトウキビ畑を渡る風のような不思議な空気の動きが(劇場の中だというのに)漂う瞬間がある。
ブライアン、メキシコ人作業員のギレルモ。そして現場の仲間たち。これまで物語に出てきた人間たちと比較すれば、確かに粗野で無教養だろうが、逆に彼らが持ち合わせていなかった「仲間意識」「不器用な思いやり」…もっと言えば「飾らない人間らしい温かみ」に満ちている。ブライアン曰く「常に危険と隣り合わせ」の環境では、上辺を取り繕うことなく率直で機敏でなくては人は生きていけないのだろう。
そして、クリスチャン…今では「本来の名前」も人に知られることなく、「C.H」=シュガー、というあだ名で呼ばれている。彼が作業員たちの後ろから登場した時、私は驚きで呼吸が一瞬止まるかと思い、次にまた理由不明の涙がボロボロ零れた。
それはもう、さっきまで目の前にいたクリスチャンではなかったから。
完全に「死んでいる」――名前の無い男。何より、あの暗く深い澱みを映す眼。
指の無い両手には黒い手袋がはめられ、同じく黒い帽子で表情も隠され、誘導員の着せられる蛍光色と反射材のついたベストのギラギラした色彩が、逆に彼の姿を一種異様なものにしていた。同じポケットに両手を突っ込む仕草にしても、≪第一楽章≫で初対面のオリヴィアに向かって笑いかけた、あの無邪気な愛らしさはどこにもない。あらゆる感情を「自分から閉じて」他者を拒絶する、精巧に出来たビスクドールのように全く温もりを感じない、まさしく「人形」だった。
もちろん、作業員の舞台衣装は汚れもほつれもない綺麗なものだったが、私にはクリスチャンが「ぼろぼろに傷ついた、瀕死の小動物」のように惨めに思え、ただ悲しかった。一方で、そうした感傷を離れた「別の視点」では1時間少々の間に驚くほど多彩な姿を見せ続ける多田直人という一人の役者の「演技」を、心からの賛嘆とともに眺めていた野もまた事実である。
舞台上の人数が増えても(クリスチャン+7名)比例するように台詞量は減っても(ほとんど無言)やはり一番「惹きつけられる」のはクリスチャンの存在だ。冒頭の生き生きとした無邪気さ、中盤の懊悩を秘めた生々しい感情の揺れ動きを経て、終盤に至り「死んだ魚のような眼をしながら」座る彼の姿は、なおも私の心を捉えてやまない。原作の素晴らしさ、上演脚本に加えられた潤色の見事さ、それもあっての「お芝居」とはいえ、やはり「当たり役」なのだろう。 ←これはリピーターでもなくCB常連でもない人(初見含む)が観てもそう感じたらしいので、観劇を勧めた人間としてとても嬉しかった!
ところで、この≪第三楽章≫は作業員一人一人の心の動きや態度の変化も面白い。ラテンのノリで「敢えて空気を読まない」ギレルモのギターと歌、何より稀有な「突破力」は舞台の空気をどんどん明るく色鮮やかに塗り替えていく。無愛想な一匹狼のようなカール(=岡内さん)は、歌うことの楽しさを見出し自信をつけることで攻撃性が消えていき、少しずつ仲間との距離を縮めていく。自称「歌にはちょっとうるさい」デニス(=大森さん)のお節介だが真心に溢れた働きかけは、チームの融和剤でもあり、ここぞという所で含蓄に満ちた言葉を仲間に投げかけ、そしてシュガー(=クリスチャン)の凍てついた心を溶かす陽光になっていく。無口&引っ込み思案でびくびくとカールの顔色を窺っていたブルース(=畑中さん)は、ハーモニカを手にギレルモと実に息の合った演奏を聞かせるまでになる(茶色のツナギでハーモニカ片手にステップを踏む姿はひたすら可愛い「子熊さん」状態で、ちょっと萌えるw)。彼らの変化をブライアン(=岡田さん)が冷静に一歩引いて見守る頼もしさ。
原作(小説)ではギレルモ以外には名前を与えられていない「作業員たち」が豊かな個性とあたたかな存在感で舞台を彩っていく。音痴だったはずのカールがちゃんとした歌い手として「生命を与えられる」エピソードも、表面上はコメディタッチに思えなくもないが、実は「生まれつきの才能(+テスト)で全てが決まる」この世界への強烈なアンチテーゼ、反証になっている。ギレルモは意識していなかっただろうが、彼の「人の持つ生まれながらの力を信じる」強さ(=キャラメル舞台らしさの極致!)は、おそらくは危険思想としてこの世界では抑圧され抹殺されてきたものだったはずだ。偶然の出会いと、サトウキビ畑の中と言う特殊な環境だからこそ起きた奇跡、そう思えてくる脚色の見事さに心底唸らされる。
アル(=小多田さん)やマイク(=原田さん)も交えた「ジャンボリー」で見せる息の合ったパフォーマンスに、思わず自分も一緒に歌い出したくなる、身体が動き出すような楽しさでいっぱいになった。ミュージカル作品なら観客から手拍子が出てもおかしくない?!ほど、ワクワクするシーン。いやむしろみんなで一緒に歌いたい!というほど、ここでの感情の盛り上がりが3回目はハンパなかった!!(※キャラメル舞台はお客様のマナーが比較的良いのは有難いものの、合間の拍手や「ノリで巻き込まれる」シーンが少なくて少し寂しい。)
このシーン、最初のほうではクリスチャン――「シュガー」はその白皙の頬に何の感慨も浮かべず、目も向けず、音を聴いているのかも分からないほど「心を閉じている」。賑やかな歌声に背を向けて、シュガーはただ空を眺めている。ふと彼の魂はサトウキビ畑の真ん中の工事現場ではなく、寂寞とした荒野にひとり立ち尽くしているのではないか…とすら思えるほど、その眼差しと姿は「言葉にできない何か」を観客に語りかけてくる。台詞はない。何も語らない。しかしシュガーが「そこにいる」そのことがそのまま「何かを語っていた」。それほどに密度の濃い舞台であるのは、既に観た2回で分かってはいたけれども。
翼を灼き切られた天使は、何もかも忘れて「人間」になってしまったのか?
――否。見事なハーモニーで「ジャンボリー」の歌が終わると、それまで一度も感情らしきものを見せなかったシュガーの頬に微笑が浮かんでくる。静寂な湖面にふっとさざ波が渡るような、何とも言えない微笑み。黒い手袋を嵌めたままの掌でそっと拍手を送る姿。ひっそりと「シュガー」の中に封印されていた「クリスチャン」の魂が再び息を吹き返す。もう前頭葉のあたりがオーバーフローになってしまって、またも涙がボロボロ…完全に観る側がシュガー=クリスチャンを見守る母のような?気持ちになってしまっているというか、とにかく名状しがたい涙が毎回溢れるのが、このシーンだった。
そして「第一の転機」…ギレルモがシュガー=クリスチャンの素性を見抜く場面。それまで感情を一切出してこなかったシュガーが怒りに近い熱を含んだ声と表情で「やめろ」と制止する、あの緊張感。原作には周囲の心情がこう表現されている。
「メイカーたるものが――たとえ法律を犯したにしても――自分たちと一緒に道路工事の作業をやっていると考えただけで、彼らは畏れおおい心地がした」
さもありなん。だがそこで距離を置くのではなく(ブライアンは「別の現場に行ったほうがいい」と賢明な助言はしているが)知った上でなおシュガーを受け入れようとする作業員仲間の心意気に、薄っぺらな言葉だけでない「本当の意味での仲間とはどういうものか」を見せつけられる気がする。
「お前は今、幸せなのか?」
「お前は本当は辛かったんじゃないのか?」
「ここには俺たちしかいない。お前が歌っても、誰に知られることもない」
「歌ってくれ、シュガー、俺たちのために…!」
「歌えよ、シュガー!」
「神はお前に音楽の才能を与えたもうたんだろう?歌うことが神の御心に沿うことじゃないのか?」
堕ちた天使・クリスチャンにとって「荒野の誘惑」とは彼を取り巻く作業員仲間たちの心からの思いやりとあたたかさに満ちた励ましであっただろう。「食」の代わりに「音楽」を断っていた彼にとっては、その励ましは(無垢な心から来るが故に)甘美な誘惑であり、一方で、生命活動維持のための飲食よりも、「メイカー」として生きていた理由そのものである音楽を断っていることの方が遥かに厳しいことだったに違いない。(というのは≪第三楽章≫序盤のシュガーの「死んだ魚状態」で十分に想像はできたが。)
「彼らは明日も明後日もお前に歌えと言い続けるだろう。お前はその声に耐えられるか…?」
ギレルモの歌声に合わせてゆっくりと「Beautiful Dreamer」を口ずさむシュガー…絶望や後悔、怒りや煩悶といった負の感情から一瞬解き放たれていくように、メロディーとともにハミングで歌う彼の姿が、不思議な温かさで私の心を満たしていく。音響や照明とも相まって、何故か見えない黄金色の大きな翼であたたかく包まれているかのように錯覚した。観劇後『シュガーの歌』が脳内ループする人はきっと多かったと思うが、私は何故か、このギレルモ&シュガーの不思議なハーモニーのほうが数日の間耳に残っていたものだった。
これまで「何故かこの舞台は観る度に沸き起こる衝動の種類が異なる」…と書いてきた。初見は打ちのめされラストの救済シーンまで涙が止まらない「感情決壊」、2回目は逆に不思議な温かみで終演後の心が満たされる昂揚感…3回目以降はどうだったかというと、「2時間ぶっ続けで感情の乱高下するジェットコースター体験!」笑いを狙ったところにストンと落ちるだけでなく、上がるところはめちゃめちゃ上がる、落ちるところはトコトン落ちる、で振り幅が大きすぎて疲労の極!とにかく涙したり笑ったり温かい充実感に浸ったり、翻弄された。それだけ『無伴奏ソナタ』という舞台そのものが、こちらの体調や情緒、一人または誰かと観るか、で全く違う魅力やインパクトを持って訴えかけてくる深みがあったのだと思う。
「Beautiful Dreamer」の旋律とシュガーの歌う姿に「失われた翼」が再び伸びやかに広がっていく幻影を私は重ねていた。
★
荒野で与えられたとされる3つの誘惑のうちの二つ(「マタイ福音書」第4章)――「断食の戒めを破る」「利己的な目的のために禁を犯す」――翻って『無伴奏ソナタ』の世界に重ね合わせれば、それらは≪第一楽章≫でクリスチャンが手にしたバッハの音楽であり、≪第二楽章≫で魅入られたピアノ、とも読み解ける。
シュガーの中の「クリスチャン」…彼の本来の姿が徐々に傷を癒し、再度才能を羽ばたかせるに至る場面は何度観ても「魂の再生」を眼前にするようで身震いがする。あるべき(はずだった)場所から遠く引き離され、音楽を生み出す翼(=指)を失っても、天与のクリエイターとしての本性は死に絶えていなかった。それ以上に、過去の失敗もあり俗世の人間と交わることを忌避してきたはずの彼が、「孤独の荒野」で他ならぬ人間との関わりによって「自らの存在意義」に目覚めていく過程は、一時の救済に留まらない。舞台の端でひっそりと座っていた彼が、少しずつ輪の中に溶け込み、ついには輪の中心になってメロディーを紡ぎだす。(2歳で親元を離れてから)ある意味孤独に生きてきたクリスチャン・ハロルドセンという青年が、「シュガー」という新しい人格として生まれ変わっていくドラマティックな過程は、「人は何のために生きているのか」という暗黙のメッセージを私に投げかけてくるように思える。
また≪第三楽章≫ではクリスチャン自身の行動とは別に「他者の存在」「他者との関わり」が加わり、物語は(隔絶された環境にありながらも)より多層的な広がりを見せる。クリスチャンの「魂の再生」と、『マタイ福音書』にある「世界の全てを手に入れる」…という3つ目の誘惑は、一見無関係に思えるかもしれない。最初は私もそう感じた。だがこの舞台世界ではちゃんと「リンク」がある。最後の公演を観終わってから数日後にようやく思い至った。
それこそ「シュガーの歌」だ、と。
サトウキビ畑の真ん中で生まれた歌。それは今を歌い上げる「声」とともに、シュガー=クリスチャンが生まれて初めて「他人のために」その才能を傾けて創り出した歌。題名はないけれど、誰からも愛されるメロディーと、作り手自身の人生を想起させる、どこか物悲しい歌詞。作業員仲間の「決してここで起きていること(=作り手の名)を口外しない」という誓いで守られていたにもかかわらず、その歌はサトウキビ畑からアメリカ中に口伝えで伝わり広まっていく。作者が誰でどんな過去を持つのか、などといった背景とは一切関係なく、ただ「口にしたくなる歌」として人々の心に受け入れられていく…「世界の人々の心を魅了する」これが「世界の全てを手に入れる」へのリンクなのかもしれない、と私はふと考えたのだった。
「シュガーの歌」が歌い継がれていく中、作業員たちもまた一人、一人と入れ替わり、サトウキビ畑の現場から去っていく。去り際に彼らが見せるちょっとした仕草や他の仲間たちとの言葉の無いやり取りに、冒頭でギレルモが来たばかりの頃の場面を思い出し、またまたしても!胸がいっぱいになる。ブルースのちょこんとしたお辞儀を真似るシュガー、その頭にポンと手を載せるブルースからは、あのオドオド感は消えている。その天敵?だったカールとは今ではすっかり打ち解けた様子で、ハグのあとに大きく手を振って(どこか寂しそうに)見送るカールの表情が切ない。アルの去り際に皆がハイタッチで送り出すのも切ない(最後笑わせてくれながらもキュンとするんだな、これが!)。
今回の公演パンフレットに「シュガーの歌」のCDが付いているのは本当にいいことだと思った。もちろんパンフを買わずにDLもできるだろうが、ファンとしてはパンフレットに載っている数多い初演の写真やキャストインタビューなどを見ながら「シュガーの歌」が聴けるのが、またとない「記憶の書庫」の散策になる。舞台はナマもの、その場限りで消えてしまうものとはいえ、やっぱり「残しておきたい大切な記憶」でもあるから。公演後、iTunesで『無伴奏ソナタ』サントラ完全版を作ったので、ふとクリスチャンたちに会いたくなった時は、またあの音楽と歌を道標に振り返ってみたい。
★
そして…三度目に「ウォッチャー」がやってくる。
「(歌うことが)とうとうシュガーの破滅へとつながったのは、彼の歌が余りにも忘れがたいせいだった」(原作より)
これまで2回の登場で如何に彼が冷厳な法の番人かつ処罰・裁断者であるか、は観ているこちらの心にも(クリスチャンと同じく切り刻まれるような痛みとともに)焼きつけられている。素晴らしい見所ばかりの第三楽章、一番のクライマックスは、再生したシュガー=クリスチャンと「ウォッチャー」との会話に尽きると思う。これまた、原作では(周囲がかばうのをよそに)一言も発しない、自己弁護をしようともしないクリスチャンと、この舞台でのクリスチャンは…同じキャラクターでありながらも真逆のインパクトで観客の心を鋭くえぐってくる。
「クリスチャン」
「…やっぱり、あなたでしたか」
「指を失っても…なお?」
ここまでが原作のやりとりである。(ギレルモと「ウォッチャー」との対話に主軸が置かれている)
だが、舞台上のセリフはこの上ない「人間らしさ」に満ちていた。シュガー…クリスチャンはきっぱりと言い放つ。
「それでも…音楽を作らずにはいられなかったんです!そうしなければ、生きていけなかったんです!」
これ!!!
このセリフが!!!
第三楽章で観てて感情崩壊する「決壊点」!!!
これだけの強烈な想いを持って(押し隠して)生きてきたクリスチャンの叫びが、巨大な感情のうねりになって叩きつける。間近で観ると本当に呼吸が出来ないくらいの緊張感で息苦しくなる。
実は原作で「ウォッチャー」はサトウキビ畑に響くクリスチャンの歌声を聴いて涙している。それは舞台では語られないが、この後のギレルモを問い詰めていく声音に、言葉以上の想いがこめられている…と、私はいつも思っていた。何故ウォッチャーはギレルモがシュガーの歌を聴いて泣いたことを看破したのか。喜びや楽しさだけでなく、怒りや悲しみ、絶望を読み取れたのか。それは彼が「ウォッチャー」だから、と言うよりも「彼自身がまさしくそう感じていた」からなのではないか、と。石橋さんの演じる「ウォッチャー」には私がそうして背景や心情を存分に想像できるだけの暗く奥深い心のよどみと、そこにたたえられた豊かな情感があふれ出してくるようで、キャラクターとしてたまらなく好きだな、と思っていた。
「クリスチャンには人の心を幸せにする歌はもはや作れない。だから私はその指を切り落とした」
人の心を幸せにするだけが歌の役割ではないだろうに。
作られた「幸福」な世界の中で生きる人々を一言で表現するような台詞が痛い。
「それでも…これまでの3ヶ月、幸せでした。彼らと一緒に音楽を作れたことが」
三度目の破戒の代償として、声を失うクリスチャン。ここに至る場面を思い出そうとすると、今でもクリスチャンの絶叫が耳にこびりついているような気になり、胸がひどくざわつく。あれから1ヶ月経っているというのに、生々しい痛みまでもが感覚に蘇ってくる。この先、クリスチャンには殺されるよりも辛い「罰」が待っている。なのに、直前に「ウォッチャー」に向かって言葉少なに心情を語る彼の、清々しいまでに透明な笑顔は何だったのだろうか。ふと、第一楽章で無邪気な「天使の微笑み」を浮かべていた姿が脳裏に閃いたが、眼の前のクリスチャンは「それすらも超越した」私の想像の及ばないどこか別の世界を観ているような顔で、静かに微笑んでいた。
「あなた方の幸せは法律によって守られている。法律を破ったものは処罰されなくてはいけない…あなた方の幸せを守る為に」
再び、いや三たび、この台詞が(あの声で)繰り返される。 ←何度も言うけど、このキャスティング残酷すぎ。
どうして、何故、誰も疑問に思わないのか…その問いかけは半分は現代社会に生きる私たち自身へと向けたものだったかもしれない。
だが、処置を命じた「ウォッチャー」が、一瞬だけぐっと唇を引き結び、俯いて表情を隠すように目を背けたしぐさも、至近距離から私は見た。それで「全てがリンクする」――あの『壮絶なまでの愛情』が唯ひとつのしぐさで雄弁に語られていた――それだけ確認できて、私は幸せだった。幸せなはずなのに、何故かとめどなく涙が流れていた。
★
※ラスト≪喝采≫までは後日追記予定です。
東京4回、三重で1回、合計5回を観てのまとめです。
「その3」では第三楽章について。ラストの「喝采」まで時間が足りませんでした…というか、ホントはこれ10月の25日には九割方書き上げていたんですけれど、どうしても第三楽章ラストの場面でいろんな思いが交錯してしまって+それを思い出すのに苦労してしまって、今までかかってしまいました。前2回同様に、扱われているテーマからの連想や考察が多いです。相変わらず無駄に長いのは何卒ご容赦ください。そしてラスト一幕についてはいずれこちらへの「追記」という形で収めさせていただきます。あああああ、自分が二人いればよかったのに!とこの2週間のバタバタを恨む私でありました…。
≪バックナンバー≫
『無伴奏ソナタ』 総括 (その1)
http://blog.goo.ne.jp/sally_annex/e/eae1c5639f822638edb13d2d540e0a0e
『無伴奏ソナタ』 総括 (その2)
http://blog.goo.ne.jp/sally_annex/e/3bc6000cf12445ceea88e1c990ea6f52
『無伴奏ソナタ』 総括 (その3)
≪第三楽章≫
譬えるなら「荒野の誘惑」か。
だがクリスチャンを誘惑するのは蛇でも悪魔でもない。
他でもない人間、それも善意と思いやりに満ちた素朴な人々である。
一面に広がるサトウキビ畑を貫く道路工事現場。語り手は現場のボス・ブライアン(=岡田さん)。数多い(一人数役をこなす)登場人物の中、誰が見ても一番の「男前」!漢気にあふれたキャラクターが「女優さんが演じる男性キャラ」というのが何とも楽しい。さっきまでヒラヒラしたピンクのワンピースを着ていた人とはとても思えない「なりきりっぷり」が、またこの舞台の面白さと魅力だろう。←総じて「衣装早替え」が大変そうではあった。(笑)
この≪第三楽章≫では、それまでの屋内を中心とした場面と時間経過の分かりにくい青っぽい照明から、工事現場を照らす太陽を思わせる、あたたかい黄色を帯びた照明に切り替わっているように思う。朝であったり、夕方であったり、登場人物たちのドラマに合わせて繊細に色合いを変える照明も、私は好きだ。サトウキビ畑を渡る風のような不思議な空気の動きが(劇場の中だというのに)漂う瞬間がある。
ブライアン、メキシコ人作業員のギレルモ。そして現場の仲間たち。これまで物語に出てきた人間たちと比較すれば、確かに粗野で無教養だろうが、逆に彼らが持ち合わせていなかった「仲間意識」「不器用な思いやり」…もっと言えば「飾らない人間らしい温かみ」に満ちている。ブライアン曰く「常に危険と隣り合わせ」の環境では、上辺を取り繕うことなく率直で機敏でなくては人は生きていけないのだろう。
そして、クリスチャン…今では「本来の名前」も人に知られることなく、「C.H」=シュガー、というあだ名で呼ばれている。彼が作業員たちの後ろから登場した時、私は驚きで呼吸が一瞬止まるかと思い、次にまた理由不明の涙がボロボロ零れた。
それはもう、さっきまで目の前にいたクリスチャンではなかったから。
完全に「死んでいる」――名前の無い男。何より、あの暗く深い澱みを映す眼。
指の無い両手には黒い手袋がはめられ、同じく黒い帽子で表情も隠され、誘導員の着せられる蛍光色と反射材のついたベストのギラギラした色彩が、逆に彼の姿を一種異様なものにしていた。同じポケットに両手を突っ込む仕草にしても、≪第一楽章≫で初対面のオリヴィアに向かって笑いかけた、あの無邪気な愛らしさはどこにもない。あらゆる感情を「自分から閉じて」他者を拒絶する、精巧に出来たビスクドールのように全く温もりを感じない、まさしく「人形」だった。
もちろん、作業員の舞台衣装は汚れもほつれもない綺麗なものだったが、私にはクリスチャンが「ぼろぼろに傷ついた、瀕死の小動物」のように惨めに思え、ただ悲しかった。一方で、そうした感傷を離れた「別の視点」では1時間少々の間に驚くほど多彩な姿を見せ続ける多田直人という一人の役者の「演技」を、心からの賛嘆とともに眺めていた野もまた事実である。
舞台上の人数が増えても(クリスチャン+7名)比例するように台詞量は減っても(ほとんど無言)やはり一番「惹きつけられる」のはクリスチャンの存在だ。冒頭の生き生きとした無邪気さ、中盤の懊悩を秘めた生々しい感情の揺れ動きを経て、終盤に至り「死んだ魚のような眼をしながら」座る彼の姿は、なおも私の心を捉えてやまない。原作の素晴らしさ、上演脚本に加えられた潤色の見事さ、それもあっての「お芝居」とはいえ、やはり「当たり役」なのだろう。 ←これはリピーターでもなくCB常連でもない人(初見含む)が観てもそう感じたらしいので、観劇を勧めた人間としてとても嬉しかった!
ところで、この≪第三楽章≫は作業員一人一人の心の動きや態度の変化も面白い。ラテンのノリで「敢えて空気を読まない」ギレルモのギターと歌、何より稀有な「突破力」は舞台の空気をどんどん明るく色鮮やかに塗り替えていく。無愛想な一匹狼のようなカール(=岡内さん)は、歌うことの楽しさを見出し自信をつけることで攻撃性が消えていき、少しずつ仲間との距離を縮めていく。自称「歌にはちょっとうるさい」デニス(=大森さん)のお節介だが真心に溢れた働きかけは、チームの融和剤でもあり、ここぞという所で含蓄に満ちた言葉を仲間に投げかけ、そしてシュガー(=クリスチャン)の凍てついた心を溶かす陽光になっていく。無口&引っ込み思案でびくびくとカールの顔色を窺っていたブルース(=畑中さん)は、ハーモニカを手にギレルモと実に息の合った演奏を聞かせるまでになる(茶色のツナギでハーモニカ片手にステップを踏む姿はひたすら可愛い「子熊さん」状態で、ちょっと萌えるw)。彼らの変化をブライアン(=岡田さん)が冷静に一歩引いて見守る頼もしさ。
原作(小説)ではギレルモ以外には名前を与えられていない「作業員たち」が豊かな個性とあたたかな存在感で舞台を彩っていく。音痴だったはずのカールがちゃんとした歌い手として「生命を与えられる」エピソードも、表面上はコメディタッチに思えなくもないが、実は「生まれつきの才能(+テスト)で全てが決まる」この世界への強烈なアンチテーゼ、反証になっている。ギレルモは意識していなかっただろうが、彼の「人の持つ生まれながらの力を信じる」強さ(=キャラメル舞台らしさの極致!)は、おそらくは危険思想としてこの世界では抑圧され抹殺されてきたものだったはずだ。偶然の出会いと、サトウキビ畑の中と言う特殊な環境だからこそ起きた奇跡、そう思えてくる脚色の見事さに心底唸らされる。
アル(=小多田さん)やマイク(=原田さん)も交えた「ジャンボリー」で見せる息の合ったパフォーマンスに、思わず自分も一緒に歌い出したくなる、身体が動き出すような楽しさでいっぱいになった。ミュージカル作品なら観客から手拍子が出てもおかしくない?!ほど、ワクワクするシーン。いやむしろみんなで一緒に歌いたい!というほど、ここでの感情の盛り上がりが3回目はハンパなかった!!(※キャラメル舞台はお客様のマナーが比較的良いのは有難いものの、合間の拍手や「ノリで巻き込まれる」シーンが少なくて少し寂しい。)
このシーン、最初のほうではクリスチャン――「シュガー」はその白皙の頬に何の感慨も浮かべず、目も向けず、音を聴いているのかも分からないほど「心を閉じている」。賑やかな歌声に背を向けて、シュガーはただ空を眺めている。ふと彼の魂はサトウキビ畑の真ん中の工事現場ではなく、寂寞とした荒野にひとり立ち尽くしているのではないか…とすら思えるほど、その眼差しと姿は「言葉にできない何か」を観客に語りかけてくる。台詞はない。何も語らない。しかしシュガーが「そこにいる」そのことがそのまま「何かを語っていた」。それほどに密度の濃い舞台であるのは、既に観た2回で分かってはいたけれども。
翼を灼き切られた天使は、何もかも忘れて「人間」になってしまったのか?
――否。見事なハーモニーで「ジャンボリー」の歌が終わると、それまで一度も感情らしきものを見せなかったシュガーの頬に微笑が浮かんでくる。静寂な湖面にふっとさざ波が渡るような、何とも言えない微笑み。黒い手袋を嵌めたままの掌でそっと拍手を送る姿。ひっそりと「シュガー」の中に封印されていた「クリスチャン」の魂が再び息を吹き返す。もう前頭葉のあたりがオーバーフローになってしまって、またも涙がボロボロ…完全に観る側がシュガー=クリスチャンを見守る母のような?気持ちになってしまっているというか、とにかく名状しがたい涙が毎回溢れるのが、このシーンだった。
そして「第一の転機」…ギレルモがシュガー=クリスチャンの素性を見抜く場面。それまで感情を一切出してこなかったシュガーが怒りに近い熱を含んだ声と表情で「やめろ」と制止する、あの緊張感。原作には周囲の心情がこう表現されている。
「メイカーたるものが――たとえ法律を犯したにしても――自分たちと一緒に道路工事の作業をやっていると考えただけで、彼らは畏れおおい心地がした」
さもありなん。だがそこで距離を置くのではなく(ブライアンは「別の現場に行ったほうがいい」と賢明な助言はしているが)知った上でなおシュガーを受け入れようとする作業員仲間の心意気に、薄っぺらな言葉だけでない「本当の意味での仲間とはどういうものか」を見せつけられる気がする。
「お前は今、幸せなのか?」
「お前は本当は辛かったんじゃないのか?」
「ここには俺たちしかいない。お前が歌っても、誰に知られることもない」
「歌ってくれ、シュガー、俺たちのために…!」
「歌えよ、シュガー!」
「神はお前に音楽の才能を与えたもうたんだろう?歌うことが神の御心に沿うことじゃないのか?」
堕ちた天使・クリスチャンにとって「荒野の誘惑」とは彼を取り巻く作業員仲間たちの心からの思いやりとあたたかさに満ちた励ましであっただろう。「食」の代わりに「音楽」を断っていた彼にとっては、その励ましは(無垢な心から来るが故に)甘美な誘惑であり、一方で、生命活動維持のための飲食よりも、「メイカー」として生きていた理由そのものである音楽を断っていることの方が遥かに厳しいことだったに違いない。(というのは≪第三楽章≫序盤のシュガーの「死んだ魚状態」で十分に想像はできたが。)
「彼らは明日も明後日もお前に歌えと言い続けるだろう。お前はその声に耐えられるか…?」
ギレルモの歌声に合わせてゆっくりと「Beautiful Dreamer」を口ずさむシュガー…絶望や後悔、怒りや煩悶といった負の感情から一瞬解き放たれていくように、メロディーとともにハミングで歌う彼の姿が、不思議な温かさで私の心を満たしていく。音響や照明とも相まって、何故か見えない黄金色の大きな翼であたたかく包まれているかのように錯覚した。観劇後『シュガーの歌』が脳内ループする人はきっと多かったと思うが、私は何故か、このギレルモ&シュガーの不思議なハーモニーのほうが数日の間耳に残っていたものだった。
これまで「何故かこの舞台は観る度に沸き起こる衝動の種類が異なる」…と書いてきた。初見は打ちのめされラストの救済シーンまで涙が止まらない「感情決壊」、2回目は逆に不思議な温かみで終演後の心が満たされる昂揚感…3回目以降はどうだったかというと、「2時間ぶっ続けで感情の乱高下するジェットコースター体験!」笑いを狙ったところにストンと落ちるだけでなく、上がるところはめちゃめちゃ上がる、落ちるところはトコトン落ちる、で振り幅が大きすぎて疲労の極!とにかく涙したり笑ったり温かい充実感に浸ったり、翻弄された。それだけ『無伴奏ソナタ』という舞台そのものが、こちらの体調や情緒、一人または誰かと観るか、で全く違う魅力やインパクトを持って訴えかけてくる深みがあったのだと思う。
「Beautiful Dreamer」の旋律とシュガーの歌う姿に「失われた翼」が再び伸びやかに広がっていく幻影を私は重ねていた。
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荒野で与えられたとされる3つの誘惑のうちの二つ(「マタイ福音書」第4章)――「断食の戒めを破る」「利己的な目的のために禁を犯す」――翻って『無伴奏ソナタ』の世界に重ね合わせれば、それらは≪第一楽章≫でクリスチャンが手にしたバッハの音楽であり、≪第二楽章≫で魅入られたピアノ、とも読み解ける。
シュガーの中の「クリスチャン」…彼の本来の姿が徐々に傷を癒し、再度才能を羽ばたかせるに至る場面は何度観ても「魂の再生」を眼前にするようで身震いがする。あるべき(はずだった)場所から遠く引き離され、音楽を生み出す翼(=指)を失っても、天与のクリエイターとしての本性は死に絶えていなかった。それ以上に、過去の失敗もあり俗世の人間と交わることを忌避してきたはずの彼が、「孤独の荒野」で他ならぬ人間との関わりによって「自らの存在意義」に目覚めていく過程は、一時の救済に留まらない。舞台の端でひっそりと座っていた彼が、少しずつ輪の中に溶け込み、ついには輪の中心になってメロディーを紡ぎだす。(2歳で親元を離れてから)ある意味孤独に生きてきたクリスチャン・ハロルドセンという青年が、「シュガー」という新しい人格として生まれ変わっていくドラマティックな過程は、「人は何のために生きているのか」という暗黙のメッセージを私に投げかけてくるように思える。
また≪第三楽章≫ではクリスチャン自身の行動とは別に「他者の存在」「他者との関わり」が加わり、物語は(隔絶された環境にありながらも)より多層的な広がりを見せる。クリスチャンの「魂の再生」と、『マタイ福音書』にある「世界の全てを手に入れる」…という3つ目の誘惑は、一見無関係に思えるかもしれない。最初は私もそう感じた。だがこの舞台世界ではちゃんと「リンク」がある。最後の公演を観終わってから数日後にようやく思い至った。
それこそ「シュガーの歌」だ、と。
サトウキビ畑の真ん中で生まれた歌。それは今を歌い上げる「声」とともに、シュガー=クリスチャンが生まれて初めて「他人のために」その才能を傾けて創り出した歌。題名はないけれど、誰からも愛されるメロディーと、作り手自身の人生を想起させる、どこか物悲しい歌詞。作業員仲間の「決してここで起きていること(=作り手の名)を口外しない」という誓いで守られていたにもかかわらず、その歌はサトウキビ畑からアメリカ中に口伝えで伝わり広まっていく。作者が誰でどんな過去を持つのか、などといった背景とは一切関係なく、ただ「口にしたくなる歌」として人々の心に受け入れられていく…「世界の人々の心を魅了する」これが「世界の全てを手に入れる」へのリンクなのかもしれない、と私はふと考えたのだった。
「シュガーの歌」が歌い継がれていく中、作業員たちもまた一人、一人と入れ替わり、サトウキビ畑の現場から去っていく。去り際に彼らが見せるちょっとした仕草や他の仲間たちとの言葉の無いやり取りに、冒頭でギレルモが来たばかりの頃の場面を思い出し、またまたしても!胸がいっぱいになる。ブルースのちょこんとしたお辞儀を真似るシュガー、その頭にポンと手を載せるブルースからは、あのオドオド感は消えている。その天敵?だったカールとは今ではすっかり打ち解けた様子で、ハグのあとに大きく手を振って(どこか寂しそうに)見送るカールの表情が切ない。アルの去り際に皆がハイタッチで送り出すのも切ない(最後笑わせてくれながらもキュンとするんだな、これが!)。
今回の公演パンフレットに「シュガーの歌」のCDが付いているのは本当にいいことだと思った。もちろんパンフを買わずにDLもできるだろうが、ファンとしてはパンフレットに載っている数多い初演の写真やキャストインタビューなどを見ながら「シュガーの歌」が聴けるのが、またとない「記憶の書庫」の散策になる。舞台はナマもの、その場限りで消えてしまうものとはいえ、やっぱり「残しておきたい大切な記憶」でもあるから。公演後、iTunesで『無伴奏ソナタ』サントラ完全版を作ったので、ふとクリスチャンたちに会いたくなった時は、またあの音楽と歌を道標に振り返ってみたい。
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そして…三度目に「ウォッチャー」がやってくる。
「(歌うことが)とうとうシュガーの破滅へとつながったのは、彼の歌が余りにも忘れがたいせいだった」(原作より)
これまで2回の登場で如何に彼が冷厳な法の番人かつ処罰・裁断者であるか、は観ているこちらの心にも(クリスチャンと同じく切り刻まれるような痛みとともに)焼きつけられている。素晴らしい見所ばかりの第三楽章、一番のクライマックスは、再生したシュガー=クリスチャンと「ウォッチャー」との会話に尽きると思う。これまた、原作では(周囲がかばうのをよそに)一言も発しない、自己弁護をしようともしないクリスチャンと、この舞台でのクリスチャンは…同じキャラクターでありながらも真逆のインパクトで観客の心を鋭くえぐってくる。
「クリスチャン」
「…やっぱり、あなたでしたか」
「指を失っても…なお?」
ここまでが原作のやりとりである。(ギレルモと「ウォッチャー」との対話に主軸が置かれている)
だが、舞台上のセリフはこの上ない「人間らしさ」に満ちていた。シュガー…クリスチャンはきっぱりと言い放つ。
「それでも…音楽を作らずにはいられなかったんです!そうしなければ、生きていけなかったんです!」
これ!!!
このセリフが!!!
第三楽章で観てて感情崩壊する「決壊点」!!!
これだけの強烈な想いを持って(押し隠して)生きてきたクリスチャンの叫びが、巨大な感情のうねりになって叩きつける。間近で観ると本当に呼吸が出来ないくらいの緊張感で息苦しくなる。
実は原作で「ウォッチャー」はサトウキビ畑に響くクリスチャンの歌声を聴いて涙している。それは舞台では語られないが、この後のギレルモを問い詰めていく声音に、言葉以上の想いがこめられている…と、私はいつも思っていた。何故ウォッチャーはギレルモがシュガーの歌を聴いて泣いたことを看破したのか。喜びや楽しさだけでなく、怒りや悲しみ、絶望を読み取れたのか。それは彼が「ウォッチャー」だから、と言うよりも「彼自身がまさしくそう感じていた」からなのではないか、と。石橋さんの演じる「ウォッチャー」には私がそうして背景や心情を存分に想像できるだけの暗く奥深い心のよどみと、そこにたたえられた豊かな情感があふれ出してくるようで、キャラクターとしてたまらなく好きだな、と思っていた。
「クリスチャンには人の心を幸せにする歌はもはや作れない。だから私はその指を切り落とした」
人の心を幸せにするだけが歌の役割ではないだろうに。
作られた「幸福」な世界の中で生きる人々を一言で表現するような台詞が痛い。
「それでも…これまでの3ヶ月、幸せでした。彼らと一緒に音楽を作れたことが」
三度目の破戒の代償として、声を失うクリスチャン。ここに至る場面を思い出そうとすると、今でもクリスチャンの絶叫が耳にこびりついているような気になり、胸がひどくざわつく。あれから1ヶ月経っているというのに、生々しい痛みまでもが感覚に蘇ってくる。この先、クリスチャンには殺されるよりも辛い「罰」が待っている。なのに、直前に「ウォッチャー」に向かって言葉少なに心情を語る彼の、清々しいまでに透明な笑顔は何だったのだろうか。ふと、第一楽章で無邪気な「天使の微笑み」を浮かべていた姿が脳裏に閃いたが、眼の前のクリスチャンは「それすらも超越した」私の想像の及ばないどこか別の世界を観ているような顔で、静かに微笑んでいた。
「あなた方の幸せは法律によって守られている。法律を破ったものは処罰されなくてはいけない…あなた方の幸せを守る為に」
再び、いや三たび、この台詞が(あの声で)繰り返される。 ←何度も言うけど、このキャスティング残酷すぎ。
どうして、何故、誰も疑問に思わないのか…その問いかけは半分は現代社会に生きる私たち自身へと向けたものだったかもしれない。
だが、処置を命じた「ウォッチャー」が、一瞬だけぐっと唇を引き結び、俯いて表情を隠すように目を背けたしぐさも、至近距離から私は見た。それで「全てがリンクする」――あの『壮絶なまでの愛情』が唯ひとつのしぐさで雄弁に語られていた――それだけ確認できて、私は幸せだった。幸せなはずなのに、何故かとめどなく涙が流れていた。
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※ラスト≪喝采≫までは後日追記予定です。