●教育や児童福祉を考える際、常に問題となるのは、問題行動を起こす子どもの存在である。言うことを聞かない、指示通りに動かない、周りの子どもに迷惑をかける、勝手な行動を起こす、等々。
●教師や保育士たちは、こうした問題行動に対して、その「対応策」を求める。「問題行動を起こす子どもにどう対応するか」は、教師たちが大好きなテーマの一つである。
●いじめ問題が今、熱く議論されているが、いじめを起こす子どもも、また教師たちの関心事となる。問題は常に、「問題行動を起こす子どもにどう対応するか」、である。これが、教育、福祉にかかわるあらゆる人の関心事である。
●だが、問題の核心は本当にそこにあるのか。つまり、問題行動を起こす子どもが本当に問題なのか。
●これまでずっと、それが問題だとされてきた。困った子どもには、何らかのラベリングが貼られる。「LD」「ADHD」「アスペルガー」「離婚家庭の子ども」「被虐待児」、等々。問題行動を起こす子どもは、他の子どもと違うということがことさら強く強調されている。家庭の問題にも還元されやすい。
●常に、問題とされるのは、問題行動を起こす子どもたちである。
●だが、本当にそうなのだろうか。問題行動を起こす子どもは本当に問題なのだろうか。
●本当に問題なのは、問題行動を起こす子どもを問題視するわれわれの方なのではないか。何か(大人から見て)意にそぐわない子どもを見ると、その子どもの異常性をあからさまに強調して、ラベリングをして、対応策を考える。その思考そのものが問題なのではないか。最近、そういう風に考えるようになった。
●当り前の話だが、子どもは、そもそも大人から見ての問題行動を起こすものであるし、それがまた「子どもらしさ」だったりもする。問題行動に対する「寛容さ」は、われわれの方の問題である。寛容さのないところに、教育も子育てもない。子どもは、大人の都合通りには動かない。だからこそ、「子ども」なのである。その部分を、心底理解している人がどれだけいるのか。
●また、そうした大人の対応は、それを見ている子どもにも影響を与える。問題行動を容認しない大人の姿を見て、問題行動を非難する子どもが育つ。単純な話で、子どものいじめも、それが子どもの世界にあるうちは、それほどエスカレートするものではない。大人のどぎつい「いじめらしきもの」を見て、いじめ方を学ぶ。
●ゆえに、問題行動やそれを起こす子どもが問題なのではなく、問題行動を問題とみなすことが問題なのである。いわば、「問題行動への不寛容さ」が問題の核心なのである。あるいは、問題行動に対するわれわれの受け止め方が問題なのである。
●今こそ、大人のわれわれが問われている。僕らは、問題行動とどう向き合っているのか。それを許容するだけの器をみんなもっているのかどうか。寛容さをしっかりと持ち合わせているのかどうか。そして、その問題行動に対するわれわれの「対処法」という呪縛から抜け出せるかどうか。
●問題行動において、問われているのは、紛れもない僕ら自身なのである。