Nonsection Radical

撮影と本の空間

ないものを作る

2016年09月16日 | Weblog
思いつきの根拠のない話題を。
世の中が進んでくると、昔はその道のプロでないとできなかったことが、機材の進化である程度シロートでもできることが増えた。
特に映像関係では、機材の値段も下がり、性能も上がり、発表するメディアも広がり、”商用”にこだわらなければ、やりたいことができる環境は昔とは違ってきた。
逆を言えば、”商用”の世界が商用として成り立たなくなった結果、シロートの世界しか残されていないと言えなくもない。
商用といえば、テレビの世界などやることがない、できることがない、やってもペイしないと衰退の一途なんだろうけど、それは単に”商用”の世界での話であって、まあだからといって”商用”の世界の人間が、”私用”で作りたい映像をただ作るということなどないわけだから、”私用”の世界はクロートの出る幕はないわけだ(暴論)。
その点で写真はちょっと違うけどね。
で、世の中には今撮影しておかないと永遠に消えてしまうことなど身近に山ほどあって、そんな出来事も”商用”の世界では価値のないものであって(そもそも”商用”の世界での価値は報じるに値するかであって、記録して残しておくことでないだろう)、そんな時こそシロートの出番ではないのかと。
それはクロートの目から見たら取るに足らないものかもしれないけれど、偉そうにしていたって金にならないから撮らないのでは最初から論外なんだから「やってから言えよ」と無視して、進化した機材とクロートには手の届かない視点で商用媒体では決して撮られないものを好き勝手に作ってしまうのも手かなと。
幸いなことにテレビのようなマスの媒体は手に入らないけれど、ネットの世界では規模は小さくても発表媒体はあるんだから、それを利用して、ないものを自分で作ってしまうこともできるんだ。
そこに欲を出して、マスの媒体で活躍するプロを目指すボクみたいな通過点でやっていると視聴率しか目のない現在のテレビ放送みたいになって意味がなくなるので、あくまでも自分が作りたいから作るという立場を堅持しないと。
で自分で勝手にミニコミを作り出して、できる範囲で活動する人が増えれば、点描画のようなミニコミワールド絵図がいつの間にか広がっているということにもなりかねない。
そこには、各自の視点で作り出された、見つけ出された世界が広がって、(ある程度)長く保存されて誰でも触れることができるアーカイブ的メディアとして存在するなんてことにも。
まあそれが可能なのは、”商用”でない(むしろ持ち出し)世界の人間だけなんだろうけど。
そういうことでしか、もはやこの世界を残していくということはできないのじゃないのかと”商用”世界の没落をみて思う次第。
コメント (4)
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