泉心堂治療院

せんしんどうちりょういん

ツボと「場」・その2:道の医学

2020年08月12日 | Weblog

以前、ブログの記事「ツボと中庸・その2」において、

同じツボであっても、下痢・便秘などの相反した症状に効くような例が数多くあるというツボの二面性について挙げ、

身体の状態を過不足のない「中庸」の状態に調えることがツボの役割であると紹介しました。

これもツボは「場」に働きかけ、調整するという作用によるものです。

下痢・便秘という場合であれば、

大腸における「無用の用」からなる「場」を調えることで、

下痢・便秘の状態から平常(中庸)に復す役割をするのがツボだということです。

ただし、下痢・便秘の原因には様々あり、

胃腸のコンディションが悪いこともあれば、

精神的な要因が深く関わっていることもあります。

ツボは胃腸や神経系統など、それぞれの要因に作用することで

大腸という「場」を平常(中庸)へと調えるのです。


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ツボと「場」:道の医学

2020年07月29日 | Weblog

「足三里」というツボは、膝の下、スネの骨の外側にあって、

胃の不調をととのえる作用があるとして有名なツボです。

つまり、足三里は文字通り「足」にあるツボですが、

胃に働きかけることができるということです。

 

なぜ、胃からは離れた場所にあるツボが、

胃に働きかけることができるのでしょうか?

なぜなら、足三里というツボは「胃」という『場』に働きかけることができるからです。

 

例えば、胃の働きは自律神経によってコントロールされていますが、

足三里が自律神経の機能に働きかけて、胃の調子を整えることができるとしたら、

足三里は自律神経を介して「胃」という『場』を調整していることになります。

 

同様に、例えば精神的ストレスが強くなると胃が痛くなることがありますが、

あるツボが精神ストレスを緩和させて胃の痛みを軽減させることができるとすれば、

そのツボはストレスへの作用を介して「胃」という『場』を調整したことになります。

 

つまり、ツボは『場』に働きかけ、『場』を調整する役割・作用があるということです。

内臓などの「器」そのものだけでなく、

「器」と「機能」すべてに関連したすべてに働きかけ『場』をととのえます。

 

全身各所に存在するツボは、それぞれに関連する『場』に働きかけ、

「中庸」という健康の維持を担うのです。

 

 


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「場」と感覚:無用の用と道の医学

2020年07月15日 | Weblog

「胃もたれ・胃の痛み・胸やけ・膨満感」

胃薬の宣伝でよく見かける症状ですね。

上の症状は胃部の「不快感」を表現しています。

病院で検査してもらっても「大きな異常はない」と言われることも多いでしょう。

病気ではない、つまり「器」の問題ではないということです。

しかし、だからと言って胃部の不快感が強いのに

胃は健康だと思うことも、飲食を楽しむこともできません。

「器」と「感覚」の不一致。

すなわちこれは「胃」という『場』の問題になります。

そしてこの不快感を含めた「胃」という『場』をととのえるのが、

「無用の用」の医学、「道の医学」の考え方になります。

 

 

 

 


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人と人間と無用の用:道の医学番外編

2020年07月08日 | Weblog

新型コロナウイルスの流行により、

私たちの生活スタイルは変革を余儀なくされています。

特に人と人が直接集うこと、対面することに制限がかけられてしまいました。

リモートワーク、オンライン授業、オンライン会議、オンライン飲み会、オンライン配信など、

インターネットを通じた仕事、勉強、会合や余暇、イベント参加などの機会が増えました。

 

ところで、日本語においては基本的に

「人」という言葉は生物学的な「ヒト」

または一個体として人格的な面を抑えた意味合いで用いられることが多く、

「人間」という言葉は社会的・人格的な意味合いを含めて用いられています。

 

「人間」は元々は仏教用語で、

世の中(世間)や人の世界(人間界)という意味合いで用いられてきた言葉です。

ちなみに中国語では「人間」と言えば後者の意味で、

前者の意味としては「人」が用いられます。

 

「三人寄れば文殊の知恵」という言葉のように、

人間は古来より「集う」ことによって発展を続けてきたという側面があります。

人と人がつながって「人間」となっていたのです。

つまり、「人間」とは多くの「人」による「無用の用」といえるのかもしれません。

 

そして今年になり、そのつながり方に大きな変革が訪れました。

インターネットという世界の中でのつながりです。

このつながりは、「人」から生み出された「間」の世界、

つまり現代の「無用の用」といえるでしょう。

 

しかしながら、「人間」から「人」と「間」が分離され、

「人」が置き去りにされてしまうことには注意しなければなりません。

「人間」から「人」が欠落すれば、今度は「間」との主客逆転、

「人」が「間」にとっての「無用の用」になってしまいます。

仮に「間」の世界の崩壊すれば「人」の存在が消えてしまいます。

 

「間」はあくまで「人」が発展したり、幸せになったりするための存在なのです。

私は決してネット社会を全否定しているわけではありません。

しかし、便利になったはずなのに、

たった数カ月も経たずに「オンライン疲れ」という言葉まで出てくる状況です。

我々はまず「人」であるという事実を無視することはできません。

新型コロナ対策も「人」、すなわち命を守るためのことなのですから・・・


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「無用の用」と「場」:道の医学

2020年07月01日 | Weblog

我々が摂取した食物は、まず胃で消化されます。

胃での消化とは、

主に食物が胃液と胃の蠕動運動によって溶かされ、ドロドロにかき混ぜられることです。

 

「無用の用」の概念において、消化が行われているは

胃という「器」ではなく、「胃の中の空間」になります。

 

つまり、胃の本体は胃液の分泌や、蠕動運動を行いますが、

実際に消化が行われるのは

胃の中の空間という「場」なのであるということです。

 

逆に言えば、食物の消化という「場」の機能を成り立たせるために、

胃の本体は胃液の分泌や蠕動運動を行ったり、

胃の粘膜のコンディションを保ったりしているのです。

 

例えば胃液の不足や蠕動運動の低下で消化が進まなかったり、

逆に胃液の分泌過剰で胃壁が傷いたりなどすると、

胃という消化の「場」の成立に支障が生じることになります。

 

つまり、胃の本体に何らかの問題が生じた結果、

消化の「場」にも影響が現れることが、

「無用の用」の観点において問題の本質となります。

 

従って、消化という機能がスムーズに行われるように、

胃という「場」をととのえることを目指します。

 

「器」の中の「空間」という「無用の用」からなる『場』をととのえる。

これが「無用の用」の医学、すなわち「道の医学」の考え方です。

 

 


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「無用の用」と「道の医学」

2020年06月21日 | Weblog
私の生まれ育った伊豆の小さな漁港の有る集落には海坊主の民話が伝えられています。

そのあらすじはだいたい以下の流れです。

①沖にに船を出して漁をしていると突然海坊主が現れる。

②海坊主は「柄杓(ひしゃく)を貸せ~」と叫ぶ。

③言われるままに柄杓を渡してしまうと、その柄杓で船に海水を注がれ、沈められてしまう。

④だから海坊主に出会ったら必ず底を抜いた柄杓を渡すようにすること。

ここで本題に入りましょう。

「無用の用」という言葉があります。

「老子」や「荘子」の中で説かれている言葉です。

その意味について、海坊主の民話に登場した「柄杓(ひしゃく)」で説明しますと、

柄杓は木の板を加工して輪にしたものに底板をはめ、柄を付けたものが一般的な形です。

水を汲むために使う道具として用いられます。

しかし、我々が水を汲むために本当に必要としているのは、

「柄杓の中の水を満たすための空間」です。

だから、柄杓が柄杓としての存在価値を有するのは、

普通は意識しない柄杓の中の空間があるからだということになります。

つまり、柄杓の中の空間とはすなわち柄杓の『機能』を意味します。

では底の抜けた柄杓はどうでしょう。

底の抜けた柄杓では海坊主は水を汲んで船に注ぐことはできません。

柄杓の底を抜くと、水を汲むという機能は失われてしまうからです。

ですから、「底の抜けた柄杓」は柄杓ではなく、「柄のついた木の輪っか」という存在になります。

少し屁理屈が過ぎてしまいましたが、

この『無用の用』は『道の医学』を理解し、実践する上で非常に重要な概念になります。

今後はこの「無用の用」の観点からも「道の医学」について解説していきたいと思います。

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ウイルスと情報:道の医学

2020年05月27日 | Weblog
古来より、人と人が会う、人々が集うことは情報伝達の重要な手段でした。

人と人が会うことで友情や愛情がはぐぐまれ、

人々が集うことで社会が成立しました。

同時に負の側面として、人と人が会う・集うことで感染症も広がり、

これまでにも幾度となく人類を危機に陥れました。


ウイルスは、感染した生物の細胞内で遺伝子とその乗り物となるたんぱく質の殻を増殖・生成し、

別個体の細胞へと移動するという感染・増殖・伝播を繰り返します。

遺伝子は情報です。

遺伝子によって前の世代から次の世代に情報は引き継がれます。

つまり、ウイルスの伝播・流行とは、情報の伝播・拡散でもあると思います。


今回の新型コロナウイルスのように、

本来、動物にしか感染できなかったウイルスが、突然人間にも感染できるようになることがあります。

これは、ウイルスの増殖の際に遺伝子の変異が起こり、偶然に人間にも感染できる能力を獲得するためです。

つまり、遺伝子という情報は、偶然とはいえ変革することによって、新たな世界へ拡散が可能となるのです。


今、そのウイルスによって人と人が会う、集うことが制限されています。

つまり、ウイルスの流行という負の情報拡散によって、我々の貴重な情報伝達手段が脅かされているのです。

我々が元のように人と会い、集うためには、ウイルスを撲滅するか、集団で免疫を獲得するか、

ワクチンが開発され万人に行き渡るなどされなければなりません。

つまり、社会からウイルスという負の情報を排除するか、ブロックできるようにする必要があるのです。


もちろん、人と人とが接することなく情報を伝達する手段は古来よりあります。

例えば古くは太鼓などの音を使った手段。のろしなどの視覚での手段。

手紙、電報、無線、電話、FAX、新聞、ラジオ、テレビ・・・

そして現代にはネットがあり、業種によってはリモートワークも可能です。

これからは人と人が接しない情報伝達の機会が更に増えていくのでしょう。


必要に迫られてとはいえ生活や仕事のスタイルを変えてみると、

これまでに当たり前と思われていたことへの様々な矛盾が浮き彫りとなってきています。

ウイルスの遺伝子が変異し、新たな生物種の細胞への感染・増殖という適応が可能となるように、

ウイルスという情報によって、我々の生活スタイルも大きな変革と適応を求められています。


「道」も古来から情報伝達に重要な役割を果たしました。

道を通って誰かに会いに行く、集会に参加する。

道によって手紙が運ばれる。

そして道が塞がると、情報が伝わらない、伝えられないことになります。

人間の身体も同じです。

身体には様々なルート、つまり道があって情報が駆け巡り、生命を維持しています。

古の人々は、この情報を「気(正気)」と総称しておりました。

しかし同様に、ウイルスのような負の情報もその道を通って広がってしまいます。

古の人々はそれを「邪気」と呼び、病気の原因と考えておりました。

邪気を追い出し、気(正気)を滞りなくめぐらせる。

つまり、必要な情報伝達を妨げないこと。

負の情報は直ちに遮断・排除すること。

これによって生命・健康の維持が保たれると古の人々は考えたのです。


我々人間は、「病(やまい)」を得ることによって、

これまでの生活、生き方、健康の価値などを見直すきっかけなることがあります。

つまり「負の情報」によって、これまでの道の矛盾や誤りに気づき、

「正しい道」に修正する機会を得ていたのです。

新型ウイルスという負の情報によって、社会の様々な矛盾が浮き彫りとなったように・・・

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夢と現実

2020年04月13日 | Weblog
三月末のある日、ある患者さんが「今の世の中は夢の中の出来事なんじゃないかと思う」と言われたので、

わたしは「逆に今が現実なのだと思います」とおこたえしました。

『ネバーエンディングストーリー』という30数年前の映画をご存じでしょうか?

テレビでも何度も放映されましたので、ご存じの方も多いかもしれません。

映画では、人々の夢や空想から生み出された「ファンタージェン」という世界が

「虚無」と呼ばれるブラックホールのようなものに徐々に飲み込まれ、崩壊していきます。

「虚無」は現実世界の人々が夢や空想を抱かなくなることで広がってしまったのです。

そんなファンタージェンを救う方法とは???

今回の新型ウイルス流行でも、スポーツやエンターテインメント、舞台芸術などの

人々に夢や感動を与えるジャンルから活動の制限・休止を余儀なくされています。

そして私たちから多くの楽しみを奪い続けています。

まるで映画の中の世界のようです。

そして現実ばかりが目に入ります。

今は大変な時ですが、皆の意識が高まれば新型ウイルス流行もいずれ終息に向かうとおもいます。

現実の世界が立ち直ればもう一つの世界も必ずよみがえり、輝きも増すと信じております。

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2020年03月04日 | Weblog
私は伊豆半島の東海岸の真ん中くらい、小さな漁港のある地区で生まれ育ちました。

「ぼくのなつやすみ2」というゲームの舞台のモデルにもなった地区です。

ゲームのほうはプレイしたことはありませんが、リアルぼくのなつやすみ(?)な少年時代を過ごしました。

わたしの子供の頃、地元では秋から冬にかけて、イルカ漁を行っていました。

沖合を通過するイルカの群れが発見されると、集落中の防災無線のスピーカーから「軍艦マーチ」が鳴り響きます。(昭和末期の話です!)

するとそれを合図に漁師さんは港に駆けつけ、船を出し、イルカを港に追い込んで捕獲するのです。

主婦や子供たちも港に集まります。

女性は鍋やバケツを手にして配給してもらうため、子どもは見物です。

イルカ漁は集落を挙げての一大イベントだったのです。

ところで、漁師さんの言葉は荒いとよく言われますが、確かにそうでした。

とにかく「バカ!」の連呼。そして「早く~しろ!」「そうじゃねえ!」「じゃまだどけ!」

とにかく今風に言えばモラハラ?言葉の暴力?

しかし、子どもの頃は大人はこれが普通なのだと思っていました。

イルカ漁の話に戻りますが、イルカ漁は数隻の船で連携して沖合からイルカを港まで追い込みます。

具体的にどのようなやり取りをしているのかはよくわかりませんが、

イルカ漁に限らず、漁の最中にどこかの国の大臣や官僚の答弁のようにモゴモゴと口ごもったような曖昧なやり取りをしていたのでは、
獲物の取り逃がしや最悪事故につなっがてしまう恐れがあります。そうなると死活問題です。

ダメならダメとはっきり意思を伝える方が優先です。

必然、言葉はシンプルかつ明確に伝わりやすい表現になります。

ただし、怒鳴られたからと言っていつまでも根に持たれるようなことはありませんでした。

今日は今日。明日は明日。このけじめがしっかりできているのかもしれませんね。

ふと昔のことを思い出したので書いてみました・・・


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病名と病証:道の医学

2020年02月26日 | Weblog
台湾の医療制度では、医師は西医師(西洋医学の医師)と中医師(中国医学の医師)に分けられ、それぞれの分野で診療を行います。

私の恩師、郭先生は中医師で、患者さんが来院されると状態に応じて漢方薬の処方や針灸で診療を行っておりました。

診療中は先生の邪魔をしてはいけないので、私は先生の処方する漢方薬の内容や、針を打ったツボを見て、

先生はどのように患者さんの状態を把握しているのかを推察し、必要ならば診療終了後に質問をしました。


ちなみに漢方薬ですが、漢方薬の成分を抽出して粉状に精製したいわゆるエキス剤を出す場合と、

生薬という薬草などの薬材を自分で煎じて服用する煎じ薬を処方する場合があります。

前者は、診療所内で先生の処方に従って、○○を何グラム、××を何グラムなどと調合し、1回分ずつ包装して患者さんに渡します。

後者の煎じ薬は、先生が紙に処方を書いて患者さんに渡し、

患者さんは自分で漢方薬材店に行ってその処方分の薬を1回分ずつ量り分けてもらい、自分で煎じて服用します。


ある日、連続して3人の患者さんが煎じ薬の処方を受けました。

最初に、喘息の患者さん。

次に、関節リウマチの患者さん。

そして、ガンの患者さん。

私はその3人の処方を見てある疑問が生じ、診療終了後に郭先生に質問しました。

「先生、今日煎じ薬の処方を受けた3人の患者さん、先生がいつも風邪の患者さんに処方する内容とあまり変わらないように思えたのですが、何が違うのでしょうか?」

すると、郭先生は

「同じだよ。治し方はみんな風邪と同じ。

 病名だけで判断するからややこしくなるのだよ。ちゃんと病人を見なさい。」


中国医学は「証」というものを基に治療方針を組み立てます。

「証」というのは病名とは違い、一人一人の患者の体質・体調や病気の性質・進行度などから導き出さるもので、

病名は違っても「証」が同じであれば、処方する漢方薬も同じような性質のものになりうるのです。


また、「証」を立てることで、複数の病気を併発していても、同時に治療することが可能となります。

逆に、たとえばAさんとBさんが同じ病名の病気を患っていたとしても、

二人の「証」が異なれば、中国医学的には別々の治療方針を立てるため、別々の性質の漢方薬を処方されることもあるのです。


よって、より効果的な治療を行いたければ、的確な「証」を立てることが必要で、

的確な「証」を立てるためには、患者さんの体質・体調と病気の性質・進行度などをしっかりと把握することが必要です。

つまり、患者さんをよく観察しなさいということです。

それは風邪であっても他のどんな病気であっても同じです。


「証」を立てて治療するるということは、何本にも分かれた道の中から、どれが目的地にスムーズに到着できる正しい道なのかを選択するようなものです。

病名だけで判断して「証」を軽視すれば、道を誤ることにもなりかねません。


最後に蛇足ですが、上記した3人の患者さんの漢方薬がどれも風邪の場合と同じようなものにみえたのか考察しますと、

どれも免疫が関係しているからだと思います。



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2019年→2020年

2020年01月03日 | Weblog
私事ですが、2019年はこれまでで一番亡き恩師を意識する年となりました。

私が恩師に入門して20年が経ちました。

恩師は私の20歳年上ですので、今年の私は20年前の恩師と同じ年齢になります。

もちろん恩師のレベルに達することができたなどとは露ほども思っていませんが、

恩師は私に何を伝えたかったのか、どのような道を進んでほしかったのか、

今だから理解できることもあるかもしれません。

それと同時に今後私が何を残すのか、残せるのかを考えていく必要があると思います。

これは単に弟子をとるとか直接人を指導するとかいう意味ではありません。

世の中の価値観、世の中そのものが大きく変わろうとする最中にあって、

健康とは何なのか?自分の役割は何なのか?

常に考え続けなければなりません。

同時に世の中の変化に対応するためには、

コマの軸のように自分自身の根幹にあるもの、

根幹とすべきものをより強固にする必要があります。

その意味で今年は恩師が伝えようとしたかったもの、

そして進んでほしかった道をよりリアル感じられるようになりそうな予感がします。

いや、感じるように努力しなければならないでしょう。

どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます!!








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カゼの診かた:道の医学

2019年11月20日 | Weblog
わたしが恩師の郭嘯天先生に入門して最初に教わったのは「カゼ」の診かたでした。

カゼは様々な表情を持つ病気です。

たとえば引きはじめなら、寒気や頭痛、くしゃみ鼻水、ノドの痛みなどの症状があります。

熱を出せば、節々が痛くなる、食欲がなくなり嘔吐するなどの症状が目立つようになり、

また時間の経過に従って咳が出たり、お腹を下したり、

更にカゼをこじらせてしまえば激しい咳や呼吸困難、気管支炎・肺炎を起こしたり、

二次感染で副鼻腔炎や中耳炎さらには腎炎などをおこすこともあります。

このように、カゼはウイルスの侵入に対する身体の反応と治療養生の成否によって様々な病態に変化します。

そして「カゼは万病の元」ということわざの通り、身体の様々な病気を引き起こす原因となるのです。

この病気の位置や変化という表情を機敏に察知して対応しなければならないのがカゼを診る場合に求められることです。

そして郭先生はどのような病気に対しても「カゼ」同様にその表情を的確に読み取らなければならないということを

「カゼ」という病気を入口として教えたかったのだと思います。

つまり、「カゼ」の診かたというのは病気の診かたというすべて道の入り口になります。

発病から現在に至るまでの道の分かれ目は何であったのかを見極め、正しい道に導かなくてはなりません。

道の分かれ方にはカゼの場合ならその時に流行しているカゼの傾向や気候・天気の傾向、

風邪を引くと咳が長引きやすいとか、お腹を下しやすいなどの体質からの影響、

治療や養生の成否による好転または悪化など、、、

道の分かれ目となぜその方向に進むのかというのには様々な理由があります。

その一つ一つをできるだけ把握することが正しい道の方向を定める手がかりとなり、

そしてそれはカゼに限らずどのような病気・不調でも同様だといえるのです。





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因縁:道の医学

2019年10月30日 | Weblog
『看病就是看縁』

恩師の郭先生は、常々『看病就是看縁』という言葉を口にされていました。

「看病」とは中国語では「病気を診る」という意味なので、

和訳しますと「病気を診ることとは縁を診ることである。」という感じの言葉になります。

その『縁』には患者さんとの「相性」という意味もかもしれませんが、

もう一つ、私はその人の持つ「因縁」を診るという意味のほうが大きいと思っています。


因縁とは、私の手元にある国語辞典によれば

①仏教用語:物事は全てその起源(=因)と果を結ばせる作用(=縁)によって定められているということ。転じて物事の持っている定まった運命

②理由、由来

③ゆかり、関係                

現在では、遺伝子を解析してその持主が将来どういう病気になりうるのかを推測することができるようになりました。

様々な病気に、遺伝性があるということはずっと以前から指摘されてきたことですが、

もし生まれた時点で、遺伝的に将来発症する病気を定められているとするならば、

これはまさに「因縁」としか言いようがありません。

遺伝子はいわば人体の設計図のようなもので、我々の細胞核の中に「染色体」として存在しています。

細胞はこの遺伝子の情報に従って様々な組織器官を形成し、最終的にひとつの人体を構成しています。


中国医学では、遺伝情報のような先天的要素を「先天の気」と呼んでいます。

つまり我々の身体は細胞一個一個のレベルで、両親から引き継がれた「先天の気」の影響を受けているのです。

そして将来発症する病気が遺伝子上で決定されているとしたら、

我々の細胞一個一個にまで「因縁」があるということになるでしょう。


また、中国医学では「先天の気」に対して「後天の気」という概念があります。

「後天の気」とは、気候、生活環境、飲食物、感情、人間関係等の様々な要因によって得られるものです。

それがプラス的であれマイナス的であれ、生まれてから現在までの〈環境、経験、習慣、行動、情緒等〉のすべてが、

「後天の気」として我々の精神、肉体に影響を与えているのです。

従って、我々は「先天の気」のプログラムだけで「現在の自分」となっているわけではないのです。

例えば、建物を建てるとき、設計図が優れていても、建材が粗悪だったり、工事がいい加減だったりしたら優れた建物とはなりません。

つまり、優れた設計図としての「先天の気」を両親から受け継いだとしても、

建材や工事という「後天の気」が十分でなければ、いずれは多くの問題を抱えてしまうと思われます。

逆に設計図としての「先天の気」に問題があったとしても、建材や工事技術という「後天の気」で補強することによって、

ある程度は問題の発生を防ぐか最小限に抑えることができるでしょう。


つまり、「因縁」とは先天的要素のみを言うのではありません。

後天的要素も「因縁」となるのであり、そちらの「因縁」の方が現在や将来に与える影響が大きいと思われます。

即ち、『看病就是看縁=病気を診ることは縁をみること』というのは、 

ある人が現在の状態に至るまでの環境、経験、習慣、行動、情緒等の

〈なにが・どのように〉「因縁」となっているのか・・・。

それ探ることが『病気を診ること』ということを私の師は言いたかったのだと思います。

但し、その「因縁」は一つだけとは限りません。

というよりも必ず複数存在するといったほうが適切でしょう。

それをからみあった糸を解きほぐしていくように、現在との関わりを明らかにしていくのが中国医学の『診方』なのです。


そして、この「縁を診る」とは、言い換えれば「道を探る」ことだと思います。

過去から現在に至る道とその起源。

現在から未来へとつながる道とその方向、行き先。

道の医学の実践にあたって非常に重視されることです。




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子猫

2019年07月31日 | Weblog
もう20年くらい前のことです。

友人の女性鍼灸師が田んぼの真ん中を流れる川沿いのあぜ道で犬の散歩をしていた時のこと。

犬が道脇の藪の中でなにやらゴソゴソしていたかと思うと、箱のようなものを加えて戻ってきた。

よく見ると、ティッシュの空き箱で、口がガムテープでふさいである。

中に何か入っているようだったので、テープをはがしてみると、

中にはまだ目の開かない子猫が二匹。生きてる。

こりゃ大変だということで散歩を切り上げ家に連れ帰り、

ホームセンターで猫用の哺乳瓶とミルクを買って与えてみたところ、

一匹は比較的順調にミルクを飲んでくれたが、

もう一匹の方がなかなか飲んでくれない。

近所の動物病院で点滴をしてもらい、何とか急はしのげたものの、

やはりミルクを飲んでもらえなければ危険な状態だ。

そんな段階で私に電話があったので、

「人間の赤ちゃんが母乳を吐いてしまう時には身柱(ツボの名前)お灸を使うけど、猫にも効くかもしれないから試してみては?」

とアドバイスをしました。

身柱というツボは、背骨の上で、肩甲骨の間の高さの辺りにあるツボです。

私は姉の子供で効果を経験済みだったので、このツボをおすすめしたのでした。

また、お灸は棒灸という艾を紙で筒状に巻いたもの(タバコを太く長くしたような感じ)を身柱ツボ中心にかざして温める方法をすすめました。

友人は早速棒灸で子猫の背中を炙るようにしばらく温め、哺乳瓶を口に当ててみると、

ほんの一滴、子猫が飲んだような気がしたので、

さらに棒灸で背中を温め続けてから再度哺乳瓶を口に当てると、

子猫は明らかにミルクを飲んでいる。

これをきっかけに子猫は生命の危機を脱し、その後無事に成長したのでした。






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ある春の日に・・・

2019年04月24日 | Weblog
もう15年以上も前の話になります。

ある日、五十肩で毎週来院されていた50代の女性患者さんがとても浮かない顔をしながら来院されました。

あまりにも浮かない表情だったので、思わず「どうかされたのですか?」と声をかけてみると、

「実は一昨日から孫(10カ月くらいの男の子)の喉の奥にできものができて痛がり、飲食物をほとんど飲み込むことができない。今も病院に連れて行ったけど、脱水状態が心配だから明日改善がなければ点滴をするしかないと言われた。」とのこと。

私もとても気の毒に思い、その日は時間も空いていたので

「私でお役に立てるどうか分かりませんが、後でお孫さんの様子をみさせていただけませんか?」

と急遽往診をすることになりました。

患者さんのご自宅につくと、まずはお孫さんの様子診させてもらい、

あるツボの状態を確認してから私は用意しておいた新品のティースプーンを取り出すと、

それを氷水で少しだけ冷やし、そのスプーンでそのツボをなでるようにして施術を行いました。

そのツボとは「大椎」と呼ばれるツボで、場所は頚椎と胸椎の境目部分、すなわち頭を前に倒すと首と背中の境目あたりの背骨が一番出っ張るあたりにあるツボです。

男の子はヒヤッとしたものをいきなり首筋に当てられてびっくりしたのか、声を上げて泣き出してしまいましたが、

私はスプーンを時々冷やしななら、首の後ろの頚椎部分を上から下に「大椎」の辺りまで皮膚の粗熱をとるような要領でなでる施術を続けました。

そのうち、男の子の鳴き声が甘えたような感じに変わったので、施術を止めて湯ざましを与えてもらうと、一口、二口と飲み込むことができるようになり、お母さんに別室で母乳を与えてもらうと順調に飲みはじめ、そのまま寝入ってしまったので、翌日まだ症状が残っているようであればまた施術すると伝え患家を辞去しました。

翌日連絡があり、男の子は普通に飲食できるようになり、すっかり元気になったとのこと。

再度の施術の必要はなしということになりました。

春になると時々思い出す出来事でした。







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