場所を示す言葉には、二つの根源的な言葉がある。すなわち、「場」と「現場」である。
「場」と「現場」という発想は、いったいどこから来ているのか。場と現場というのは、語感からして、どこか違うような気はするが、どこがどう違うのかを言葉にすると、どこか空をつかむような感じになり、うまく言葉にできない。とてもシンプルで、日常的な言葉であるにもかかわらず、とても深くて、意味深なのである。
この「場」と「現場」という発想は、これまで研究の現場や実践の現場でポピュラーであったわけではないし、歴史的にもそれほど深く考えられてきたわけではない。それに近い発想はあるにしても、場と現場という言葉の違いは欧米ではあまり見られない。(ドイツ語だと、現場は、an der Ort und Stelle, Bei der Tatなどが挙げられる。場はPlatzかな。語感的にもそういう感じかな。Stelleっていう言い方が現場っぽい)
小田実さんの『われ=われの哲学』 では、場と現場のことが書かれている。小田さんは今後注目したい人物の一人だ。(いずれこの小田さんと対峙してみたい)
また、金子啓一さんという神学者が神学の立場から、場と現場を区別しているようだ。明治学院大学の深谷美枝さんのHPを見ていたら、偶然次のような文章を見つけた。
金子によれば「場」とは安定性、平穏無事性を特性とし、階層性を有し、またそれゆえ、内部に支配や差別、暴力等の問題や矛盾が潜んでいる。そのような「場」に対し、「現場」では「不安定性・緊張性・事件性・切迫性」などを特性とし、人間が持っている本質的な自由に基づく共生の関係が築かれる。(http://www.hpmix.com/home/fukaya/homepage2/C9_2.htm)
*金子啓一、「神学方法について―いま、どの神学か」、立教大学キリスト教学34号、1992
この深谷さんの記述では、安定性と不安定性という軸、平穏無事性と緊迫性・事件性という軸で場と現場が分けられている。
だが、深谷さんの場合、さらに「階層性」という視点が含みこまれている。場は、あらゆる階層に分化されており、そのおのおのの階層同士の棲み分けがなされている。そして、その階層の内部で、支配や差別や暴力や矛盾が潜んでいる、と。場は、固定され、定められ、あらかじめ決められている。そこに流動性もなければ運動もない。動きがないのが場である。現在の社会のあらゆる場所で、この固定化が行われているように見える。二世、三世の総理大臣や政治家や医師、そして、最下層の再生産・・・ そしてその狭い場の中で、おぞましいほどの支配や差別や暴力が横行している。
さらに深谷さんは語る。
「場に居ながら(居ることを余儀なくされながら!か)「天下の道理」と「人の世の情け」を感じ取りやむにやまれず、「現場」に駆けつけて「助ける」「運動」を行う。その「行為」で波風が立ち、「場」は幾分でも現場になり、ピラミッドが切り崩され、他者との開かれた関係、自律的で共生的な「場」を形成することが大切なこととされている。(同上)
ある場に固定された人間も、「道理」や「情け」を感じれば、現場(別の階層)へと向かうのである。そして、そのときに、場も現場と変わるし、その現場で他者との開かれた関係を形成することが可能だ、と彼女は訴える。現場に行くか、行かぬかは、その人の生き方如何、ということになろうか。
不安定で、緊張がはしり、事件性が高く、緊迫した現場は、場にいる人間にはかなり耐え難い場所であるに違いない。現場にいる人間は、傍観することが許されず、当事者とならざるを得ない、そんな不安定な場所なのだ(ここに「他者性」という概念が入り込む)。しかも、何かをするにしても、どれもうまくいく保障などなく、むしろリスクと危険をともなう。それが現場の本質なのだ。守られ、安全で安定した場にしかいない人間は、現場にいること自体に耐えられないだろう。(*僕の場合、昔は夜の街を「ワクワクする場所」と思っていたが、最近では夜の街が怖くて仕方ない。落ち着かないのだ。今現在僕は守られた場所におり、不安定な場所は居づらくて仕方ない)
現場は、安住の地ではない。
ところで、場と現場の代表的な例は、研究の場と実践の現場という例であろう。「理論的にはそうかもしれないが、実践現場ではそんなうまくはいかない」、といった声はときおり耳にするし、「書を捨て町に出よう」というスローガンも場と現場の違いを示す代表例だ。昨日ふと見たテレビで、旅をする大学生が、「机に座って本を読むよりも、こうやって旅をしていた方がよっぽど自分の身になるし、経験として生きてくる」と言っていた。上の金子や深谷の発想を下にする限り、こうした考え方の背景には、「他者との連帯(他者との具体的なかかわり)」という考えがある。本を読んでいる時、われわれは、その著者ではなく、その著者が書いた文字と向かい合う。その場は、守られており、安全であり、決して身の危険は感じないし、他者(著者そのもの)とかかわっていない。こう考えるのが一般的である。
しかし、こうした対立は「場」と「現場」の本質を突くものなのだろうか。事件が起こった場所が現場なら、その事件を報じるテレビ局のスタジオも現場であるし、またその事件の報道内容を決める制作の場所も現場である。本を読みながら、身の危険や、不安定さを感じることもあるし、本を通じて、様々な新たな出会いがあったりもする。そもそも本は他者によって書かれたものであり、間接的にではあるが、他者との出会いの現場となり得るはずである。あまり、単純に「場」と「現場」を区分けするべきではないと思う。
前出の小田実さんは、「人事でなくなってしまうのが『現場』である」、と言っていた。多分、それが「現場」の本質なのだと思う。この考え方からすれば、どの場所が場で、どの場所が現場かを考えるのではなく、一人ひとりの人間のあり方や居かたを問題にすべきであろう。現場とは、言わずもがな、すべての人にとって人事でなくなる場、見過ごせない場所だ、ということになるし、極めて人間学的な場所なのだ。
今後、この問題と正面から向き合いながら、様々な観点から、じっくり考えていきたい。