はじめに:
この記事には、一部過激な画像が含まれています。ご注意ください。
プラハにやってきました。
僕の中では、念願中の念願でした。
『プラハの春』の現場をこの目で見られる日が来ることになるとは…
昨年、ポーランドとスロヴァキアに行きました。
今年は、どうしてもチェコに行きたい、と思いました。
チェコの中でも、最も行かなければいけない場所があります。
それが、
テレジーン
(Terezin)、
またの名を
テレージエンシュタット
(Theresienstadt)
という場所です。
今の中学生だと、国語の教科書(学校図書)に出てきたかもしれない場所です。
「今の」中学生なら、知っている人、多いんじゃないかな。
僕ら世代は、ホント、こういうこと、学んでない気がします。
なぜ、ここに行かなければいけないのか。
それは、まぁ、以下の記事を読んでいただければ、分かる人には分かるかな、と。
渾身のレポです。
と、その前に、行く道程も書いておきます。
プラハ中央駅から、バスターミナルを目指します。
まずは、地下鉄。
こちらが、プラハの地下鉄です。
初めての異国の地で、地下鉄に乗るときはドキドキします。
でも、なかなか、綺麗です。
綺麗で、そして、シンプルで、途方もなくでかいです…。
なんか不思議な感じ。
で、こちらが、プラハの地下鉄B線です。
プラハの地下鉄って、すごい簡単で使いやすい!
A、B、Cの三種の地下鉄が走っていて、どれも中心地で交差しています。
乗換も簡単!
(しかも、それぞれ色分けしてあって、すごい分かりやすい!)
この地下鉄で、ホレジョヴィツェ・バスターミナルに向かいます。
地下鉄Cで、Nadrazi Holesovice駅に行きます。
地上に出たら、すぐにバスターミナルがあります。
(*駅を出て、左手直進です!二つバス停?があるので注意!)
テレジーン行きの高速バスのりばは、7番線。
9時30分発、Litomence行きのバスに乗り込みます。
往復で800円くらい!?
プラハの公共交通は、異様に安いです。
地下鉄は30分チケット一枚100円程度。
この左手の奥が、7番のりばになります。
バスには、ぽつぽつと人が集まってきます。
テレジーンに行く人は、僕を含めて8名ちょっと。
みんな、ヘタクソな英語で、やり取りをしていて、面白かった。
英語を母国語にしていない人なんて、みんな、こんなもんだ、と(苦笑)。
英語なんて、ある程度でいいんですよ(英語圏に住まない限りは)。
ちなみに、待っている間に、ヤーネさんというチェコ人のおばあちゃんと語りました。
このおばあちゃん、めちゃめちゃ英語が流暢で、綺麗で、ビックリしました。
聴けば、ずっと長い間、外資系の企業で働いていた方なんだとか。
僕が不安そうにしていたら、色々と教えてくれました。
もう、超、心がほっとしました。
(いかんせん、一人だし、チェコ語なんて全然分からないし、ドイツ語も通じないし…)
というわけで、出発!
一番好きな席をキープできました。
運転手のおじさんも、お気に入りの歌をかけて、ルンルン(苦笑)
これ、分かりますかね!?
ヨーロッパって、大きい交差点には、「信号」がないんですよね。
その代わりに、円形の交差点になっていて、右回りで、みんな各方面に進みます。
なので、信号でつまる、ということがなくなったんですよね。
これはいいアイデアだと思いますが、土地のない日本には無理かな、と。
で、到着しました。
Terezin, u pamatniku(バス停)。
ちなみに、先のおばあちゃんによると、
u pamatnikuとは、デンクマールという意味で、文字通りmemorial。
なお、『地球の歩き方』だと、Terezin, Bioveta下車と書いてありますが、これは間違いです。
(15年8月現在)正しくは、「Terezin, u pamatniku」です。
今回の運転手さんは、大きな声で、「メモリアール!!」と叫んでみんなに教えてくれました。
さて。
まずは、「国民墓地(ユダヤ人墓地)」→「テレジーン小要塞」を巡ります。
いきなり、強烈なシーンが目に飛び込んできます。
無数の石碑です。
その数、一万個らしいです。
ものすごい数です。
Ladislavさんというのかな?!
1945年6月に亡くなったそうですね。
遺骨はここに埋葬されているそうです。
完全なる「墓地」ですね。
ユダヤのシンボル、「ダビデの星」です。
個人的に、このダビデの星、すごい好きなんです。
単純に、美的でカッコいいっていうか。
(思想的な意味はとりあえず度外視して、単純にカッコいいなぁって)
ダビデの星が、亡くなった方を見つめ続けているような気がしました。
この中には、たくさんの子どもたちもいたそうです。
というか、かつてのテレージエンシュタット強制収容所は、他の収容所よりも多くの子どもたちが集まっていたそうです。
石碑を見ると、それこそ、3歳、4歳、5歳くらいの子どもの名前もありました。
兵隊にしても、民間人にしても、殺されるのはいつも「若者」なんだ、と。
(しかも、今回笑えないのは、現実にシリア方面で、21世紀型(?)の悲痛な戦闘行為が事実起こっていることです。ドイツに押し寄せてくる「政治難民」も膨大で、いつ、どこで、大量虐殺が生まれるか、考えると、やはり笑えません)
(また、そのシリア上空には、アメリカの戦闘機が多数飛んでいて、「空爆」を続けているそうです。今回の「戦争法案」が可決されると、この(戦争だらけの)アメリカと共に戦うことにもなりかねない。ブレーキはあってないようなもの。としたら、「被害」だけでなく、こうした大量虐殺の「加害者」の側に立つ可能性もでてくるんですよね。「戦争反対!」という日本の市民の声は、「日本で戦争をするな」だけではなく、「世界で戦争に関与するな!」という声なんですよね)
さて。
ここ、まさに、「要塞」ですよね。
なお、この要塞は、ナチスが作ったわけじゃないんですね。
その歴史はとても古くて、18世紀末に作られたものだそうです。
その名前から分かるように、女帝マリア・テレジアの栄光を讃えての命名だそうです。
時期的には、1790年頃?! テレジアが亡くなったのが、1780年なのでそのすぐ後くらいかな?
しかも、この要塞は、そもそもは「牢獄(監獄=刑務所)」だったみたいですが、徐々に、いわゆる反政府系の人間を逮捕し、収容する場所になっていったそうです。
歴史は、いつでもそう。
権力や国家や政府に抵抗する人は、必ず弾圧され、不当な逮捕、さらには、虐待、殺害されるんですよね。でも、抵抗する人がいなくなり、その国家や要人たちが暴走し、国民を管理すれば、それは、もはや民主主義国家ではありません。独裁国家です。(でも、フロムの言うように、自由に耐え切れずに、独裁下の状況を求める市民もとても多くいる、ということでしょう。自由から逃走して、そして、安全で完璧な政治システムの下で庇護され、安心したい、という…)
でも、それこそ、「近代」、ないしは「現代」の否定になるわけです。
「法の支配」、「民主主義」は、みんなで守っていかなければ、すぐに壊れてしまうんです。弱いから。
…
これは今に通じる話ですよね。
で。
こちらが、エントランス。
なかなか物騒なデザインの入口となっています。
まぁ、エントランスに行けば、お金が取られるだけなんですけどね、、、汗
なお、コンビチケット(要塞+ゲットー博物館)で、1000円ちょっと。
あと、25円くらいで、要塞内のパンフレット(日本語)が買えます。
これは、買うべきかな、と。
入口付近で、早速見つけました。
ドイツ人の高校生たちの集団。
今回の「裏」の目的は、この場所にやってくるドイツの若者観察(?!)でした。
彼らは、いったいここで何を学ぶんだろう、と。
どさくさにまぎれて、彼らのツアーの背後を追っかけたりしました。
先生とも何人かとお話しました。
どの先生も、「ギムナジウム(頭のいい高校)」の先生でした。
つまり、ここで学んでいる彼らもまた、「アウシュヴィッツ以後の教育」を受けているわけです。
とても興味深いのは、彼らドイツ人の若者たちは、海外に行って、そして、その場所で、自分たちのひいおじいちゃん(おそらくその世代)たちが、この異国の地で何をやったのか、を学んでいることです。
日本で例えると、日本人が隣の韓国や中国に行って、そして、70年前の日本人がこの地でどんなひどいことをしたかを学んでくる、そういうことです。これを日本の公の学校がやったならば、その時には、「なんという酷い教育をしているんだ! 愛国心が損なわれるではないか! ただちにやめろ! 子どもたちに自虐史観を植え付けるな!!」、と糾弾されることでしょう。
でも、ドイツでは、これをやっているんですね。
すごい数でした。多分、5校くらいの高校から生徒がやってきていました。
(ただし、高校生のおそらく4,5人に1人は「外国人(ドイツ人じゃない)」なので、そのまま「自虐史観」にはならないんですよね。(日本も移民をいっぱい受け入れて、その子どもたちがいっぱい学校にいたら、もう、自虐史観も愛国主義的教育もなにもないんだろうな…。日本の学校には、(一部を除いて)ほぼ「日本人」しかいないから…
話が逸れました。
パンフレットの指示に従って、先を進むと、、、
いきなり、ドイツ語!
Gechaftszimmer(受付、事務局)とあります。
まず、ここで、捕虜、囚人の登録、管理が行われます。
登録されると、そのまま、進むことになります。
この道の先には、あの有名なフレーズが刻まれていました。
Arbeit macht frei、です。
そう、労働せよ、されば自由になる、と。
上の有刺鉄線が痛そうです、、、
この字体、かなりキャッチ―な感じがしますね。
他の収容所とは全然違う趣、というか。
これが、実際の当時の画像です。
笑っているのは、誰なんだろう?!
ドイツ人? あるいは、イギリスやロシアの軍人?
さらに進むと、そこに、「第一の中庭」があります。
これ、全部、囚人の監獄になっています。
ここに、多くのユダヤ人や政治犯たちが入れられてきたわけですね。
とても広いです。
とんでもない数の囚人がこの中に入れられていたんだろうな、、、と。
ここが、囚人の部屋です。
囚人というとあれだけど、収容されたユダヤ人がいた場所。
小さな窓以外は、完全なるコンクリートの壁。
あと、扉の隣に小さな小窓があります。
きっと、ここから、「食糧」をもらっていたんだろうな、と。
いやー、キツいです。
こんなところに、何日も、何十日も、何か月も入れられているとしたら、、、
それこそ、終わりなき地獄ですよ、、、
(今でも、「捕虜」とされている人はこの世界にいっぱいいます)
洗面器もしっかり残っていました。
ここで、顔を洗ったり、うがいをしたり、していたのかな?!
一応、暖房はあったんですね。
それでも、劣悪な環境×囚人の人の多さで、次々と亡くなっていったそうです。
なお、
テレジーエンシュタット強制収容所は、いわゆる「絶滅強制収容所」ではなく、その一つ手前の収容所だったそうです。
それはそれで、怖いですよね…。
次は、アウシュヴィッツですから…
BLOCK-Aと書いてあります。
その当時のままだそうです。
この要塞は、とても複雑な作りになっていて、次々に奥に何かがあります。
ある意味で、何らかのロールプレイングゲームみたいな感じにもなります。
これが、「リアル」だったら、もう「抵抗」できないよなぁ、、、と。
こちらも「囚人室」。
先ほどの部屋より狭くなっています。
こんなところに、何か月も、何年もいたら、気が狂うだろうな、と。
しかも、その理由が「ユダヤ人だから」、となると、、、
何とも言えない気分になります。
「●●人だから」、という発言の向かう先は、「絶滅」なんです。
(故に、自国のことを批判することと、他国のことを批判することには、決定的な違いがあります)
毎度ながら、こういう窓を見ると、「逃亡は不可能だ」って思います。
中には、すごいパワーの人がいて、こういう「鉄格子」もぶっ壊しちゃう人もいるんだろうけど。
僕なら、もう、無理だなぁって。
ひたすらこの中で、「ただ生きて」、そして、「殺されるのを待つ」だけだろうな、と。
この日はたまたま天気が良くて、明るかったけど、、、
天気が悪いと、もう、たまらないだろうな、と。
どんな気持ちで、この中に閉じ込められていたんだろう?!
囚人室の外に出ました。
この小さな窓だけが、きっと、囚人の救いだったんだろう、と思うと…
窓って、大事ですよね。
外(社会)と内(個)をつなぐ「窓」がなければ、個は確実につぶれる。
これだけ悲惨な牢獄要塞にあっても、「窓」だけは付けていたんですよね。
窓だけは、(たとえ殺される身であったとしても)与えてやろう、と。
こちらは、なんかよくわからないけど、、、
パンフレットを読むと、シラミ除去の装置っぽいです。
服かな? それとも人間そのもの?
この中で、シラミを取っていたようですが、、、
よく分かりませんでした(汗)
ここが、シャワー室。
なお、ここにいる人たちもみんなドイツ語でした。
圧倒的に、ドイツ人が多かった。
「他国に来て、自国の人間の行動について、真摯に向き合う姿勢」がありました。
「われわれの上の世代は、いったい何をしたのか」
このことは、日本人も目をそらせない問いだと思います。
こちらが、洗面室。
すごい綺麗に保存されていました。
トイレもそのままに保存されていました。
70年前も、トイレはトイレなんですね(苦笑)
日本だと、和式から様式に変わったのであれですけど、こっちはずっとこういうトイレなんですね。
当然ですけど、、、
(いつから、こういうトイレってあるのかな?!…)
その先に続く塀(?)も、全部「囚人室」。
とんでもない大きさです。広さです。
さらに、また、ドイツの高校生集団がいました。
先生が一生懸命解説していました。
僕も、なにげな~く、混ざって、話を聞かせてもらいました。
どっちかというと、客観的な事実を分かりやすく丁寧に伝えている感じでした。
「教師の中立性」もまた、こういう教育には必要ですよね。
(とはいえ、その客観的事実そのものを、「ねつ造だ!」と言い出す人もいて、問題は難しいんです)
高校生たちは、若干ダルそうに感じられました。
その辺は、日本もドイツも同じかな、と。
さらに、映画館!(!?)
こちらは、囚人用ではなく、1942年に「看守向け」に作られたものらしいです。
現在は、ミニシアターと、こちらの収容所での貴重な資料館になっています。
(ちなみに、写真撮影は、施設全体、お金を払えば可、というシステムになっています)
この収容所に入れられた人の貴重な写真。
手も足も、信じられないほどに、やせ細っています。
それでも、彼らの「目」に力を感じます。
でも、それは、僕の「主観」に過ぎないもので、、、
いったいどんな気持ちで、収容されていたのか。
…
…
…
さらに、奥に進むと、こんなトンネルみたいな門があります。
「死の門」、というそうです。
これまで見てきた「囚人たち」は、この門を通って、処刑場に連れて行かれます。
この門をくぐれば、待っているのは死だ、ということはみんな知っていたそうです。
想像できないけど、想像すると、もう怖くて、震えます。
抵抗しても殺される、抵抗しなくても殺される。
どうしようもない。どうにもならない。
なお、1943年から死刑執行が開始されたそうです。
250人から300人くらいの人がここで処刑されたそうです。
70年前に、この風景を見た人たちは、何を思ったんだろう?!
逃げ道を考えたのだろうか?
それとも、あきらめだったのだろうか。あるいは神への帰依だったのだろうか。
分からない、、、
で、この死の門を潜り抜けると、こんなところにでます。
そして…
こんな像が立っていました。
しばし、沈黙しました。
子を抱く母の姿がありました。
でも、今、この現実においても、このように子を抱いて逃げている母子がいっぱいいるんです。
その多くが、今、「ドイツ」を目指している、という、、、
難民の方々にとって、「ドイツ」は、今、希望の国なのでしょう。
(他方で、極右の人たちがその反対運動を行っていますが…)
きっと、「過去」を学び、しっかり過去の事実と向き合っているからこそ、なのだろう、と。
もちろん「豊かな国」だからというのもある。でも、それ以上のものがあるな、と。
ここに来ている無数のドイツ人たちを見ていて、そう思いました。
ここはプールです。
囚人たちに作らせて、看守たちが水浴場として使っていたそうです。
死ぬまで働かされて、働けなくなったら殺害、だったそうです。
まだまだ、先があります。
とにかく大きいんです。
記念碑もありました。
各強制収容所の名前が彫りこまれています。
これは何のために使うんだろう?!
こちらは、「囚人たちの影」、という名前のモニュメント。
アートですね。
ただ「遺物」を残すだけでなく、その「遺物」からインスピレーションされたものも展示する。
そういう工夫がなされていました。
こんな銅像もありました。
これは後付けかな??
収容所には、「祈る場所」も必ず用意されていました。
他の収容所も、それは同じでした。
最後はやはり、祈りなんだ、と。
BUCHEN WALDと書いてあります。
ドイツ国内では、最も過酷でし烈な収容所だった場所の一つです。
遂に、一番奥の「第四の中庭」にやってきました。
一番、開放的な空間でした。
でも、
一番、キツい、過酷な囚人部屋でした。
この場所から逃げたくなりました。
この場所は、24時間、完全なる監視下にありました。
最も過酷で、最も厳しい収容エリアになっています。
このエリアの右手は、超過密な囚人室。
ベッドはこんな感じですが、よく見ると、震えてきます。
各ベッドに番号が記されています。
ここに、横にではなく、縦になって、寝ていたんですね。
とてつもなく狭いです。
こんなところにしかも、他人と身を寄せ合って寝る、という。
…
これは、本当に狭いです。
しかも、上にも下にも人がいるわけで、、、
「人間の尊厳」など、何も感じられないほどでした。
そして、右手。
こちらは、完全独房でした。
いったいどんな人が入れられていたんだか、、、
中は、もう「狂気の世界」でした。
一つ一つの部屋の扉です。
中です。
なんと、小さな窓さえない個室です。
完全なる闇の世界。
(ドア側に本当に小さな縦横20cmくらいの窓がありますが、夕~夜は完全なる闇でしょう)
いや、こんなところに閉じ込められたら、絶対に狂う、と思いました。
(たしか、オウムもこういうことをやって、洗脳していたんですよね)
ベッドと、唯一あるのが、トイレ。
一応、水洗ですね。
ただ、この施設は、戦後も「一般監獄」として使われていたそうなので、その時に設置されたものかもしれません。
それにしても、酷い、、、
こんな「完全なる闇の独房」に入れられたら、、、
…
このテレジーン小要塞の一番奥の手前に、展示室がありました。
現在のアーチストの作品が展示されていました。
当時の、目をふさぎたくなる画像と共に。
…
最後に、僕が惚れるアーチスト?の作品に出合いました。
久しぶりに、アートで興奮しました。
IVAN BUKOVSKYさん?!
僕、この人の作品に、惚れこみました。
見てください!!!
これ、、、
どう考えても、「ヴィジュアル系」でしょう?!
一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなるほどに、この作品の中に入り込みました。
すごいカッコいい。
ただ、それだけ。
こちらの作品も、もう、なんとも意味深で。
僕の「感性」に、ぴたっとはまりました。合いました。
文字は、謎の文字なんだとか、、、
なんか、微妙に、日本語のカタカナに見えなくもないっていうか、、、汗
詳しくはこちらを読んでください。
最も悲惨な第四の中の、最も悲惨な場所が、最後にありました。
これを見たら、分かる人には分かりますよね。
見せしめのための処刑場です。
今、まさに「見せしめの処刑」がネット上に出てきています。
あれは、見ていて本当に苦しい。最も残酷な行為の一つ。
そんな場所です。
…
…
…
気が付けば、3時間ほど経っていました。
ここに戻ってきました。
どこか、十字架とダビデの星が「対話」をしているような気になりました。
ずっと「対話」をしていてもらいたいです。
…
これで半分ですからね。
テレジーン要塞は、小要塞と大要塞がありまして。
ここまでが小要塞です。
ただ、大要塞は基本的に、普通の街になっているので、ここまで長くはならないと思います。
…
いずれにせよ、ここはとにかくすごい収容所跡地でした。
これまでの収容所とは違って、具体的な「もの」がたくさん残されています。
そこが、凄かった。
生々しかった。
でも、
いや、だからこそ、
テレジーンは、かなりアクセス的に困難な場所ですが、是非行ってもらいたい場所です。
チェコは、ドイツ語が全然通じません。
けど、僕の「でたらめイングリッシュ」で、なんとか事を済んでおります。
でも、チェコの人も、普通の人はみんな英語が苦手っぽいので大丈夫です。
(一部、ペラペラな人が目立つだけで、普通の人はみんな英語、嫌がります…)
***
最後に。
改めて思ったのは、日本には、過去の戦争の過ちを直視する施設がない、ということ、それから、海外に行き、過去の戦争でかつての日本人が具体的になにをどうしていたのかを学ぶ機会がないこと、それに尽きました。
サイパンやパラオには、当時の日本人が残した戦車や基地の「残骸」がそのままに残っています。でも、それじゃ、分からない。しっかり「整理」して、「まとめて」、「提示」することをしなければ、、、
とはいえ、例えば中国の戦争記念館などでは、かなり「歪曲された歴史的事物」が展示されていると言われています。日中の間の「合意」がない。
政治性のない、「過去をしっかり残すメモリアル(デンクマール)」を、日中、あるいは日韓、あるいはアジア諸国全域で、作れないだろうか。それが、今回、一番最後に思ったことです。(*日本にも幾つも平和記念館みたいなものがありますが、それとは別の(逆の)日本の軍人が国内外で犯した暴力や虐殺などを展示する施設は(僕が知る限り)ありません。)。
僕たちは、日本の軍人がいったい実際にどうだったのかを、ほとんど知らない。(もちろんいくつかの断片的な本や小説や映像などは見ているとは思いますが…)(A級戦犯の人物を、僕らはどれだけ記憶できているだろう?)
そのことが僕の今回の一番の驚きというか、発見でした。
ゆえに、「靖国問題」も生まれてくるんだろう、と思います。「A級戦犯」の人との分祀(あるいは除祀)の問題ともつながってきます(詳しくはこちらを)。「敗戦」ではなく「終戦」と表記することの意味にもつながってきます。
つまり、僕ら日本人は、この70年間、この問題と向き合わずに、ただ「経済的復興」だけを信じて、「ジャパンアズナンバーワン」と言われるまでに(経済的にのみ)発展してきたんです。
「この問題」、つまり、「過去の総括」の問題なしに、本来のアジア外交は成り立ちません。でも、述べたように、日本は、この70年、この問題を避けて、経済的観点からのみ、復興と発展を成し遂げてきました。(僕も、そういう観点がおのずと体全体にしみこんでいるのを感じます)
でも、きっと、「いまからここから」なんだと思います。僕らより上世代は、この問題をクリアできないでしょう。でも、今の若い人たちが、なんとかやってくれると思います(そう信じたいです)。だいたい、今の40、50、60、70歳前半の人って、この問題について語れないでしょう。ずっと長い間、「経済=お金」のことだけに尽力してきたのだから。それで「成功」を経験してきたのだから。
ようやく、ここに来て、みんなが「政治」について考え、語り、行動するようになった。あと、注意すべきは、互いに互いを尊重しあうこと、認め合う努力を続けること、暴力的解決を選ばないこと、かな。国内でだって、意見はバラバラ。諸外国だって、見解はバラバラ。そのバラバラな中で、一つ一つ、「これは同意だよね」というものを積み上げていくこと。
このテレジン要塞も、そんな一つ一つの積み重ねで成り立っていました。
ドイツの先生に聞きました。「こういうのを見ていて、「違う!」って思いませんか?」、と。そうしたら、「それはない。ここにある資料は、「事実」だから。私たち(ドイツ人)も、このメモリアルを大事に考えているよ」、としっかりと答えてくれました。
了
(長かった…)