Nonsection Radical

撮影と本の空間

描写を選んで

2014年07月09日 | Weblog
デジタルカメラの登場で大きく変わったのは感度のとらえ方だ。
フィルムカメラの時には、感度=フィルムの種類で、感度の高いフィルムを使うと粒状性が悪くなった。
ところがデジカメになって、高感度で撮影してもフィルムよりもずっと粒状性が良くなり、挙げ句の果てにフィルム時代では考えられない高感度での描写をウンヌンするようになった。
フィルムだとASA(古すぎるよなあまりに)もとい、ISO100とかISO400のフィルムが普通で、自分で現像するような”好き者”はISO400のトライXというのが定番だったが、今このフィルムで撮影した写真を見ると、パソコンモニターで評価するシロート”画像”マニアの現在の基準では、「どうしようもない」ものとなるだろう。
今日は、紙にプリントして鑑賞する”写真”とモニターで見る”画像”の問題なんか話さない。

デジカメになって、たとえコンパクトデジタルカメラ(コンデジ)であっても、フィルム時代に比べて格段にレンズも写りも良くなったのは確かなのだ。
いやいや昔のレンズの描写は・・・、フィルムの性能は・・・などとメンドクサイ話は各自が勝手にプリントを前にやってもらう事にして、もっと別の視点で考えてみようと思うのだ。
高性能のおかげでダウングレード出来る、ということに目を向けようかと。
描写にウルサイ(単にウルサイだけかも)カメラ好きの人は、おそらくカメラの設定を最大限”キレい”に写るようにしているだろう。
でも考え方を変えると、写りを悪くにも設定出来るのだ。
写りを良くするのに様々な設定があるように、写りを悪くするのにも様々な設定が出来るのではないか。
そうやって描写を変える事が出来る。
それで表現を変える事が出来る(のではないか)。
そんなのは”よこしまみち”ではないかと言う人もいるだろうが、フィルムの時だってわざと描写の粗いフィルムを使ったりとか、現像で荒らしたりしたではないか。
またワンテンカメラとか、ハーフサイズとか、インスタント写真とかの写りを「個性のある描写」などと言い換えたではないか。
それがデジカメの高性能のおかげで、意図して作り出す事が出来て、自由に描写を選んで撮影出来る時代になったのだ。
高性能のデジカメばかり追い求めるのではなく、自分の意図した描写のために低性能のデジカメを選んで使う事も出来るのだ。
画像加工によっても、様々な表現が出来る。
これを今まではどちらかというと”よこしまみち”ととらえがちであったが、もっと積極的に活用する事で、フィルム時代とは異なる写真表現の道が開けるのではと期待するぞ。
写真を「真を写す」などとレ点もないのに読み替える勘違い派を無視して、別の視点から取り組む人が増えてくれば、やたらと花を写してばかりで描写ウンヌンの”守旧派”の理解を超える表現が生まれるのではと期待するぞ。
いやきっと、従来の写真のセオリーなんか知らない「新人類(死語)」が現われて、写真を別の世界に持って行ってくれる動きがすでにあるのかもしれない。

文章の内容を考えると、まったく意味のない口絵画像であるのは勘弁してくれ、単に順番に出しているだけだから。




諫早駅前歩道橋からの街並み
長崎県諫早市永昌東町
撮影 2014年3月22日 土曜日 11時25分
コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (H.O)
2014-07-10 02:14:10
「新人類」と呼ばれた世代ですw

とても共感させて頂きました今日のお話。自分も似たような事を時々日記に書くのですが思うように表現できません・・^^;
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おお、実践者が (satobo)
2014-07-10 19:22:30
そうですか、難しいですか。
アタシは単に思いつきで書いたもので(汗;)。
でも、画質命だけというのも寂しすぎますよね。
新人類は、新しい事をしているからこそですもの。
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