Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

孤独-結局、人間は独りなのか?

大学時代、僕は哲学的心理学を学んだ。

実験的心理学の矛盾を強く感じて、
「根源」に目を向ける哲学的心理学に没頭した。
人間とは何か?という問いに興味を抱き、
人間の精神の根源に目を向ける哲学的心理学にはまった。

その頃に、学んだことが、
「人間は、その根源において、一人単独では生きていない」
ということだった。

「一人単独では生きることができない」ということではない。
「一人単独では生きていない」という事実を学んだ。

言葉を話すのも、
何かを食べるのも、
服を着るのも、
本を読むのも、
すべて、一人で生きていないということを示している、と。

それを、「関係性」という言葉で包括し、
関係性から人間を考えることを学んだ。
人間は、生まれる前から死ぬまで、死んだあとまで、
関係性という根源的な事実から自由になることはない、と。

だけど、

それでも、「独り」を感じるのもまた事実ではないか?

どれだけ関係性を主張しようとも、
どういうわけか、どこからとなく、孤独が自分のところにやってくる。
どれだけ人に愛されても、どれだけ信頼があったとしても、
それでも、どうしようもない他者との隔たりを感じることはある。

色んな人に支えられて生きている。
それはたしかに真実だ。

だけど、それでも「独り」をどこまでも感じる時がある。
その孤独を強く意識する時がある。
「頭じゃなくて、心が『独り』を感じる」、という事実。

結局、誰とも分かりあうことなく、
誰とも心底からかかわることなく、
死んでいくんじゃないか、という感覚。

そういう感覚は、現代社会においては、日常の感覚なのではないか?!

たとえいつでもケータイで人とつながることができたとしても、
それで「孤独」が消えるわけではない。
ケータイの結びつきのはかなさは、誰もが知るところのようにも思う。

そういう孤独感は、いったいどこから来るのか?

「分かりあえない」という感覚。
結局は他者に触れられないという根源的な孤独感。

そんなのは思い込みに過ぎない、と言い返すことはできる。
でも、その感覚はリアルな感情なのだ。
思い込みであっても、そうでなくても、
そう感じるという事実は否定することができない。

人間は、結局は独りなのか?そうでないのか?

きっと死ぬまで分からない問題だとは思う。
でも、僕はいつもどこかでこの問題について考えている。

・・・

コメント一覧

haru
はい。距離を置いてます。

向こうがかかわろうとしても私はかかわらない。
傷つけるつもりなんかないのはわかってる。でも私は傷つく。

わかりあえないんですね(苦笑)
哀しいかな。。。
kei
人間は結局は一人、と考えるか、
それとも
人間は結局は関係の中、と考えるかで、
ずいぶんと生き方が違ってくると思うんです。

僕もやはり「一人」という感覚が強いです。
もちろんいろんな人に支えられている、
ということは実感するのですが、
突き詰めると一人かなって。

それはネガティブな意味ではなくて、
一人なんだからつながっていこうよ、
というポジティブな意味で。

分かり合えないという前提で、
人と関わっていくほうが、
何かと楽な気がするんですね。

関係性がこじれてボロボロ、
というのはただ事ではないですね。。。

でも、そういうときに、
こちらがいくら手を打っても、
ねじまがっていくことが多いんですよね。

待つしかない、、、か?!
haru
哲学と切り離してフランクに話します。

私は独りだと思う。というか独立していると思う。独立してそれからの関係。まず自己がなければ、両方にとって辛い関係となってしまう。
親子でも。夫婦でも。甘え。

だからといって踏み込まないということではなくて(私はどかどか入りますから。)それに対してちゃんとぶつかれるか。
独りってのもどういう定義かな?と思います。

私はいま、関係性というモノがこじれて独りを感じます。赦してやることは簡単なのですが何度も繰り返されて。。。私が傷ついてボロボロなのです。
フラッシュバックしてしまいます。しょっちゅう。
難しい。。。
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