ここしばらく「なにげない写真」について考えている。
ここでいう「なにげない」とはパッと見て明確な意図や主張が感じられないもので、かつ「だけどなんかいいよね」とは”思わない”たぐいのものとする。
そういうものにキャプションなりコンセプトをくっつけて作者の”意図”を語るものをいう。
意図的になにげなく見せた場所に実はこういう事柄が隠されているんですよ、などと思わせる写真をこれまでいくつか見たりしたのだが、またそういう作者がそういうテーマ性のために”そういう”写真家と認知されていたりするのを知りはするが、だからといってどうこう思えないんだよな個人的には。
元々他人の”コンセプト”にシンクロすることがない”鈍さ”があるのは認めるところだが、特に事柄が社会的テーマだったりした場合に、それを”作品”として展示することと報道として扱う事との関係性の方に興味がいってしまい、どういう思惑で活動してるんだろうと下衆の勘ぐりをしてしまうたちなのだ。
そういう「説明責任」がこのての手法にはついて回ると思うのだ。
その説明がない展示を前にすると途方に暮れてしまい「で?」とフリーズしてしまう。
それぐらい「なにげない」には魔物が住んでいると思うのだ。
もちろんずぶのしろ〜とがこんな事を思うのは失礼な事なのだろうけど、いいのかなぁこんな取り上げ方をしてと心配してしまう。
でも心配するべきなのは、思想性のかけらもないなにげない写真を好き好んで撮影して嬉々と他人に見せている自分の下衆さかげんなんだろうけど。
ここでいう「なにげない」とはパッと見て明確な意図や主張が感じられないもので、かつ「だけどなんかいいよね」とは”思わない”たぐいのものとする。
そういうものにキャプションなりコンセプトをくっつけて作者の”意図”を語るものをいう。
意図的になにげなく見せた場所に実はこういう事柄が隠されているんですよ、などと思わせる写真をこれまでいくつか見たりしたのだが、またそういう作者がそういうテーマ性のために”そういう”写真家と認知されていたりするのを知りはするが、だからといってどうこう思えないんだよな個人的には。
元々他人の”コンセプト”にシンクロすることがない”鈍さ”があるのは認めるところだが、特に事柄が社会的テーマだったりした場合に、それを”作品”として展示することと報道として扱う事との関係性の方に興味がいってしまい、どういう思惑で活動してるんだろうと下衆の勘ぐりをしてしまうたちなのだ。
そういう「説明責任」がこのての手法にはついて回ると思うのだ。
その説明がない展示を前にすると途方に暮れてしまい「で?」とフリーズしてしまう。
それぐらい「なにげない」には魔物が住んでいると思うのだ。
もちろんずぶのしろ〜とがこんな事を思うのは失礼な事なのだろうけど、いいのかなぁこんな取り上げ方をしてと心配してしまう。
でも心配するべきなのは、思想性のかけらもないなにげない写真を好き好んで撮影して嬉々と他人に見せている自分の下衆さかげんなんだろうけど。