グリニッチセンター世界地図の勧め(7)最終―2 控え書き
「ヨーロッパはピレネーで終わる」「アフリカはピレネーで始まる」。中世、隣国フランスがイベリア半島を蔑み、或いは異国趣味で語る時の言葉である。イベリア半島は、総じてピレネー山脈に繋がる山岳地の地形が多く、一部北部の「青いスペイン」と呼ばれる地域以外は乾燥した厳しい自然環境の中に有り、世界最大のコルクの産地、柑橘類の世界有数の輸出国としては有名だが後は世界に誇れるものは痩せた山岳地帯に放牧されたイベリコ豚程度であった。この貧しい環境がレコンキスタでイスラム勢力を半島から追い出すのに成功した高揚の中で、否応なしに胡椒や金銀抱負と噂される東洋への膨張を駆り立てた。ヨーロッパ諸国が地中海周辺にかまけている隙をついて、地の利を生かし海外に打って出たポルトガル・スペインは大航海時代をリードし海洋帝国としての地位を得た。
しかしその目的達成に至る両国の行動様式は大きく異なるものであった。スペインは武力により植民地を作り、その土地から富を収奪する事を主目的とし、宗教はその手段として利用する面が強かったが、ポルトガルは植民地主義はとらず、貿易の拠点造りとキリスト教の布教が主目的であった。この様な行動パターンを考える時、コロンブスがアメリカに辿り着き、スペインがその植民地化に没頭したことは、南米を徹底的に疲弊させ、その後遺症を今に至るまで引きずることになってしまった反面、日本(ジパング)にとっては不幸中の幸いであった。
日本に初めて西洋文明をもたらしたのはポルトガルであった。1543年、3人のポルトガル人の種子島漂着、49年のF・ザビエルの鹿児島上陸である。43年8月25日、3人のポルトガル人を乗せ、マカオからシャム(タイ)に向っていた中国のジャンク船が台風の影響を受け種子島南端の門倉岬に漂着した。日本の西洋との最初の出会となった記念すべき日である。時の島主・種子島時尭は3人のポルトガル人が所有していた火器に興味を示し、金2,000両の大金で2挺を譲り受けた。これが世に言う「鉄砲伝来」であり、「南蛮貿易」の契機となった。日本からは銀・金・刀剣などが輸出され、ポルトガルからは鉄砲・火薬・中国の生糸などと共に西洋の日用品や食べ物等の文物、言葉がもたらされた。【食べ物…パン、ビスケット、カステラ、コロッケ、金平糖、バッテラ(大阪の鯖の押し寿司)】【日用品等…コップ、たばこ、シャボン,かるた、ジョゥロ、ビードロ(硝子…製造法は中国から移入)、マント】。柔軟な頭の持ち主だった織田信長は西洋文化に敏感で、地球が球体であることも即座に理解し、バナナやカステラ、金平糖を好んで食し、宣教師が連れて来た奴隷の黒人を気に入って「弥助」と名付け側近に取立て,本能寺の変まで忠誠をつくしたと伝わっている。又南蛮風の鎧兜だけではなく、西洋の帽子やマントも取り入れた。特に有名なのは信長が上杉謙信に贈った下記のマントで山形・上杉神社に保蔵されている。
種子島時尭は買い入れた銃と火薬の使い方を習わせ、職人に命じて模倣したものを造らせて(種子島銃)製造に成功、大名や将軍に献上した。又1挺を平安時代から鋳物産業が栄えた大阪の堺に送り、鉄砲製造に火が付いて各地に高い技術力を誇る鉄砲鍛冶がうまれた。戦国時代、日本では銃の瞬発力や火薬の爆発力は共にヨーロッパ製のものより高性能のものが用いられていたと言われている。ポルトガル人がもたらした2挺の銃が戦国時代の戦術に革命的変革をもたらし、織田信長による「天下統一」を促進することになった。
種子島漂着から6年後の1549年8月、日本人・ヤジローに導かれ鹿児島に上陸したのがフランシスコ・ザビエルである。ザビエルはフランス留学中、モンマルトル聖堂で「生涯を神に捧げる」と誓った7人の仲間と世界宣教を目的とする「イエズス会」を創設、この考えに賛同したポルトガル王・ジョアン3世の依頼でインド・ゴアに赴任、インド各地・モルッカ諸島で宣教を続け、洗礼を受けた鹿児島出身の武士・ヤジロー(安二郎)に出会って、日本行きを勧められたのである。
ザビエルは1549年9月には、薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得、更に日本全国の許可を得るべく京都で天皇や征夷大将軍へ謁見を試みたが失敗した. しかし山口で守護大名・大内義隆との謁見に成功し、天皇に贈呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、珍しい献上品(望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、メガネ、書籍、絵画、小銃等)を提供し、これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認め、更に当時既に廃寺となっていたのをザビエル一行の住居兼教会として与えた。これが日本最初の常設の教会堂となった。ザビエルはこの廃寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったと伝わっている。しかし言葉の壁と通訳のヤジロウのキリスト教知識の無さもあって布教は困難を極めた。2年経過後、日本での宣教は他の宣教師に任せ中国での宣教の為ゴアに帰国したが、こちらも思うように進まず、1552年の暮れ失意の中で死去した。
1569年、ザビエルの後を継いだ宣教師のルイス・フロイスが信長の居城・岐阜城を訪問し、京都での布教が認められる様、信長に助力を求めた。信長は彼等の訪問を大いに歓迎し、京都における布教を認めキリスト教を保護し続けた。信長は教会堂(南蛮寺)の建築許可、安土城下における教会とセミナリヨ(神学校)の建築許可、巡察使の接見等、キリスト教の布教に大いに貢献した。
(日本のザビエルゆかりの聖堂は、カトリック神田教会(千代田区)、関町教会(練馬区)、山口サビエル記念聖堂および鹿児島カテドラルザビエル教会には、ザビエルの遺骨が安置されている。)
豊臣秀吉は信長の政策を継承しキリスト教布教を容認、1586年5月大阪城内でイエズス会に布教の許可証を発給している。しかし、肥前の大村純忠がキリシタン大名となり長崎をイエズス会に寄贈する等植民地化の様相を呈し始めた事、長崎がイエズス会領となり要塞化され、長崎の港からキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られている等の噂を仏教界から耳にし、1587年にはバテレン(宣教師等関係者)追放令を出した。秀吉の究極の狙いはポルトガル人を介さない通商路の開拓に有ったのである。
秀吉の跡を継いだ家康もキリスト教への締め付けと貿易継続の間で揺れ動いた。1600年オランダ船が備後(広島)に漂着、その後平戸に商館を設立ポルトガルの貿易独占体制に風穴を開け、イギリス、中国も進出、競争は熾烈となった。1612年、幕府は幕府直轄地に禁教令を出し、カトリック信者であるポルトガルの宣教師やキリシタン大名らを国外追放した。 1637年島原、天草地域で、島原の乱が勃発した。キリシタン大名有馬晴信が国替えとなり、後任の大名が江戸城改築普請役を受けたり、島原城を新築したりで年貢の加重取り立てや、厳しいキリシタン弾圧を開始した為、百姓を主体とする武力闘争に発展した。徳川幕府はオランダ海軍に援軍要請し、双方大きな犠牲の下に一揆は鎮圧したが、これを契機にポルトガルとの関係を断絶しオランダ人以外も追放して鎖国体制を確立した。又全住民を地元の寺院に登録させキリスト教禁教令を強化、日本のキリスト教徒は地下に潜伏することになった。隠れキリシタンの発生である。
主役はポルトガルからオランダに替わった。1609年オランダ東インド会社が長崎のオランダ平戸商館を通じた国際貿易を幕府から許可を得ていたが、布教しない事を条件とされていたプロテスタントのオランダ人は島原の乱の功績により国際貿易を独占することになった。8代将軍徳川吉宗は、殖産興業、国産化奨励の方針から海外の物産に関心を示し、オランダ船で西洋馬を輸入し洋式馬術、馬医学を学ばせた。又1720年(禁書令)を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認め、青木昆陽等にオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入を積極的に行った。青木は「和蘭文訳」「和蘭文字略考」といったオランダ語の辞書や入門書を残し、前野良沢等の「解体新書」や杉田玄白「蘭学事始」に繋がった。洋学は蛮学(南蛮学)から蘭学へ移行したのである。
19世紀前半には長崎や江戸以外の地でも私塾や大名家で蘭学やオランダ語学習が行われるようになった。江戸の芝蘭堂、 長崎の鳴滝塾、大阪の適斎塾等有名塾では塾生が数千人にも達した。緒方洪庵が開設していた大坂の適斎塾では、大村益次郎福沢諭吉等を輩出している。1823年ドイツから医師シーボルトが来日し長崎の郊外に私塾を開き、高野長英等の医師門下生を育てたが、一時帰国時、持ち出し禁止の日本地図が露見し再入国禁止、関係者の大量処分と言うシーボルト事件に発展した。そうした中で1844年、オランダ国王の使節が軍船で長崎に来訪し、江戸幕府に「貴国の福祉を増進せんことを勧告する」と言う内容の親書を手渡したが、これが神経質になっていた幕府に開国圧力と捉えられ1849年、蘭書翻訳取締令が出される事になった。
幕末1853年、アメリカの黒船来航に端を発し、開国を余儀なくされ、それに伴い、英語、フランス語、ドイツ語による新たな学問が流入するようになり明治維新へと繋がって行った。
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