「原野なら君らは叱られないだろう「教室」という箱を飛び出せ」
(野村まさこさん作)
http://blog.goo.ne.jp/rainbow506/e/9c28002cc9db8d93f69fa0d331622270
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「教室」というのは、とても嫌な空間だった。何かをすれば、「ダメ!」と言われ、下手に自分の主張を押し通せば、「みんなはそう思っていない」、と拒絶され、いつも叱られることばかりだった。ちょっとクラスの友達を小突くと、先生は「何をやってるの!」と注意し、反省するよう僕に強要する。「学校なんて、なくなっちゃえばいい」、ずっとそう思ってきた。
学校に行くのをやめて、原野に行けば、もう怒られることも、叱られることも、抑えつけられることもないだろう。すべてが自由だ。何をやってもいい。暴れても、どなっても、唸っても、草木をむしり取ろうとも、誰も何も言わない。好き勝手、やりたい放題。食べたいときに食べ、寝たいときに寝ればいい。完全にfreeだ。
でも、と思う。原野で何が食べられる? 食材はどうやって調達する? 火はどうやって熾す? ベッドはどこにある? ふとんはどうする? 雨が降ってきたらどうする? 屋根はどうやって作る? そもそも家はどうする? とてもじゃないけど、原野で一人で生きていくことなど、僕にはできやしない。原野では、確かに叱られることはない。でも、守ってくれもしない。完全な自由が与えられる代わりに、全部自分の責任で実行しなければならない。「教室」という箱を飛び出したところで、自分にいったい何ができる?
「社会」に出たらどうだろう。毎日、決まった時間に必ず行かなければならない。失敗すれば、怒られるだろう。先生の叱りどころではない。もしかしたら「クビ」になるかもしれない。叱られはしないが、「切られる」。決まりごとだって、学校以上にたくさんある。かっとなって手を上げれば、「刑事事件」になって、裁判沙汰になってしまう。叱られることはないが、それ以上に恐ろしいことばかりだ。
「教室」という空間を飛び出したところで、今の僕に何ができる? いずれ僕たちは、遅かれ早かれ、社会という荒野に出なければならない。社会という荒野は、原野でも、教室でもない。もっと荒涼としていて、ぐちゃぐちゃしていて、ドロドロしている。そんな厳しい社会できちんと生きていくためには、まだ時間がかかりそうだ。知恵もつけなければならない。
叱られることは不快だけど、誰にも叱られないというのはもっと恐ろしい。よく「叱られているうちが花(華?)」と言うが、叱られなくなることは、畢竟、孤独を意味する。
原野で誰にも叱られずに、自由に生きることは素敵だとは思う。けれど、今の僕には、それはあまりにも過酷すぎる。叱られることは嫌だけど、孤独はもっと嫌。「教室」という箱を飛び出したい気持ちはあるが、まだ自分にはそんな勇気はないし、事実、人間の社会は、人と人との間で成り立っている。人と人との間で成り立っている以上、怒られ、叱られながら、強く生きていく術を学んでいくしかないだろうな、と思う。