Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

ラーメン屋さんと情報社会

スケッチです。


現在、ラーメンやラーメン屋についての情報は混在しているのみならず、もはやカオスと化している。数年前の情報が全く役立たないほどに、ラーメン情報はめまぐるしく変動していく。

こうした中で、ラーメン店主はどのように自分のラーメン、自分の味を見つけ出していくのか。また、この情報社会の中で、いかにしてラーメン店主はこの情報と向き合っているのか。

ラーメンそのものは時間をかけて日本の中でゆっくりと発展してきたし、基本的な構造は変わっていない。数多く存在する麺料理の一つだ。だが、情報という観点からすると、およそ1990年以降、完全に事情は変わった。ラーメンやラーメン店主の情報が多くの人の手によって作られ、共有化され、データベース化されるようになったのだ。

見習い(調理学校)-修行-独立というシンプルな料理界の枠を越えて、あらゆる人がラーメン店主を目指し、次々に開業していった。修行経験のない若いカリスマ店主がメディアに取り上げられるのも、まさにこうした情報社会があってこそなのである。(だいたい十代から二十代前半で天才職人なんて通常そんなに出るわけがないし、また、流行後の対応においてよい答えが見いだせるはずがない)

とはいえ、従来の見習い、修行、独立という枠に留まらないのが、またラーメンの魅力でもあり、ラーメンの独自性ともなっている。あらゆる分野からのアプローチが可能であり、すべての人に開かれているのがラーメンという文化なのである(通常料理界は閉じられている!)。ラーメンは誰にも作れる料理ではあるが、その出来は千差万別である。最も違いがはっきりとでる食べ物なのだ。ラーメンの器がキャンバスだとすれば、そのキャンバスに何を描くかは、作り手の感性や技術や時代背景や時代精神に委ねられている。自分の存在と切り離して考えることのできない料理がラーメンなのである。

そうかんがえると、あまり時代背景に影響されるべきではない。10年経てば、ラーメン情報は古くなる。つまり、情報として祭り上げられているお店も古くなる、というわけだ。そのときにきちんと対応できるかどうかは、その人の調理技術や食材の知識や視野などにかかっている。

ゆえに、優れたラーメンの作り手は、芸術家やアーチストと同様、あまり他の情報にまどわされず、己れの感覚や発想を駆使して、たえず新しい一杯を作り出そうと日々精進しているのである。

不易流行、その中での真実。ラーメンはまさにアートであり、またラーメン店主はアーチストなのである。調理師と料理人の違いといってもいいかな。
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