Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

for 昴 text1、text2

only for 昴受講生(中級)♪

テキスト1

「ドイツ語」という言葉 

 前世紀ではまだ、人は、ドイツ人の歴史がいつ始まったのかということをはっきりと分かっていると思い込んでいた。そう、それは紀元9年だ、と。その9年の年、ゲルマン民族であるケルスキ人の首領(Fürst)であったArminiusがトイトブルクの森で、三つのローマ軍に打ち勝った。(*ローマ軍の侵略阻止!)

 今日、この問題はそれほど単純ではない、と人は考えている。ドイツ国民の生成は、数世紀に及ぶプロセスであった。deutschという言葉は、確かに8世紀になってようやく発生した。そしてこの言葉は、さしあって、フランク王国の東部で話されていた言語のみを示していた。カール大王の下でその大きな勢力を拡大してきたこの王国は、一部でゲルマン方言を話し、一部ではロマン方言を話す種族たちを包囲した。カール大王の死後(814年)、しばらくすると王国は分裂してしまった。異なった財産分与がなされる過程で、西王国と東王国が発生した。その時、政治的境界は、ドイツ語とフランス語の間の言語的境界と重なったのだ。ようやく次第に、東王国の住民の間で同属意識(連帯感情)が育っていった。Deutschという文字は、言語という意味から、話す人という意味に変わり、遂には、その人々の住居地帯(「ドイツ」)という意味に変わっていったのである。 

テキスト2

 ゲーテは、枢密顧問官という地位にふさわしいお金もないまま、完全に一人で、イタリアへと旅立った。社会的な責任を守るために、挨拶や知らせの手紙を届けたり、厄介な招待状を受け取ったりすることのないよう、ゲーテは、ワイマール、カールスバート、フランクフルトの友人たちにさえ、自分の秘密の旅行のことについて何も言わなかった。ただ一人、彼の使用人のフィリップ・ザイデルだけが、この旅行のことを知っていた。ワイマールの宮廷公人だった37歳のゲーテは、1787年の6月の終わりまで、ローマの生活におけるすべての請求書と領収書に、ミョーラーという偽名でサインしたのだ。そして、このささやかなイカサマがほとんど成功したことと、ティッシュバインとモーリッツといった本当にわずかなドイツ人の芸術家だけが彼だと分かったことを密かに喜んだ。(1788年に政治職を辞任)

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