<<僕のおばあちゃん、97歳>>
四ヶ月ぶりに会ったおばあちゃん。今年の初めの頃、おばあちゃんは体調を崩してしまい、入院を余儀なくされた。もう97歳。この歳で体調を崩すというのは、本当に怖いこと。やせ細った身体を見ると心が痛くなる。 久々に会ったおばあちゃん。入院をしたせいか、体調が優れないせいか、とても元気がなさそうに見えた。たった四ヶ月なのに、すごく年老いた気がした。しかし、頭はしっかりしている。人への対応、尿意の伝達、快不快の意思表示、どれも問題ない。病院でも、「模範のおばあちゃん」と評されたそうだ。さすが、myおばあちゃん!
けれど、四ヶ月ぶりに会う実の孫の僕がおばあちゃんの前に現れると、「ん?この女の子、誰?」、と言ってきょとんとしていた。好奇心に溢れた目だった。ちょっと髪の毛が延びているせいか、僕を「女の子」と間違えたのか、ちょっとしたジョークなのか、ちょっとショックだった。が、すぐに「自分の孫」だということに気付いてくれてちょっと一安心。
僕が、「おばあちゃん、無事退院できてよかったね!心配してたよ」、と声をかけた。おばあちゃんは、ニコッと笑って、「あら、そう」と応じてくれた。が、その後、おばあちゃんは僕にぽつりとこう呟いた。
「でもね、わたし、生きるのやになっちゃったわよ」
ええ?!そんな・・・ 僕はもう何も言えず、黙り込んでいた(らしい)。僕の母が、それを聞いて、「どうしてですか?」と尋ねた(母なりのフォローかな?)。が、おばあちゃんは、それ以上何も言わず、うつむいていた。
「生きるのやになっちゃった」・・・ どういう意味なんだろう? これまでも時々弱音を吐くことは多々あった。が、「生きる」という根源性の否定はこれまでしてこなかったと記憶している。97歳の「生きることの嫌悪」、いったいどういうことなんだろう?と思い始めると、そればかりが頭の中をリフレインしてしまう。「この前の入院で、自分の限界や無力さを感じたのだろうか」、「老いてしまっている自分が嫌になっちゃったのだろうか」、「何もかもが嫌になっちゃったのだろうか」、・・・四ヶ月前に会ったおばあちゃんとは全く違うおばあちゃんのような気がしてならなかった。前会ったときのようなパワーが感じられない(かのように思われた)。
が、しかし、相変わらず、大好きなコーヒーはごくごくと飲んでいて、ちょっと安心。とはいえ、全体的におばあちゃんに元気がない。。(っていうか、97歳で元気を!というのも無理な要求なのだけれど) ただ、一瞬だけ、おばあちゃんの目がギラギラした瞬間があった。それは、ヒトラーの話を僕がしたときだった。おばあちゃんに話をしたのではなく、僕の叔母さん(おばあちゃんと一緒に暮らしていて、現在介護に追われる叔母)に話をしていたのだが、それをおばあちゃんも聴いていたのだった。
「この前、75歳のドイツ人のおじいちゃんと出会ったの。で、そのおじいちゃんが面白い話を聞いたの。ヒトラーがどうして多くのドイツ人の心を掴んだかってこと。当時のドイツは、フランスに負けていて、すごく生活が厳しかった。貧しかった。働く場所がなかった。でも、ヒトラーは僕らに仕事をくれた。アウトバーン(高速道路)を作る仕事をくれたんだって。ヒトラーは、社会福祉事業の立役者だったんだって」
僕はおばちゃんにこの話を何気なくしただけだったのだけど、その話をおばあちゃんはじっと聴いてくれていた。本当に真剣な瞳で。。。 僕は、恐れ多くて、おばあちゃんの顔をまじまじと見れなかったけれど、するどい視線はひしひしと感じていた。僕の母がそのおばあちゃんのするどい視線に気付き、そのことを(後で)僕に教えてくれた。
おばあちゃんは、たしかに「生きるのやになっちゃった」と言った。けれど、こうやって人の話を真剣に聴くくらいに強く生きているのだ。 最後に、「おばあちゃん、また来てもいい?」って話しかけると、おばあちゃんはニコッと笑って、「いいわよ!」と言ってくれた。嬉しかった。 おばあちゃん。僕のかけがえのないおばあちゃん。孫はもう31歳になっちゃったけど、まだ生きてくれている。それだけで、僕の支えになってくれている。居てくれるだけで、自分がおばあちゃんに守られているように感じる。
僕も、おばあちゃんが生きてくれているかぎり、また会いに行こうと思う。