Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

■猫町■萩原朔太郎■詩人が語る猫町とは・・・

今度、11月に学会で発表をするんだけど、その原稿を書くために、色々と本を読んでいて、ふと目に入ったのがこの本だった。

萩原朔太郎(1886年~1942年)は僕が大好きな詩人の一人。ヴィジュアル系世界が好きな人なら、知っている人も多いはず。なんか退廃的でいて、変で、奇妙で、ダークな世界観がたまらない。(僕は、群馬県=ヴィジュアル系の聖地と信じているのだが、その背後には彼の存在があるように思えてならない。萩原は前橋市出身)

そんな萩原朔太郎が書いた小説(散文)が、「猫町」(1935年)だ。

この小説の主題は、「一つの物が、視点の方角を換えることで、二つの別々の面をもっていること」、「同じ一つの現象が、その隠された『秘密の裏側』を持ってるということほど、メタフィジックの神秘を包んだ問題はない」(p.26)、ということだった。主人公が見た「猫町」の世界は一体何だったのか。リアルなのか。虚構なのか。それともリアルの背後に潜むもう一つのリアルなのか。またまた、虚構の中のリアルなのか。虚構の中の虚構なのか。読めば読むほど不可解な内容だが、意地悪く見れば、当時の「流行」の実存主義をパクっただけとも取れなくもないかな。

で、僕が気になったのは、次の箇所だ。

・・・とにかく私は、勇気を奮って書いてみよう。ただ小説家でない私は、脚色や趣向によって、読者を興がらせる術を知らない。私のなし得ることは、ただ自分の経験した事実だけを、報告の記事に書くだけである。(p.28)

主人公の「私」は、上の一つの物事に二つの別々の側面がある、ということを示すために、物語りはじめた。彼は「書かずにはいられなかった」。しかも、小説家が書くようにではなく、詩的に語ろうとしていた。言いたいことがなかなか伝わりにくい仕方で、語っていた。

萩原が暗に批判している「小説家」に近い存在として、「学者」がいるのではないか。「脚色」の嵐というかなんというか。既に分かっている事象を、さも分かったような言葉で、「脚色するだけの文章」。

僕は、「実践者の語り」についてずっと考えているのだが、実践者がすべきことは、起こった事実を脚色するのではなく、まさに上で言われているように、「自分の経験した事実」を、「報告の記事に書く」ということだけなのではないか。それだけ、というと語弊がある。それを書くことが実践者の語りであり、実践者の言葉なのではないか。

「詩的な語り」こそが、真実の語りなのではないか。そんなことを思わせる言葉がこの本の中にあった。

ホレーシオが言うように、理智は何事をも知りはしない。理知はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。だからすべての哲学者は、彼らの窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜を脱いでる。詩人の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ。(p.42)

理智を売り物にする学者や評論家の「たわ言」を見事に批難してくれている。「神話」に「通俗の解説」を・・・ 敷衍すれば、子どもたちの世界に「通俗の解説」をする教育者や、高齢者や障害者に固有な世界を「常識化」する福祉の人々。

実践者は、「理智」という悪に犯されてはならない。つまらない学者たちの言説にまどわされてはならない。つまらない学説に影響されて、自らが見ている超常識の宇宙を通俗化させてはならない。そんな叫びとなって、彼の言葉が僕の中に響いてきた。

教育や福祉や保育にかかわる人に読んでもらいたい一冊だ。そこらへんの教育書や実用書なんかよりも、100000倍、深い世界にふれることができると思うな。懸命な実践者には超オススメです。(が・・・ 即効性の高い実用性を求めている人は絶対に読まないで下さいね~♪ 役に立ちませんので~)

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