Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

信頼される人になる? それとも、信頼する人になる?

信頼される人をめざすか。

それとも、信頼する人をめざすか。

これは、Beの愛ともからむ話かな、と。

世の中には、人に信頼されようと頑張っている人がいっぱいいる。

僕のまわりにも、人から信頼されるよう、必死に頑張っている人がいる。

信頼というのは、一日二日で得られるようなものではないので、日々、信頼が得られるよう、注意深く生きる必要がある。

「この人なら、信頼できるから、頼もう」

そう思ってもらうためには、それ相当の努力をしなければならない。

人に信頼されている人を見ると、「凄いなぁ」と思う反面、「大変だろうなぁ」とも思う。

人間って、根本的に怠慢な生き物だから、「信頼できそうな人」を見つけては、あれやこれやと求めようとする。で、その求められた真面目な「信頼されたい人」は、それに応えようと、必死になる。

当然、信頼が得られれば、「シンパ」も増えて、色々といいこと(メリット)もあるだろう。

でも、そのいいことが、本当にその人にとっていいことなのかどうかは分からない。

他方、人から信頼されるかどうかは問わず、人を信頼しようと努める人もいる。

どんな人であっても、信じよう、信頼しよう、失敗しても信じ続けよう、と思う人である。

こういう人は、実はそんなに多くはいないように思う。

人は、誰かを疑う生き物である。少しでも「不信」なところを見つけたら、とたんに人を疑い出す。そういう人は、僕らの身近なところに、いくらでもいる。

人を疑い、けなし、悪く言い、嫌悪する。それが、ダスマン(Das Man=世人)の存在様式だ。

そういう人も含めて、まるごと人を信じ抜ける人は、そう多くはない。でも、いる。

自分の敵を愛せる人、と言ってもいいかもしれない。

人に信頼されることを期待せず、人に信じてもらえる見通しも立たない中でも、それでも、その人を信じようとする人。そういう人は、やはりBeの愛に近い生き方をしているように思う。

「この人は信じられない」と言うような人であっても、その人のことを信じ抜くこと。それこそが「信念」であり、「能動性」を備えた主体的な人間、と言えるだろう。

人に信頼されようと、自分のエネルギーを使う人は、もちろん信頼されることになるだろう。なぜなら、その信頼を「得たい」と考えて、そのための努力をしているからだ。

でも、「得たい」という欲望がある限り、それは「Have」の生き方でしかない。

逆に、何を得るものがなかったとしても、それでも「信じ抜く」という行為をし続けている人は、見返りを求めず、能動的に生きているという意味では、「Be」の存在になっていると言っていいだろう。

人を悪く言うのではなく、人を見下すのでもなく、人を信じること。どんな人であっても、信頼すること。信頼し続けること。それができる人は、きっと「愛する能力」をもっている人と言えるだろう。

僕は、自分で言うのもなんだけど、そんなに信頼されるタイプではない。そもそも、信頼されるための努力をしないし、安易に信頼されたくもないし、そのために自分の大切なエネルギーを使いたいとも思わない。人は人、僕は僕。

でも、その代わりにというか、どんな人であっても、信頼しよう、信頼し続けようと努力しているように思う。

どんな失敗をしても、どんな無礼なことをしても、どれだけ僕を嫌おうとも、その人がいつか分かってくれるだろうということを信じて、信頼し続けたいと思うし、それを実践しているとも思う。

人間のエネルギーには限りがある。信頼される努力をするか、信頼する努力をするか。

それによって、生き方もずいぶんと変わってくるんじゃないかな!?

きっと、「得」なのは、信頼される努力をし続けることだと思う。なぜなら、信頼されることで、自分のステータスが上がるから。つまり、自分にも「得」がある、ということだ。

逆に、信頼する努力というのは、「裏切り」に合うリスクも高く、「損」になることもしばしばだ。信頼していたのに、裏切られた、というのは、自分にとっては「損」でしかない。

それでも、そういう損得を顧みず、自らの意志に基づいて、人を信頼し続ける人というのは、とても勇敢だし、自己を失っていないし、意志の強い人でもある。

それは、「夫婦関係」においても、とても重要であるようにも思う。

相手に信頼されようと必死に頑張るパートナーというのは、実はその相手を「愛している」ということにはならない。むしろ、「愛されたい」という願望が先んじているのだ。

逆に、「相手にどう思われようと、自分は相手を信じ抜く」、という強い意志をもっている人は、その相手にとっては、とても心強い人になるだろう。なぜなら、その人は「信念の人」だからである。自分がちょっとした失敗をしても、それを咎めることなく、変わらずに信用してくれるだろう、と期待できる人であるなら、きっとその人から、パートナーが去ることはないだろう。

生き方というのは、人それぞれだ。

信頼されるよう日々努力をする人も、信頼しようと日々努力をする人も、どちらも間違っているわけではない。ただ、生き方としてはずいぶんと隔たりがあるようにも思う。

一生懸命、人から信頼されるようと、努力をしている人は素晴らしい。その人を批判する気はない。

でも、それって、結局は「自分のため」だよね?!、と。

アリストテレスではないけど、「人に愛されるために人を愛する」と「人を愛するために人を愛する」とでは、全然違った「帰結」が待っていることだろう。

人が信頼されなくなるのを見て、「ざまぁみろ」とバカにするのはいいけど、その人は、いったいどれだけ人のことを、信頼しているのだろうなぁ?、と思う。

色々考えると、結局は、「人のことを(無条件に)信頼できない人は、結局は、誰からも(無条件に)信頼されていない」、ということになるんだろうな、と45年以上生きてきて思う。

損得で動く人には、やっぱり損得で動く人が集まる。でも、そういう人って、自分に「得」がないと分かれば、すぐに消え去ってしまうだろうな、と。結局、誰からも愛されない「イタい人」っていうことになる。

そういう取るに足らないことは全部吹き飛ばして、だれかれ構わずに、みんなまるごと、信頼しちゃおうぜ!って。

信頼されるかどうかは、相手次第だけど、信頼するかどうかは、自分次第。

自分で支配できるのは、「信頼されること」ではなく、「信頼すること」だ。

「される」は受け身で、「する」は能動的(&創造的)。

どっちの道を選択するかも、結局は自分次第ってことなんじゃないかな??!!

愛することも、信頼することも、きっと「原理」は同じなんだろうな…、と。

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