Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

新解釈学の地平@ガダマー【翻訳】

【解釈学】というと、教育学だと、シュライエルマッハやディルタイやボルノーなどがよく挙げられる。だけど、(ブログなのでざっくりといえば)彼らの解釈学はちょっともう古びているように思うのだ。僕は【学問=流行】だとホンキで思っているので、そういう意味では、流行遅れのような気がする。もちろん古典は別格だ。クラシックは古びるとか古びないとかっていうのとは無縁だ。ただ、近代~現代にかけて目まぐるしく学問の流行が変わっていく以上、何かが流行り、何かが古びていくのは必然のような気もするのだ。

このままだと教育学での【解釈学】は完全に風化した学問になってしまう。けれど、教育という営みそのものは、「解釈」という問題と完全に切り離すことができない一種独特な(自然から切り離された)営みであり、言語を介して営まれる人間の行為なのだ。【教育学的解釈学】の息を途絶えさせないためにも、僕は細々と解釈学の基礎固めをしている。その背景となるのが、我が愛するGadamer師匠だ。

そもそもわれわれは、「精神科学において鍛え上げられてきた【理解Verstehen】もまた、本質的に歴史的なもの(ein wesenhaft geschichtliches)である」という認識と、「テキストがそのつど別の仕方で理解される時にのみ、テキストは理解されるのだ」という認識から出発した。このことはまさに、「同じ事柄の同一性」と「その事柄が理解されねばならない変化する状況」の間にある緊張関係をしっかり反省するという歴史的解釈学の課題を示している。

またわれわれは、「ロマン主義的解釈学によって隅と追いやられた理解の歴史的動性(Bewegtheit)こそが、歴史的意識にふさわしい解釈学的な問題設定の真の中心なのである」、という前提から出発した。歴史的意識における伝統の意味に関するわれわれの考察は、ハイデッガーが考察した「事実性の解釈学」に結びついており、その事実性の解釈学を精神科学的解釈学にとって実りあるものにしようと試みたのであった。

われわれが示したのは、「理解とは、認識する意識によって選び出された対象に目を向けさせ、その対象をより客観的な認識へともたらすような「方法」なのではなく、むしろ一つの伝承の生起の中に立つ(Darinstehen)ということを前提として有している」、ということである。理解は、それ自身一つの生起だということが証明されたのだ。そして、哲学的に見れば、「それ自体において歴史的な変化によって突き動かされている理解とは、どのような理解であり、どのような学問なのか(was das für ein Verstehen was für einer Wissenschaft ist)」、を問うことこそが、解釈学の課題なのである。

この問いと共に、「近代の学問の自明性に対して、何か通常ではないことが要求されている」、ということをわれわれは絶えず意識している。全体的にわれわれが試みようとしているのは、その無理な要求=膨大な数の諸問題の収斂の結果だということを証明し、その要求を軽くすることである。

事実、これまでの解釈学の理論には、どうしようもないほどの区別を試みていて、ばらばらになってしまっている。このことは、解釈(Interpretation)の一般理論が展開されている箇所ではっきりと理解されよう。例えばベッティー(E.Betti)が驚くべき知識と見通しをもって打ち出した『解釈の一般理論』の中で行っているように、「認識的解釈」と「規範的解釈」と「再生産的解釈」を区別する場合、この区分に応じて諸現象を分類しようとしても、困難に遭遇してしまうのである。

このことは学問の中で鍛え上げられた解釈にも言えることである。神学的な解釈を法律家的な解釈と一緒に並べて、この二つを規範的な機能に応じて分類する時、それに相反するシュライエルマッハーを思い出さねばならない。彼は逆に、神学的解釈を一般的解釈に、つまり文献学的・歴史的解釈に密接に結びつけていた。

事実、認識的機能と規範的機能の間の裂け目が神学的解釈学を貫通している。だが、学問的認識とそれに後続する建設的な適用と区別することを通じて、その裂け目をふさぐことは恐らく無理だろう。また、これと同じ裂け目は明らかに法的解釈をも貫通している。法の条文の意味の認識と具体的な判例におけるその条文の適用は、二つの異なった作用なのではなく、統一的な過程であるはずなのである。

ここの箇所は、ガダマーの解釈学を学ぶ上でもとても重要なところだ。「理解」は「方法ではない」という表明。「解釈学」の中でも考え方において分裂しているという事実。そして、最も重要なのは、Textそのものとそれをある状況の内で理解することの間にある亀裂をどう考えるか、という大問題。ガダマー解釈学のエッセンスがぎゅっとつまった一文なのだ。

僕的には、教育学の反省にとって解釈学はとても有効のような気がするのだ。教師たちは日々無数の授業を行っている。その時、教師は、教科書というテクスト(文書)をどのように理解し、どのように伝承しているのか。「教師自身がテクストをどのように理解しているか」を度外視して、「どう伝承するか」ばかりに気を取られていないだろうか。自分の不勉強を棚にあげて、子どもや体制を批難してはいないだろうか。教師はそもそも「伝承」にかかわる仕事だ。その教師がわれわれの伝承の内に存在していないとしたら・・・

すごく個人的な話だが、教師をやっていると、知らず知らずのうちに「自分が知った気になる」という気分になり、「頭を悩ますことなく必死に説明する」という奇妙な事態に陥ることがある。自分がテクストをあまりきちんと理解していないのに、教えることばかりに気を取られてしまう・・・みたいな。

だが、解釈学は、そういう「私」の存在様式の反省を痛烈に要求する。そして、変わらぬもの(教科書テクスト)と変わるもの(人間)の間の緊張関係へと自分を戻してくれる。これこそ「反省」であり、自己再認識なのである。

*T部さんとT内さん、お疲れさまでした!難しかったっす!

コメント一覧

kei
オジチャンさん

久々のコメントありがとうございます。

オジチャンさんは、「当然の主張」とおっしゃいますが、これがなかなか難しいんです。教育においても、ガダマーのいう「亀裂」はありまして。。。教育の一般理論と、その具体的状況への適用、この二つは未だなお噛み合っていないどころか、お互いに別の道を進みつつあるように思うのです。

理論に偏るのでもなく、現場至上主義に陥るでもないあり方は非常に難しいのではないか、と思うんです。特に教育という「実践的現実」においては、なかなか一般理論として語ることができない。かの斉藤喜博でさえ、一般理論としてはなかなか理解されえない。もし彼を一般理論の論者として捉えたとき、その彼の立場はどこにあるのか。何に基づいているのか(誰に基づいているのか)。

オジチャンさんのおっしゃる「教師は現場で育つ」という現実は、まさに上の問題を示していると思います。もし現場で100パーセント教師が育つのであれば、大学など行かずに現場に出ればよいわけです。しかし、そうしてしまうと、理論不在となり、独断と偏見に満ちた非理性的な世界になってしまいます。また、世界や解釈の深みはどのような条件の下で成立するのか。勝手な思い込みではなく、深みが深みとして正当な根拠はどこにあるのか。

当然の主張、ありふれた見解かもしれませんが、今まさに考えなければならない問題だと思うのです。斉藤先生が残したものの中から、一般理論として通用するまでは議論をしなければならないかな、と思っています。

これからも是非厳しいご指摘を頂ければ、と思います。ありがとうございました!
オジチャン
当然の主張です
久しぶりに書き込みしたくなりました。色々言葉をならべておられますが、書かれていることは至極当然のことです。人間が人間を教えるなどという、出来るはずのないしごとが「教育」です。教える者に見える世界(解釈)が深くなればなるほど、教えられる者と旅することの出来る世界が深まってくるのは、教師であれば実践的に理解できる世界です。それが「教師は現場で育つ」ということ。「教師育成」に関わる貴兄には、「大学で教師に持たせる土台」は何かを追求されることを期待します。教師になる時どんな心が必用なのかと!少し、趣味の世界に走りすぎではないですか?人は仕事で大きくなるのだと、私は感じています。頑張ってください。
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