いよいよ、また慌ただしく忙しい日々が戻ってきました。
この2週間くらい、静かで穏やかで平和でしたが、それもどこへやら。
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静かで穏やかで平和でしたが、この1週間で論文を一本書き上げました。
タイトルは「遊ぶために生きる子どもたち」(仮)。
前々から「遊び」についての論文を書きたかったんですよね。
遊びとは何かという問いは、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』から出発しています。その後、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』という本が出て、遊び研究が本格的に始動します。この二冊は僕のバイブルでもあります。また、僕の永遠の師匠であるハンス・ゲオルク・ガダマー先生も『真理と方法』の中で遊びについて論じています。
遊びを今、ホンキで考えてみると、何がどう言えるのか。
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もう、日本は没落していく国と考えられています(色んなデータを見ても、希望を感じるデータがホントにないんです)。先進国の地位もいつまで続くか…というところまで来ています。世界における日本の存在感はもはやほとんどなくて、また、国内も国内で「内向き」になっていて、「いったいどうしたんだ?」って思うことがホントに増えました。
政治が悪いとか、経済が悪いとか、教育が悪いとか、そういう話でもなくて…。全部がうまくいってない、という感じがすごくするんです。
全部がうまくいっていなくて、空気的にも元気がなくて、活気も無くて、みんなが下を向いている感じ?! コロナもあって、それもすごく長引いていて、それに疲れていて…。
余裕がない。ゆとりがない。自由もない。勢いもない。ないないない…。
そう、遊びがまったくない国になっちゃっているというか、、、。
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どうして遊びのない国になってしまったのか。どうして遊びをここまで排除してしまったのか。それだけじゃない。遊びのレンジがすごく狭くなっている。遊びの種類もすごく減ってきている。遊びのもつ危険さもダイナミックさもどんどんなくなっている。
公園から遊具が消えてなくなった。遊べる場がなくなった。遊ぶ子どももいなくなった。というか、子どもの姿が街の中から消えた。
他方で、夜の21時とか22時まで、狭い予備校や塾で勉強する小中高生がたくさんいるんです。「なんでこんな時間まで、小学生が勉強しているんだ?」って思うこともしばしば。
本来は、遊ぶことが学ぶことだったのに、遊ぶことと学ぶことが完全に切り離されて、学ぶこと(=いい点数を取ること、いい学校に進学すること)だけがフォーカスされるようになりました。(僕らの頃も「受験戦争」の時代で、クソみたいな受験勉強をさせられて苦しみましたが、まだPCがない時代で、また今ほど規制まみれじゃなかったので、遊ぶ余地は残されていたように思います。
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日本がこのまま没落しないために、僕ら大人はどうしたらいいのか。日本が本当の意味で世界から必要とされる国になるために、どうしたらいいのか。日本が経済的な意味だけでなく、知的な国として、或いは道徳的・倫理的な価値のある国として、或いは本当に豊かな国として、「先に進んだ国」になるために、子どもたちに何を教え、伝えていけばいいのか。
そのためにも、「遊び心いっぱい」、「余白のいっぱいある」、「いい意味でテキトーな」、「自由と好奇心と冒険心に溢れた」、そんな社会の空気を作っていかなきゃいけないんだ、って。
そんなことを考えながら、遊びについての論文を書きました。
我ながら、いい論文が書けたな~と、自己満足しています🎵
せっかくなので、思い切り遊んで書きました。ホイジンガやカイヨワは出てくるし、ベンヤミンやガダマーも出てくるし、僕自身お世話になっている(赤ちゃんポストを創った)ユルゲン・モイズィッヒ先生も出てくるし、最近の遊び研究の話も出てくるし、(美味しいものはなんでも入れちゃう)幕の内弁当みたいな内容になりました。…遊び心をもって書いた論文って、ホントいい論文になるんですよね。仕事だって、遊び心のない仕事じゃ、いい仕事にならないんですよね。
子どもたちに遊びを求めるなら、まずは、僕ら大人がいっぱい遊んで、すきなだけすきなことをやって、それを突き詰めて、その姿を子どもに見せる必要があるんです。
これまで数々の世界の先進国を歩いてきて、思ったのは、先進国の人々はみんな遊んでいる、ということでした。遊ぶことを大事にしているというか。(遊びのない)勉強や仕事はとりあえずそこそこにして、それ以外の時間に、好きなことを好きなようにやる。それは単に、消費活動で欲求を満たす(≒欲求不満を解消する)というレベルの話ではなくて…。
自転車に乗ったり、山を登ったり、スキーをしたり、シュノーケリングをしたり、仲間とホームパーティーをしたり、或いは賭け事をしたり、トランプをしたり、カードゲームをしたり、どうでもいいことをひたすら議論したり…
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僕らも、(コロナでなかなか身動きが取れないとしても)遊ぶことを楽しむことはいくらでもできます。好きな本を好きなだけ読むというのだって、遊びです。好きな音楽を聴いて、好きな楽器を弾いて、好きなスポーツを楽しんで、好きな仲間とどうでもいい話で盛り上がって…(+できるだけ大衆的で商業主義的な遊びを否定して)
それを子どもや若者に求めるのではなく、まずは、僕ら大人がそれを率先してやっていかないと。そして、それを子どもたちに遊ぶ人間の生き方の手本として示してあげないと…って。
何事も、その始まりはいつだって「遊びの中」で生まれるものなんです。遊びの中で、その自由と緊張感の中で、知性が生まれ、文化が生まれ、学問が生まれ、新たな産業が生まれ、新たなムーブメントが生まれ…
そんな新しい価値が遊びの中から生まれることで、きっと日本だってまた輝ける日が来ると僕は思います。
そのためにも、「遊びとは何か」ということについて、一度真剣に考えてみるのも悪くないかもしれません。
そんな気持ちで書きました🎵
Nicht zu streng,
Nicht zu eng!
(Inke Hummel)
fin.