瀬戸内さんの声に、今一度、耳を傾けたい。
以下、要約(引用)
瀬戸内寂聴です。満九十三歳になりました。きょうたくさんの方が集まっていらっしゃったが、私よりお年寄りの方はいらっしゃらないのではないか。去年一年病気をして、ほとんど寝たきりだった。完全に治ったわけではないが、最近のこの状態には寝ていられない。病気で死ぬか、けがをして死ぬか分からないが、どうせ死ぬならばこちらへ来て、みなさんに「このままでは日本はだめだよ、日本はどんどん怖いことになっているぞ」ということを申し上げて死にたいと思った。私はどこにも属していない。ただ自分一人でやってきた。もし私が死んでもあくまでも自己責任だ、そういう気持ちで来た。だから怖いものなしです。何でも言って良いと思う。
私は一九二二年、大正十一年の生まれだから、戦争の真っただ中に青春を過ごした。前の戦争が実にひどくって大変かということを身にしみて感じている。私は終戦を北京で迎え、負けたと知ったときは殺されると思った。帰ってきたらふるさとの徳島は焼け野原だった。
それまでの教育でこの戦争は天皇陛下のため、日本の将来のため、東洋平和のため、と教えられたが、戦争に良い戦争は絶対にない。すべて人殺しです。殺さなければ殺される。それは人間の一番悪いことだ。二度と起こしちゃならない。
しかし、最近の日本の状況を見ていると、なんだか怖い戦争にどんどん近づいていくような気がいたします。せめて死ぬ前にここへきてそういう気持ちを訴えたいと思った。どうか、ここに集まった方は私と同じような気持ちだと思うが、その気持ちを他の人たちにも伝えて、特に若い人たちに伝えて、若い人の将来が幸せになるような方向に進んでほしいと思います。
現政権は、積極的に戦争をしようとはしていないものの、確実に「戦争」に近づこうとしている。それだけは抗えない。
そして、「戦争」にかかわる「ビジネス」に手を伸ばそうとしている。それも、間違いない。
「積極的平和主義」というのは、積極的に戦地や紛争地帯に赴く、ということを目指している。戦争に直接関与せずとも、積極的に近づこうとしている。これも否めない。
与党圧倒的優位の中で、こうしたことを断行しようとしている。
自民党支持者であっても、これら全てを望んでいる人はそう多くないはず。もちろん「ビジネスマン」としては支持しようとしても、「家庭人」、「地域市民」、「住民」として、これらを望む人はそう多くはないだろう。
たしかに、今、世界情勢が猛スピードで動いていて、隣国の脅威を感じやすくなっている。小さな島の領土をめぐって、泥沼化し、相互不信に陥っている。
一番恐ろしいのは、この国の人たちが、隣国に脅威を感じ、その隣国への信頼や信用を失い、どんどん怯えていくことだ。今、日本の保守的な人はみんな、隣国を恐れている(ように見える)。
そういう時こそ、隣国と日本との歴史的なつながりや、文化的な交流、あるいは、お互いの価値観などを確認することが大切だ。
微妙な問題はとりあえず留保して、「僕らって、ずっと色んなつながりをもって、やってきたよね」、という「つながれるところ」でつながる努力が必要。
隣国に怯え、その隣国からの脅威を守るために武装し、戦争の準備をすることの帰結を考えてみれば、それが間違った帰結である、と分かるだろう。
その帰結は、戦争しかない。
誰も住んでいない島(領土=国益)のために、何千、何万の人間が死ぬ、というのは、それこそ、滑稽な話であり、本末転倒だろう。でも、そんなおかしな話が、もしかしたら、実現してしまうかもしれない。そんな局面に立たされている。
安倍さんの頭の中には、「我が国の国益・領土」を守るためには、どんな犠牲も辞さない、という決意がある。そのためであれば、多少の犠牲は全くいとわない、そういう姿勢がある。
「国益を大切にする」というのは、政治家として大切なこと。
でも、それと同じくらいに、「二度と戦争を繰り返さない」、ということは大切なこと。
というか、戦争が起これば、もう、国益も何もない。破壊と大量殺戮だけだ。
「今の時代に、そんなアホなことがあるか」、と思うかもしれない。
けれど、今のこの状況で、隣国が「我が国の領土」と想定している場所に入ってきて、自分たちの領土としてそこに何かを作り出したら、どうするのだろう。どうなるのだろう。
それは、そんな「遠い絵空事」ではないはず。
そうなったときに、まず犠牲になるのは誰か。
現政権の「偉い人たち」じゃない。若者たちだ。若者たちが、現地に赴き、敵国の若者を殺すのだ。隣国の若者と日本の若者が殺し合いをするのだ。(もちろん、地域住民もその犠牲に合う)
シリア周辺で起こっていることが、この国でも起こりうるということだ。
僕のかつての友人にシリアのアマールという男がいる。彼は、98年に、僕にこう言った。
「kei、是非、シリアに遊びに来てよ。シリアはいいところだよ。オマエが好きそうな食べ物もいっぱいあるよ。シリアには、色んな建築物や文化的な建物もあるんだ。是非、みてもらいたいな。シリアは、安全な国だよ。keiは、心配しなくていいよ。シリアは、いい国なんだ」
当時、何も知らない僕は、シリアという国に憧れた。そして、いつか、アマールの故郷であるシリアに行きたいと考えていた。
でも、それが、この有様だ。
日本が、戦後70年、平和だったのは、自然にそうだったのではない。みんなが戦争に向かう道を断ってきたからこそ、これだけ平和が続いたんだと思う。
瀬戸内さんの叫びは、まさにその表れと言えるだろう。
僕個人的には、安倍さんって、凄い人だなぁと思っている。一度、体調を崩して辞職したのに、再挑戦をして、ここまで長い政権を担ってきた。彼の本も読んだけど、共感できる部分もある。彼の生い立ちも、それほど平坦ではなく、色んな苦労をしてきた人だとも分かる。
彼の個人的なバッシングをする気はない。
ただ、戦争に向かう道は、どんな細い道であっても、常に断ち切っていかなければならない。そうしなければ、いつ、どう転んでしまうかわからない。
戦争というのは、ある種、集団的なマインドコントロールがかかる状態である。戦争下に入ってしまえば、そこで、「戦争はダメだ!」とはもう言えなくなる。
やるか、やられるか、の世界だ。
でも、そんな戦争状態は長くは続かない。勝つか負けるかだ。
で、その後がある。
勝っても負けても、多くの「兵士たち」は、大きな傷を心に残す。殺されれば、その先はないが、殺してきた人たちは、その「殺したこと」で、深い苦しみを得ることになる。
人は、戦争時に人を殺すとき、まともな状態ではいられない。覚せい剤を使う人もいる。殺人行為が楽しくなる人もいる。殺すことで、快を得てしまう人もいる。敵国の人間を殺すことに躊躇うことは許されない。神経はどれだけ麻痺してしまうだろう。
そして、そのある種のカーニバル状態から、現実の世界に戻ってきたときに、人はどうなるのだろう。
奥崎謙三さんのことを思い出したい。
戦地で人を無数に殺した人間が、その後、どれほどの苦しみを得るのか。そこまで、想像してみる必要がある。
どんな戦争にも、「戦後」は来る。
今、僕らが戦争をしたら、どうなるのか。
そして、その戦争が終わったとき、どうなるのか。
そのことを語れるのが、瀬戸内さんをはじめとする、「戦後」をしっかりと記憶している日本の諸先輩方たちなのではないだろうか。
「戦争をして、本当によかった」、という人はいない。
日米戦で戦っていたアメリカの元軍人でさえ、重い口を開かない。(アメリカ世論としては、「あの戦争は正しかった」という意見が多いけれど、実際に戦った元兵士たちは、そうは言わない)
戦後70年。
もっとみんなで考えたいことだ。
と、いいながら、もう一方で、どうしても避けられない問題がある。
→http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/150528/wor15052821200028-n1.html
南シナ海の海洋権益を巡る問題は、「対岸の火事」ではない。
この問題がきちんと「政治的」にクリアできたなら、日本の懸念も少しは弱まるだろう。
この問題、そして尖閣問題に「希望」が見えない限り、いつまでも平行線的な議論が続くことになる。
領土の問題は、いわば「なわばり問題」。
どうしても感情的になってしまう問題である。
でも、少し冷静に見れば、このなわばり問題は、極めて動物的・本能的問題であることが分かる。
この動物的・本能的問題に対して、どこまで理性的・言語的に取り組めるか。
つまりは、非暴力的にどこまで取り組めるか。
これは、人間の歴史的な課題でもある。
欧州は幾千の戦闘の末に、ようやく落ち着いている。
その欧州の過去から学び、僕らアジアの人々はどこまで非暴力的に取り組み得るのか。
政治家や役人の腕にかかっている。