Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

Gadamer 書くことと語ること(Schreiben und Reden, 1983)

書くことと語ること(翻訳)
H.G.ガダマー
(Schreiben und Reden, 1983年)

書く技術(Kunst)は、話す技術とは異なっている。ましてや、教える技術とは全然違うものだ。大学の講師は、しかるべき距離をとった場合にのみ、書く技術を生業としている人々と並ぶことができる-哲学の講師は、偉大な賢人を自分たちの前人未到の模範者としているが、そうした哲学の講師は、決して一行(eine Zeile)の文も書かない。書かれた言葉は、プラトンがわれわれに教えてくれているように、思考することよりも怪しいからだ。弁論術(Redekunst)でさえも、それが職人の域に達するや否や、疑わしい。ソクラテスは、彼の時代の弁論術者たちの考えを踏襲することができなかった-実際、このことは今でも通用する。週に20時間から30時間も、完璧な話者の話に耳を傾けられる人間などいない。ましてや、知識を渇望する若い学生や思考に飢えた学生たちなどとんでもない。読み(Lesen)は、また別の出来事である。その限りで、読みというのも、書く技術とはまた違うのである。しかしまた、書く技術は、その技術が得られるのと同時に、胡散臭い魔法を行使する。書く技術は、明け渡す(freimachen)代わりに、取得することを強要するのである。

または、われわれにとって、書く技術は本当に難しいのだろうか。明らかに、書くことが強要されることは、私にとっては、ものすごい苦痛であった。(書く場合)向かい側の人、つまり、人が思考と呼ぶところの「自分自身との対話」をし続けるために、沈黙しつつ、それでも絶えず応えてくれる対話の同伴者となる他者は、いったいどこにいるのだろうか。いかなる作家であっても、彼なりの仕方で、こうした対話を強く求めているものである。しかし、作家の技法は、作家が、書くということによってのみ、そして、直接的に自分の前に誰かを置かないまま、こうした対話の始め方や、その導き方を知っている、ということの内にある。われわれ教師は、今や、非常に甘やかされている。われわれ教師は、一週間、一ヶ月にわたり、われわれを理解している(ないしは理解していると信じている)同じ対話の相手と共にいる。たとえ時折われわれがわれわれ自身のことを全く理解していないとしても、同じ対話の相手と共にいるのである。こうしたことは、技法として-語りの技法として、また書く技法としてはなおさら-認められるようなものではない。

近代の再生・複製技術(Reproduktionstechnik)によって、われわれ自身の講演や講義で、「言葉のリコーダーによる音声録音(Recorder-Abschrift)」が使われてから、今日、われわれは、全く錯覚に陥ることなく、その場に居合わせている。どれほど不明確に、不完全に、よそよそしく読んでいることだろうか。実際にはどうなのだろう。意味あるもの(Sinnvolles)を生み出すために、つまり、例えば、自分でためらいながら探すこと(das eigene zögernde Sachen)、喜びを伴う場合の多い「正しい言葉の発見」(manchmal freudige Finden der rechten Worte)、他者が興味を持って耳を傾けてくれること、リアクションの波が打ち寄せること、準備ないしは抵抗、同意ないしは怪訝な驚き、そういった意味あるものを生み出すために、すべてはどのように互いに関与し合っているのだろうか。いいや、これらすべてを先取りして、自ら現実のものにしようとする「書く技法」から、われわれは、われわれ教師をほとんど学んでいないし、われわれ教師をほとんど理解していない

このようにして、私は、常に、今どうなっているのか、ということを書くことを先送りしてしまっている-もはやそうする以外に道がなくなってしまうまで、先送りしてしまっている、と私は思う。指図(Auftrag)があってもなくても、時間的圧力があってもなくても、何か読めるものを記録するよう、人に強要されるまで、先送りしてしまうのである。とりわけ、初めの第一文が最も難しい。

さて、ポール・ヴァレリー(Ambroise-Paul-Toussaint-Jules Valéry)も、詩の最初の一節に関して、似たようなことを言っていた。しかし、それ(文章の第一文と詩の最初の一節)は比較不可能のように思われる。詩の第一文は、詩人のイマジネーションへの最初の招待状のようなものであり、また、彼の言葉による最初の招待のようなものなのである。この最初の一節は、詩人のところにやってくる。-私が文字にする最初の一文は、わたしのところに全くもってやってこない。そうではなく、最初の一文は、絶望から選び出される。絶望と希望の中から、さらなる文章は、その一文の後を引き続いていこうとするのである。そして、その後、(私のところに)やってきて、言わなければならないことにいっそう近づけるような文章が後に続こうとするのである。

しかし、それにもかかわらず、この二つの経験〔*詩の一句を書く経験と文章の一文を書く経験〕には、或る深い共通性があるのだ。すなわち、現在・現代の全体の中ではなく、また目覚めた精神全体の中でもなく、その時代の中にいる人間の偉大なる情熱(Passion;受苦)である。そこには、書き取るようにして夜の星明りの叙述的全体を書き綴ったゲーテの詩的才能のように、魅力的な自然現象(Naturwunder:自然の驚き)があるのかもしれない。しかし、また彼も、われわれの誰もがそう感じているように、自分が時代性の苦悩に晒されていると感じていたのかもしれない。一度に全てを言おうとすること、これができる人間などいやしない。われわれは、どもり、つっかえる存在(Stammler)なのである。われわれは、常にすでに、最も近いところにいる。だが、それゆえに、その最も近いもの、つまり正しい言葉は、全く表れようとはしないのである。ヘルダーリンの詩の草案(スケッチ)は、こうした情熱を示す一つの最高の例であろう。この詩作の権威的な詩人のヘルダーリンでさえ、何度となく、更なる詩の節を書き留めるために用いる「速記記入(Voreintragungen:予めの記入)」をしなかったのである。「私は、自分が望むように、決して遭遇することはないだろう、尺度と(Nie treff ich, wie ich wünsche, das Maß)」。われわれはこの言葉に耐え忍んでいる。もろもろの言葉は、われわれを前進させてくれるが、常にわれわれを目的へと導いてはくれない。このことは、書く人や考える人なら誰もが知っていることである。

では、存在しないものを表し、呼び起こしながら、その存在しないものを示そうとする思索者にとって、正しい言葉とは何なのだろうか? それは、詩人や偉大な作家の場合のように、言葉を形態や歌曲につなぎ合わせるもろもろの言葉ではない。最も良い場合には、自らを完全に取り消す術を知っていて、読者や聴者個々の人々の考えを動かすことのできる言葉がそういう言葉なのである-語る際に、考えをゆっくりと作り上げていくことを推し進めてくれる「はずみ車(Schwungrad)」のように(ハインリッヒ・フォン・クライストと話すために)。

もし人がわれわれの言葉を繰り返し言うならば、その〔繰り返しの〕響きは、われわれの反証のようなものである。それに対して、その響きが或る言語の芸術作品を見出すならば、その響きは、われわれへの慰めであり、われわれが今後も決して果たすことのできない予言(Verheißung)のようなものなのである。


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