麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚の死刑執行…。
遂に、この日が来てしまった。
1995年の地下鉄サリン事件から23年。
遂に、一つの「ピリオド」が打たれた…。
これで、終わりではない。
これからも、僕らは「オウム」の「亡霊」と向き合わなければならない。
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なぜ、あのような悲痛な事件が起こったのか。
その真相は解明されることなく、麻原氏の死刑が執行されてしまった。
もう、あの事件の真相を知る術はなくなった…。
でも、僕は、悲観しない。もの
恐らく、死刑が執行されようと、されまいと、彼は「沈黙」するだけだろう。
生きていれば、もしかしたら真相を語れる日が来るかもしれない。
けど、その可能性は極めてとても低いものだっただろう。
それに、きっと、麻原が何を語っても、僕らが納得する答えは出てこないだろう。
あの事件に、「正しい解答」はないんだと思う。
…
ただ、僕らが求めている「真相」というのは、ひょっとしたら極めて平凡なものかもしれない。
今日、僕は色々と考えて、…
「きっと、あの事件の<真実>はごく単純なものなのだろう」、と思うに至った。
そのことを書き残しておきたい。
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先ほど、報道ステーションで、気になるコメントが出されていた。
早川紀代秀死刑囚の手記だ。
ネットでも、そのことに触れる記事があったので、引用したい。
07/06 22:33 テレビ朝日 【報道ステーション】
早川死刑囚からの手紙「私が教祖に従った理由」
オウム真理教の一連の事件で死刑が確定している13人のうち教祖・松本智津夫死刑囚(麻原彰晃)を含む元幹部7人の死刑が執行された。
スタジオでテレビ朝日デスク・清田浩司が解説。
早川紀代秀死刑囚からの手紙を紹介「良心を覚醒させ拒否すべきであった。でも、そういったことができなかったからこそ、私を含め、多くの高弟たちが事件に関与した」。
残る死刑囚は岡崎一明、横山真人、端本悟、林泰男、広瀬健一、豊田亨。
警察庁・国松長官事件、高橋克也受刑者、マインドコントロール、洗脳、化学兵器、サリン、VXガス、テロについて言及あり。
早川死刑囚の言葉に、地下鉄サリン事件の本質が示されているように思えてならない。
「良心を覚醒させ拒否すべきであった。でも、そういったことができなかったからこそ、私を含め、多くの高弟たちが事件に関与した」
僕は、オウムの一連の事件の本質=真実は、彼の言葉に即せば、「拒否できなかったこと」にあると思う。
信者たちは、麻原の命令を拒否すべきだったのに、拒否できなかった。
だから、あんな事件が起こった。
ここに、「権威主義」の問題点と、「反権威主義」の重要性が示されているように思う。
拒否すべきだった。
でも、できなかった。
麻原の命令に従うしかなかった。
拒否することなく、麻原の命令に従った。
恐らく、早川死刑囚も、こう言っただろう(思っただろう)。
「私はただ、命令に従っただけだ」…。
これで、分かる人には分かってもらえるだろう。
オウムの一連の事件の問題は、ヒトラーに忠誠を誓ったアイヒマンとほぼ同じだ、と。
「私はただ、(ヒトラーの)命令に従っただけだ…」
…
今日、早川死刑囚の言葉が聴けてよかった。
やはり、立ち向かうべきは、「他律」であり、
求めるべきは、「自律」なんだ、と。
なぜ、地下鉄サリン事件みたいな恐ろしい事件が起こったのか?
それは、かつてのオウムのメンバーが「アイヒマン状態」だったからだ…
(若干、異なる点も幾つかありますが、そこはあえて無視します)
組織のトップを「忖度」し、そのトップの意向(空気)を読み、
そして、トップに対し、忠誠を誓い、トップの命令に従う…
(日大アメフト部のあの事件もまた同じ構造だったか…)
「良心なき服従」…
かつてのヒトラーが国民に対して求めたことだ…
やはり、権威ある人間に盲目的に盲従することほど怖いものはない。
そのことを指摘するツイートもあった。
今日、日本に殺された早川紀代秀氏が記者に寄せていた手紙の一文を報道ステーションで紹介してた。「良心を覚醒させ拒否すべきであった。でも、そういったことができなかったからこそ、私を含め、多くの高弟達が事件に関与した」これ、今の日本の組織で日常的に起こってることそのものじゃないですか。
— DJ Karaage粉 (@adisomak) 2018年7月6日
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あのオウムによる地下鉄サリン事件から、僕らが学ぶべきこと。
それは、他律的に生きることの恐ろしさ、だろう。
そして、それと同時に、自律性(同調しない力)を強めること。
僕らみんなが、自律性を有する努力を続けることをしっかりやることで、
あの忌々しい地下鉄サリン事件を二度と繰り返さないことが可能となるだろう。
<同調しない力>を得ることが、この事件から学ぶべき最大のポイントではないだろうか…。
同調する力、すなわち他律の危険性を繰り返し訴え続けることこそ、
僕らに課せられた義務であり、責任であると思う。
また、権力や権威を手にした人間は、その下の人間の自律性をしっかり尊重すること。
おごれるもの久しからず。
権力や権威を手にした人間の責任についても、考える必要があるだろう。
麻原も、ヒトラーも、内田前監督も、その責任を全うしなかった。
PS
だから、僕は今後も、自律性を強く要請し続けていこうと思う。
NO!と言える人間を育てる教育学に命を賭けたい、とも思う。
組織やそのトップに、無批判的に従順になるのが、この国の人々のメンタリティーだ。
そこを批判し続けることが、僕のライフワークなのだろう。
(まぁ、だから、社会的な出世はもう無理だな…(;´・ω・))
「一教師」としても、今後もっともっと学生たちに「自律性」を求めるようにしたい。
それこそが、二度とあのような事件を繰り返させないための方法となるんだろう、と。