明日7月4日は、パチプロ田山幸憲氏の命日に当る。
13年前の2001年(平成13年)7月4日午後5時3分、東大病院で病により逝去。享年54歳。
自分のパチライフに少なからぬ影響を与えた田山さんが「死去」との報は、やはり衝撃だった。
当時、代表作「パチプロ日記」を連載した攻略誌「パチンコ必勝ガイド」のインターネットサイトに、「田山ファンクラブ」(元々は、本誌連載の日記の欄外コーナー)という特設ページがあったが、突然の訃報に際して、追悼メッセージが次々と寄せられた(入院中も、数々の激励文が届いていた)。多くの熱心なファンから愛された、田山さんの人柄が偲ばれる。
当ブログでは、これまで田山さん絡みの記事をたびたびアップしたが、毎年「7月4日」(ナナシーの日)が近づくにつれて、何か特別な感覚というか、「身の引き締まる」思いがする。
(田山さん関連の過去記事)
・「パチプロ田山幸憲氏を偲んで」(2011.8.25)
http://blog.goo.ne.jp/selfconfide777mc/e/0c36725259e9d4fe3ed752adc79b6b90
⇒コミック版「パチプロ日記」(溝の口編)に触れつつ、当時に思いを馳せる。
・「故・田山幸憲プロにまつわる裏話」(2011.10.10)
http://blog.goo.ne.jp/selfconfide777mc/e/354c9e67dd695835e6d65ef1b7f5028c
⇒当時、三軒茶屋でネグラを探していた田山さんが、U店(遊楽)の常連から難癖をつけられた話を、パチンコ博物館々長氏のエピソードと絡めて綴った記事。
・「10月3日…今日は何の日」(2012.10.3)
http://blog.goo.ne.jp/selfconfide777mc/e/e5fd22b81111e73e9db4a576a1ceb20d
⇒田山プロの「誕生日」に焦点を当て同氏を偲ぶ。
・「ジェットライン(西陣、一発台)」(2013.1.23)
http://blog.goo.ne.jp/selfconfide777mc/e/809cfb31935415faac585e660768f1c4
往年の一発台「ジェットライン」回顧。記事後半で、池袋・S店(山楽)時代に田山さんが追ったジェットラインにまつわるエピソードに触れる。
・「2001年7月4日午後5時3分」(2013.7.4)
http://blog.goo.ne.jp/selfconfide777mc/e/65b86c7027b44f2a5f8d182cf0fe30d7
⇒昨年の命日にアップした追悼記事。亡き田山さんを偲んで、数々の著作(「パチプロ日記」、「コミック版」、王様手帖連載「パチプロ泡沫記(うたかたき)」、「パチンコ攻略マガジン」創刊号(1987年)の特集「ドキュメント・ザ・パチプロ」など)を画像で振り返る。ただし、「13回忌」について全く触れずじまいで終わった事が悔やまれる。
・「知恵袋、田山、パチンコ」(2013.10.1)
http://blog.goo.ne.jp/selfconfide777mc/e/71470c9aec46a870aba0b0ad3471a0e7
⇒ヤフー知恵袋で田山さん絡みの質問を拾い上げ、質問・回答の誤りや勘違いにツッコむ。
※興味ある方は、上記過去記事にも目を通して頂ければ幸いである。
今年の7月4日を迎えるに当たり、一体どんな記事を書こうかと思案していたが、正直、あまりいい考えが浮かばなかった(別に、思案する必要はないかもしれないが…)。
それならば、いっそのこと、田山さんがかつて「ネグラ」にした地に足を運んでみようか…という気になった。「案ずるより産むがやすし」…という言葉もある。
生前、田山プロが拠点にしたパチ屋は、以下の6店舗である。
・豊島・池袋「S店」(山楽) 1966年10月~1993年4月(26年半)
・川崎・溝の口「B店」(P.S.ビッグトップ) 1993年5月~1995年5月(2年)
・世田谷・桜新町「H店」(パチーノヒノ桜新町) 1995年6月~1997年10月(2年4か月)
・横浜・青葉台「B店」(ビッグスペース青葉台) 1997年10月~1998年3月(5か月半)
・世田谷・用賀「C店」(クローバー) 1998年3月~1998年7月(5か月)
・世田谷・用賀「H店」(日の丸用賀店) 1998年8月~2001年1月(2年半)
(当方所持の資料によれば、上記の如く分類される。なお、用賀C店については、桜新町、青葉台、用賀H店の時代にも足を運んだ。)
私がパチンコを精力的に打っていたのは、「1990年~2000年」の約11年(スロは2007年頃まで付き合ったが…)。この時期は、パチンコ絡みのメディア全般に興味があったが、特に、独特の語り口で綴られた田山さんの日記には、強く惹かれるものがあった。
変に飾らず淡々としているようで、実は熱のこもった人間臭い文体。単なる「パチンコ実践記」の域を超えて、文学的な魅力にも溢れていた。立ち回りの描写は簡潔でありながら、テンポはよく正確で臨場感もタップリ。ホールに向かう道中の風景描写も詩的で秀逸。さらに、登場人物はいずれも個性的な常連ばかり、と来ている。読むごとに、グイグイ「田山ワールド」に引き込まれていった。
ただ、日記のファンではあっても、あくまでも「作品」が好きだったに過ぎず、著者の田山さん自身に対して特別の「憧れ」を持っていた訳ではない。それゆえ、田山さんに「直接会いたい」と思う気持ちも、あまり強くはなかった。
いや、内心は「会いたい」と思っていても、ホールで対面する事への「気おくれ」が少なからずあって、田山さんの「職場」まで出向く気にはなれなかった、というのが正しいかもしれない。
1991年には思い切って「池袋西口訪問」を決行し、田山さん目当てでS店に初めて足を踏み入れたが、幸か不幸か、田山さん本人には会えずじまいだった。その後、田山さんが溝の口にネグラ替えをした後にも、S店を数回「後追い」訪問した。
川崎・溝の口という場所も、当時の自宅から程近いエリアで、事ある毎に足を運んでいた。だが、田山さんがいた肝心の「B店」は、いつも店の近くを素通りするだけで、入店する機会はただの一度もなかった(「ツバメ」「日拓」「ピーアーク」などに足を運んだクチだ)。ただ、B店はよく利用した南武線・武蔵溝ノ口駅の正面(商店街入口の角)にあったので、店舗の位置や外観はしっかりと頭に焼き付いている。
桜新町の「H店」と青葉台「B店」は、ネグラ変えの前後に一、二度訪れた程度で、店内でハンドルを握る田山さんに遭遇した事はない。桜新町は、90年代の初頭に何度も出向いたエリアだが、その時は「真面目な用事」(謎)があった為、パチ屋に入る機会はなかった。また、青葉台には、沖スロ「シオサイ30」や告知モノの「オアシス」などを打ちに通ったが、いずれも田山さんが青葉台を去った後の話である。
また、用賀のC店、H店についても、田山さんが亡くなってから1年ほど後に、スロを打ちにたった1回訪問したのみである。
そんな訳で、私は、これまであまり積極的に「田山詣で」をしなかった。そこで、今回追悼記事を書くにあたり、実際のネグラだった店(跡地)まで赴き、現地の画像をカメラに収める事で、パチプロ・田山幸憲の「歴史」を自分なりに振り返ろう、と思った次第である。
では、前置きはこのくらいにして、早速、先日の「ネグラ訪問」で撮影した画像をご覧頂こう。
(撮影日:2014.6.30)
(池袋篇)
池袋駅・西口…池袋時代の田山さんは、要町方面から徒歩でS店まで出向いたが、93年1月に用賀へ越してからは、新玉川線⇒山手線と乗り継いで、この駅西口からS店を目した。
西口・ロマンス通りの象徴「ロサ会館」…池袋S店(山楽)は、この建物の真向いにあった。
ロサ会館向いの「甲子園パール」…東大時代の田山さんが、友人・千本木に連れられて、パチンコを初打ちした「パール」跡地。当時の古い建物はとうの昔に取り壊されて、同店の名物「クジャクのネオン」も既に存在しない。
パールの左隣が、お目当ての「山楽」跡地だ。現在では「ガイア」が営業。レンガ風の外壁が当時を偲ばせる。
コチラが当時の「山楽」。撮影角度はほぼ同じ。現在との違いが、お判りだろうか。
この山楽で、田山さんは多くのパチプロ仲間達と、泥臭くも密度の濃い時間を過ごした。イノさん、不敗のノッポ、あと番のキザ助、ブッコミのテツ、子連れ狼、ブッチャー、マーク屋のヒロ坊、ソバケン、玉引きメガネ、黒ちゃん、かあちゃん、マルチ小僧、ヤマアラシ(ゴト師)、ツルさん(ゴト師)、ハダシ小僧、学生プロ、左官屋、オマちゃん、赤毛、ノガミ、パチンコ少年…(「モタ助」なんてのも出て来たな…田山さんは嫌っていたが。)
1990年4月の日記では、TBSテレビの「奥様とパチンコ」という特集に出演する機会があり、山楽でパチンコを打ってからテレビ局に出向き、収録後も店に戻ってジェットラインで大当りさせて、「今日の疲れも一気に飛ぶ」と快哉を叫ぶシーンがあった。
(「山楽」裏口の狭い路地を撮影。右側が山楽の裏口があった所。かつて、路地の左側には田山さんと末井編集長が日記の打ち合わせをした喫茶店「ネスパ」や、怪しいビデオ屋(大人のオモチャ屋)「ロマン」上の換金所などがあった…。)
★池袋S店(山楽)時代に、田山さんが打った台(抜粋)
手打ち台多数、電動チューリップ台多数、三共フィーバー、コスモパワーII、スクランブル、レッドライオン、ビッグシューター、(スーパー)レーシング、ローリングマシーン、ザ・拳法、パチンコ大賞13、マジックカーペットI、うちのポチI、ジェットライン、ジャスティ、ブラボー極(キワメ)、フィーバーチャレンジII、マーブルDX(デラックス)、パラダイスI、ブラボークイーン、ニューモンロー、サーカスIII、大明神GP、ニューピンボール、ミラージュ、花らんまん、玉ちゃんイ貝楽部、カバ丸くんP-3
(溝の口篇)
田園都市線・溝の口駅。故あって池袋から用賀に転居した田山さんは、新たなネグラ探しに悪戦苦闘した後、ここ溝の口のB店(PSビッグトップ)に落ち着く事となった。当時、駅からB店までのルートは、東急改札から階段を下りて、目の前の「ショッピングセンターヤストモ」のアーケードに入り、反対側の南武線・武蔵溝ノ口駅前に出て、駅前の横断歩道を渡ってB店着というもので、開店前の「喫茶店入り」が定番パターンだった。
「朝家を出たのが8時45分過ぎ。溝の口に着いたのが9時10分過ぎ。近ごろになって、ようやく朝の喫茶店通いを復活させている。ブクロ時代20年も続けてきたことだから、やはりこれをやると気持ちが落ち着く。元の自分を取り戻せたようで、そこはかとなく嬉しい。コーヒーを飲みながら、しばしの間スポーツ新聞を読んで、喫茶店を出るのが9時28分。すると、B店にはピッタシ9時半に着く。」
但し、現在では駅周辺の再開発(B店の抜き打ち閉鎖(95年5月)もこれが原因)が進んだ為、当時の位置関係を把握するのが難しくなっている。)
(南武線・武蔵溝ノ口駅前のこじんまりとした地上ロータリーも、今やすっかり整備され、バスやタクシーが多数乗り入れる「近代風ロータリー」へと変わった。頭上には、これまた近代風なペデストリアンデッキが架かり、90年代前半の古臭い面影はない。)
(南武線・武蔵溝ノ口駅の改札前…地上改札から駅ビル上部に変わり、当時の雑然とした雰囲気はない。
(C)Google
参考までに、90年代当時(駅再開発前)の溝の口周辺における「道路状況」を図示した。田山さんがB店に通った頃(1993年~1995年)は、東急と南武線を結ぶデッキは存在せず、整備されたバスターミナルもなく(タクシー、バス乗り場はあった)、黒線で示した大きな通りもまだ存在しない(当然「ノクティ」もない)。当時は、赤線で示した「A」(バス通り)、「B」(駅沿いの通り)及び「C」(駅前の小さな商店街通り)が、南武線改札前の小さなロータリーと繋がっていた。
上記「C」の商店街通り(区画整理により、道幅や通りの長さは大きく変貌した)の右角部分、赤マルで囲った「X」の位置が、当時B店(ビッグトップ)のあった場所と推測できる。この通りを入るとB店隣が居酒屋「味の大関」、その隣がマクドナルドだった(いずれも再開発で消滅)。
また、東急の駅階段前(南武線ホーム裏)には、「ショッピングセンター・ヤストモ」という古いアーケードがあり(この入口には「ツバメ」というパチ屋もあった)、この昭和っぽいアーケードを通り抜けたところが、ちょうど南武線の切符売り場の前(ロータリー)だった。
今やすっかり変貌をとげ、昔の面影は残っていない溝の口エリアだが、当時の状況を地図で再現した限りでは、やはり赤マルで囲った「X」の地点が、B店跡地と思われる。
や事やや曖昧さは残るが、一応は上の画像でバスが停車している辺りが、B店(P.S.ビッグトップ)が建っていた場所ということにする(検証は今後も続ける…)。という事で、高架からB店跡地の撮影に成功。
★溝の口B店(P.S.ビッグトップ)時代、田山さんが打った台(抜粋)
ダービー物語、ピカイチ天国V、FパワフルIII、ニュービッグシューター、ペッタンラビット、ニューヨーカー、フライングカーペット、たぬ吉くん2、フィーバーガールズI、エスケープ2、あんたはエライEX
(桜新町篇)
溝の口B店無き後、田山さんが新たにネグラにしたのが、田園都市線(当時は「新玉川線」)桜新町駅の近くにあった「H店」(パチーノヒノ)。桜新町といえばサザエさん…という事で、まずは駅前のカツオとワカメにご挨拶。
桜新町駅南口の階段を上り、用賀方面(画像奥)に向かって歩を進める。
桜新町H店へのネグラ替え後、田山さんは用賀の家から新町街道(用賀ー桜新町を結ぶメインストリート)を徒歩で通っていた。当時の日記には、こんな場面もある。
「サテンから用賀駅に背を向けて、少し行った所の信号を向こうに渡れば、もう新町街道だ。ここからしばらくは全くの一人旅。信号のこっちとあっちでかくも雰囲気が違うものかと不思議に思うほど、この辺り一帯には人の気配が無い。」
ただ、その後は体調等の問題もあり、用賀駅から隣の桜新町駅まで電車で通った時期もある。舌ガンが見つかり入院生活を余儀なくされたのも、この時代だった。
桜新町駅から新町街道を用賀方面に進み、最初の信号を左折すると、通称「サザエさん通り」に入る。
落ち着いた雰囲気のサザエさん通りを長谷川町子美術館方面に少々進むと、左手にお目当ての桜新町H店(パチーノヒノ桜新町)の跡地があった。既に閉店して、現在は小奇麗なクリニック別の建物になっている。(※クリニックの(左)隣が跡地、との指摘がありました。有難うございます。画像を新たに追加しました。「もしかして」と思い、コチラの建物も撮影しておいてよかった…)
当時の日記の店内描写を引用すると…
「狭い入り口を入ると、右手に五、六段の小階段が有る。これを上がった所が一階。左手の階段は十段ぐらいか。これを下りると、地下。シマ数は上下六シマずつの計十二シマだ。一階は左から順番に、パチスロ、エキサイトレディー、ドリームチャンピオン、メガトンパンチ、ミラクルガールの六シマ。地階は左から順番に球界王、ハニーフラッシュ、黄門ちゃま、黄門ちゃま、そして最後のニシマにフィーバー・リノとフィーバー・ピンボールとスーパーボーイの三機種が同居している形」
かつて、この場所にあったパチ屋のガランとした店内で、田山さんがひとりポツネンとナナシーやCR球界王EXを打っていたなど、道行く人は知らないだろうな…と、撮影中にしみじみ感慨に浸る。
★桜新町H店(パチーノヒノ桜新町)時代、田山さんが打った台(抜粋)
ナナシー、ファンキードクター、横綱伝説、CR球界王EX、CRハニーフラッシュ、CR竜神、CRフィーバーリノ、CRフィーバーピンボール、CRスーパーボーイ2、CRハッピーデート、CR黄門ちゃま2、CRさいころん、CRFギンガSP、CRバトルヒーローV、CR撃墜王、CRフリフリダービー、セブンゲッター、夢幻伝説2
※ビデオ版「パチプロ日記」(1997年、主演:斉木しげる)では、平和の権利物「横綱伝説」との対戦シーンが多く出てくるが、これも、当時のネグラだった桜新町H店のラインナップに基いた台選択だろう。ただ、「球界王」の実戦シーンで、斉木さんは「現金機」の球界王に座っていたが、田山さんが桜新町時代に打ったのは「CR球界王EX」の方である。
(青葉台篇)
横浜市にある田園都市線・青葉台駅に到着。世田谷区の用賀駅から駅にして14駅もある。まぁ、途中で急行に乗り換えたので、それ程疲れる事はなかった。だが、当時体調に不安のあった田山さんにとって、用賀⇒青葉台の「電車通勤」(しかもB店は9時半開店(土日は9時開店))は、かなり大きな負担になったようだ。その為、勝率的には決して悪くなかったものの、僅か5か月半という短期間で青葉台と別れを告げ、再びネグラ替えを行ったという。
駅を出て、駅前のメイン通り(環状4号線)を厚木街道方面(画面右)へと進む。
緑涼やかな並木通りをスタスタと進んでいくと…
最初の大きな4つ角(青葉台交差点)の信号を渡った角地に、B店(ビッグスペース)の跡地がある(現在は、「KAIKAN」というパチ屋が営業中)。当時の日記では、B店の雀士ウーロン牌Vのシマで、田山さんの横に座った女の子が、時短中に「1081回」のドハマリを喰らい、挙句の果てに「時短終了図柄」で当ってしまい、泣きべそをかいたような顔で店を出て行った…というエピソードもある。
★青葉台B店(ビッグスペース)時代、田山さんが打った台(抜粋)
雀士ウーロン牌V、華観月(時短機)、UFO伝説、フィーバーメガクイーンEX、ホー助くん2
(用賀篇)
順番が前後して申し訳ないが…桜新町のH店跡地を訪問後、かつての田山さんの行動パターンにならって、隣の用賀駅まで徒歩で移動する事にした。もちろん、田山さん自身が名づけた「新町街道」を、テクテクと歩いていく「一人旅」だ。
街路樹が生い茂る初夏の新町街道を、用賀方面へと進む。春ともなると、道の両側には美しい桜が咲き誇る事で知られるが、今は6月も終りの頃、すっかり緑に「衣替え」している。
途中、道路の向う側に赴きある屋根の建物を発見したので撮影。由緒ある寺だろうか。何の看板も出ていないので、普通の民家かも知れないが…。
ひたすら歩き続けると、やがて前方に用賀駅前の近代的な街並が迫ってきた。お目当てのH店、C店はもうすぐだ。
あった。用賀駅手前の道路右手に、用賀H店「日の丸用賀店」が佇む。田山さんが亡くなった1年後の2002年頃にフラっと立ち寄り、スロの花火やらコングダムやらを打ち散らかして以来だから、実に12年ぶりの訪問となる。田山さんは、この店の「等価」の強みを利用して、ナナシーを中心に勝負していたが、舌ガンが再発したのもH店時代だった。
「日の丸」と道路を挟んだ反対側(やや用賀駅寄りの道路左手)に、C店(クローバー)がある。用賀時代の田山さんは、当初コチラのC店を拠点にしていたが、ある事(モデル・オノ氏とH店に行った時に、ナナシーの釘が甘くなっている事に気付く)をきっかけに、後にH店へ「鞍替え」をした経緯がある。
今はスロット専門店だが、田山さんが通った当時はパチンコの現金機ばかりを置く店で、フィーバーメガクイーン、ラッキートマト、Fピストル大名、大江戸日記、FクイーンII、ラッキーボウル、モンキッキ、ミサイル7-7-6D、オークス2、ウェスタン、マジカルランプ、ファインプレーなど、香ばしい現金機が設置されていた(もちろん、これらの情報源は「日記」だが)。また、その後のH店時代も、C店で時折オークス2や「カトちゃんワールド」などを打っていた。なお、私が初訪問した2002年には、まだパチとスロが併設されていた(現金機は一台も残っていなかったが…)。
「日の丸用賀店」の裏口を撮影。当時の日記を紐解くと、田山さんがこちら側の入口をよく利用していた事が確認できる。また、こんなくだりもあって面白い。
「9時57分、H店着。表側からグルリと裏側へ回って、パチンコホールに近い入口から店入りするつもりでいたのに、表の入口前を通った時、ドンピシャのタイミングでこちら側のドアが開いた。ならば今日は表から店入りする。こちらから入ると、パチンコホールまでが遠い。遠いと言っても、裏側から入った場合と比べて十秒ぐらいしか違わないだろうが、パチンコにおいてはこのわずかな差が実にじれったい」
H店とC店の姿を無事カメラに収めた後、すぐ近くの用賀駅東口から田園都市線に乗りこみ、次の巡礼地へと向かった。
★用賀C店時代、田山さんが打った台⇒上の店舗記事を参照。
★用賀H店時代、田山さんが打った台(抜粋)
ナナシー、小籠包、FパンチアウトSP、デラマイッタH-9(現金機)、アイスパラダイス、FダンスSP、CRモンスターハウス、CRジャングルパーク、CRスーパーコンビ
(奥村3回権利「ギャラクシー」もあったが、田山さんはギャラクシーを「打たない」と日記で言っていた)
…という訳で、終わってみれば、いつもより随分と長い「田山記事」になってしまった。まぁ、この「巡礼」では半日かけて全てのネグラを回り、最後は心地よい疲労感と共に帰宅した、と報告しておく。
今の時代、わざわざ現地に行かなくたって、PCやスマホをポンと弄るだけで、該当エリアの画像など、すぐ閲覧することが出来る。無駄な労力と時間と交通費をかけて、こんな長々とした記事を作る必要など、ないのかもしれない。
しかし、そんなことは自分に関係ない。自らがこういった記事を書きたいと思い、かつての「戦地」の雰囲気を体感したいが為に、自発的に訪れたのだから。人は人、自分は自分。当ブログの存在意義も、まさにそこにある。
こうした矜持(きょうじ)の背景には、実は田山プロの残した1つの「言葉」がある。それは、田山さんがいつも日記で語っていた「タテの比較、ヨコの比較」というお馴染みのキーワードだ。
この言葉を「パチンコ」の視点で見れば、シマに並んだ台の良し悪しを判断する時、A、B、C3台の釘の違いを見る(ヨコの比較)よりも、A台の釘が前日とどう変わったかを見抜く(タテの比較)方が重要、という意味になる。A台、B台、C台それぞれにデキ(クセ、個性)があり、単純に他の台の釘と比較するだけでは、台の性格を掴めないからだ。
一方、これを「人間」という視点で捉えた時、自分と他人をあれこれ比較するのではなく、自身の「個性」をしっかり持ち、自分が昨日とどう変わったか、いかに成長したかと考えるべき、という風に置き換えられないだろうか。
ここまで書くと多少強引な気もするが(汗)、そういった田山さんのパチンコに対する考えが、様々な部分で自分の人格形成の「糧」となっている事は確かだ。これからも、田山さんの泥臭くも人間らしいパチプロの生き様は、心の奥にずっと残り続けるだろう。
田山幸憲さん、ありがとうございました。合掌。