小説雑誌を買うと隅から隅まで好き嫌いを無視して読むようにしてきた。
そうする事で普段だと読みもしない話に出会って、意外に面白いものだなぁとか、こういう話もあるよねとか”好意的”に物事をとらえる機会を得ることができるだろうと考えたりしている。
事実、そうやってジョシが読むとされる小説誌を楽しんだり、時代物を堪能したりしたこともあったわけだ。
でも最近は、どうも読むのがツラく感じる話が多くなり、まあシロートなりに分析してこれこれの理由でなどとあげつらったりして、キッパリと読むのをやめる事が多くなった。
どう読んでも時間の無駄にしかならんだろうと判断しているわけだが、それはあくまでも個人的感想で、別の人にとっては楽しい話であったりするのは当然のことである。
誰にとっても好ましい話というのはないという事だ。
それでも以前は”我慢をして”読んでいたんだけど、我慢ができなくなったんだな。
どういうのがダメになったかというと、ヤング向けの話に多いのだけど、やたらと言葉の羅列で説明をしているようで、実はあまり意味のない修飾子ばかりでリズムは刻むがメロディはないみたいなものとか、ファンタジーなんだけど夢も希望も実は感じられない逃避的なワールドだったり、年寄り向けだと史実に沿った話の重箱の隅をつつくような歴史ものとか、結局は人間味とか言いながら実はワンパターンの人間像をこれでもかと繰り返す時代ものとか、外国の話ゆえに説明がやたら繰り返され長文であってそのくせ話が凡庸なものとか、つまるところメンドクサイ話が鬱陶しいのだ。
そういう話にも一分の利があるとこれまでは思えたが、今は少ない利などいらないとばかりにさっさと次の話に進めてしまう。
作者に好意的になれば単に好みの違いでなどと公式では言っているが、実のところこんなつまらない話をなぜ書くのかと腹が立つ事が多いのだ。
実はそう感じている関係者もいるんでしょと言いたくもなる。
そんなことで、最近は我慢をせずにバシバシと読み飛ばして積ん読を消費している。
なにしろ残された時間がハッキリしないんだから。
そうする事で普段だと読みもしない話に出会って、意外に面白いものだなぁとか、こういう話もあるよねとか”好意的”に物事をとらえる機会を得ることができるだろうと考えたりしている。
事実、そうやってジョシが読むとされる小説誌を楽しんだり、時代物を堪能したりしたこともあったわけだ。
でも最近は、どうも読むのがツラく感じる話が多くなり、まあシロートなりに分析してこれこれの理由でなどとあげつらったりして、キッパリと読むのをやめる事が多くなった。
どう読んでも時間の無駄にしかならんだろうと判断しているわけだが、それはあくまでも個人的感想で、別の人にとっては楽しい話であったりするのは当然のことである。
誰にとっても好ましい話というのはないという事だ。
それでも以前は”我慢をして”読んでいたんだけど、我慢ができなくなったんだな。
どういうのがダメになったかというと、ヤング向けの話に多いのだけど、やたらと言葉の羅列で説明をしているようで、実はあまり意味のない修飾子ばかりでリズムは刻むがメロディはないみたいなものとか、ファンタジーなんだけど夢も希望も実は感じられない逃避的なワールドだったり、年寄り向けだと史実に沿った話の重箱の隅をつつくような歴史ものとか、結局は人間味とか言いながら実はワンパターンの人間像をこれでもかと繰り返す時代ものとか、外国の話ゆえに説明がやたら繰り返され長文であってそのくせ話が凡庸なものとか、つまるところメンドクサイ話が鬱陶しいのだ。
そういう話にも一分の利があるとこれまでは思えたが、今は少ない利などいらないとばかりにさっさと次の話に進めてしまう。
作者に好意的になれば単に好みの違いでなどと公式では言っているが、実のところこんなつまらない話をなぜ書くのかと腹が立つ事が多いのだ。
実はそう感じている関係者もいるんでしょと言いたくもなる。
そんなことで、最近は我慢をせずにバシバシと読み飛ばして積ん読を消費している。
なにしろ残された時間がハッキリしないんだから。