泉心堂治療院

せんしんどうちりょういん

生物の進化と「無用の用」:道の医学

2025年03月01日 | Weblog

私たちヒトは多細胞生物です。

ヒトの細胞は様々な形に分化して生命活動に必要な様々な組織を構成し、

生命個体としての「身体」を作り上げています。

 

原初、生物は単細胞生物でした。

それから生物は進化し、多細胞生物が発生しました。

 

当初、多細胞生物はただの細胞の寄せ集まりで、

特別な役割分担はありませんでした。

そして、いつからか細胞は役割分担をするようになり、

その役割に合わせた形に細胞を分化させて様々な組織を生み出し、

全体を一つの生命とするようになりました。

 

寄せ集めの多細胞生物時代は、

それぞれの細胞が代謝に必要な栄養や酸素を外部より直接吸収し、

老廃物も直接排出していました。

その後、多細胞生物は袋状に形状を変化させ、

袋の中の空間から栄養などを吸収をするようになりました。

胃や腸などの消化管(消化腔)の原型です。

さらに進化して入口(口)と出口(肛門)が別々になり、

出入り口が一緒の袋だったのが出入り口が別々の一本の管になりました。

 

それから消化管の一部が分化して神経ネットワークの原型ができました。

消化管をコントロールして、効率の良い吸収や排泄をするためです。

そして神経ネットワークの一部が分化してセンサーの役割をする部分が出てきました。

栄養源を効率よく消化管内に取り込むためです。

目や鼻や舌などの祖先で、最終的には情報処理中枢として脳に進化します。

さらに吸収した栄養などを循環させる循環系、

物質を代謝させる器官(肝臓などの祖先)など、

様々な組織・器官が分化・形成され、多細胞生物は進化を続けました。

 

前置きの説明が長くなってしまいました。

ここからが本題です。

多くの細胞によって構成された、

様々な臓器・器官・組織で構成されている人体ですが、

始まりは細胞の塊から「袋」への形状変化でした。

そして「袋」になることによって、

「袋」の「外側・内側」という空間の区別が生まれます。

「袋」という「器」から「空間」という『無用の用』が生み出されたのです。

つまり消化管(消化腔)という内臓の始まりは、

人体での「無用の用」の始まりであるのです。

そしてそれが「道の医学」の原点なのです。


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2025年

2025年01月03日 | Weblog

2025年の巳年を迎えました。

昨年2024年は正月からショッキングな出来事でご挨拶を投稿しそびれてしまいました。

 

本年、私は50歳を迎えます。

50歳と言われて思い出すのが、

二十数年前のお正月、私の祖父が叔父に

「50歳になったらあきらめることを覚えなさい」

と話していたことがなぜか今でも印象に残っています。

そして私ももう今年で50歳を迎えることになりました。

 

確かに、老化は30代、40代で着々と進み、

50代に確実なものとなるような気がします。

そして若いころと違って

物事をあれこれ同時にできなくなったり、一気にできなくなったりと実感することも多くなるでしょう。

つまり時間の有限さが骨身に染みる年頃になりました。

 

50歳は孔子の言葉

「五十にして天命を知る」

より「知命の年」として知られています。

ではその天命とは⁇

それは「天から与えられた寿命」であったり、

同じく「天から与えられた運命や使命」であったり。

 

つまりは人生において時間の有限性を知り、

その有限な時間をどのように使うのか、

物事の取捨選択や優先順位をつけることが求められる段階に入ったのかもしれません。

 

そして、30年くらい前に祖父の言った

「あきらめること」

とはその取捨選択や優先順位のことなのかもしれない

と今になって思います。

 

そしてその過程を経て残ったものこそ

「天から与えられた運命や使命」になるのかもしれません。

 

本年もどうぞよろしくお願いします!

 


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2023年を迎えて

2023年01月05日 | Weblog

2023年の卯年を迎えました。

今年、私は4回目の年男です。

30年前の春、私は高校を卒業し、針灸の道を歩み始めました。

振り返ってみれば、生活のためもあるとはいえ

自分の性格で一つの物事をこんなに長く続けてこられたのは

奇跡としか言いようがありません。

 

私は48年前の卯年に誕生し、36年前の卯年に中学校に入学しました。

24年前の卯年は台湾での留学生活をスタートさせました。

12年前の卯年には東日本大震災が発生しました。

これまでを振り返ってみると、卯年には転機となる出来事が多かったような気がします。

とにかく今年こそは平穏無事に過ごしたいものです。

・・・とはいってもコロナ禍はまもなく4年目に突入し、ウクライナの戦争も年を越し、

昨年から不穏な雰囲気が世界全体を覆い続け、日本にも様々な影響を与えています。

そのような状況で今後自分はどのようにすべきなのか⁇

小さな小さな治療院を経営する立場とはいえ、巡る思いは尽きません。

 

そういえば、以前にお笑い芸人・ダンディ坂野さんのインタビュー記事を読みました。

そこで印象に残ったのは「変わらないための努力」を意識されていることです。

ご本人曰く「僕にとっての向上心とは一定を保つこと」

でも、そのために大金を投ずるとか大掛かりなことをするのではなく、

自分でできる範囲の事を継続して実践されているようです。

つまりは「見えない努力・さりげない努力」です。

彼はこうも言っています「これくらいでいいやっていう気持ちでやっていると、質が下がっていく」

恐らく、多くの人はたまにテレビなどのメディアで彼を見かけても

「相変わらずだな~」と思う程度なのだと思います。

しかし、何年経っても「相変わらずだな~」と思ってもらえるには、

妥協していてはダメなのですね。

 

「変わらないための努力」

これが次の年男(還暦)を迎えるまでの私のキーワードになるような気がします。

もちろん、変わらないこととマンネリ化は違います。

「あの先生に頼めば何とかしてくれる」

その信頼感・安心感に変わらず応え続けるためには、

成長という変化を続ける努力が求められます。

 

例えば、10年前に腰痛の施術を受けて良くなった人が、

再び腰痛になって来院されたとします。

ご本人にとって、私は10年前に腰痛を良くしてくれた先生です。

しかし、同じ腰痛であっても、10年前と現在では状態が違うかもしれません。

10年経てば体はそれだけ老化するし、

女性ならば妊娠出産や更年期などを経れば身体の状況が変化するなど、

様々な条件が重なって10年前よりも難しくなっているかもしれません。

それでも10年前と同じく信頼に応え、安心してもらうことができなければ

期待を裏切ってしまうことになります。

そして、10年前と全く同じことをやっていたのでは、

「今」の期待に応えることができない可能性があります。

そうならないよう、常に次の10年後に備えてコツコツと努力を積み重ね

成長という変化を続ける必要があるのです。

 

信頼感・安心感という根本的なものを変えないための変化。

そのためにやるべきことを模索し続けたいと思っております。

 

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます!!


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2022年を迎えて

2022年01月03日 | Weblog

昨年、大学で同じ部活だった同い年の同級生が膵臓癌で亡くなりました。

数年に一度OB会で顔を合わせる程度の仲ではありましたが、

それでも卒業以来、同じ時間軸で生きていること、

そしてこれからも生きていくことが当たり前だと思っていました。

その甘い認識が脆くも突き崩された瞬間でした。

 

そうでなくても昨年は新型コロナウイルスの感染拡大による医療逼迫によって

自身や身近な人が感染した場合に適切な医療が受けられるだろうかという不安がよぎりました。

 

そして世界ではコロナショックを皮切りに

原価高騰、物流の停滞など諸々の事情による値段の上昇や品薄の傾向が話題となりました。

 

当たり前のように守れたはずの命が守れなくなるかもしれない。

当たり前のように手に入った物が手に入らなくなる。

今まで当たり前だったことが当たり前でなくなってくる。

その始まりが2021年だったような気がします。

 

2022年は当たり前でなくなったことが逆に当たり前になるのかもしれません。

そして例えば病気になってから健康のありがたさが分かるように、

当たり前が当たり前でなくなって

当たり前であったことの貴重さ、有難さが身に染みて分かるのでしょう。

 

当たり前の価値や意味を見つめ直し、

自分や治療院という存在がどうあるべきなのか考えてみたいと思います。

本年もよろしくお願い申し上げます。


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漢方薬と無用の用:道の医学

2021年11月24日 | Weblog

漢方薬は動植物・鉱物由来の生薬の組み合わせによって処方されます。

例えば、初期のカゼに良く用いられる「葛根湯」は

「葛根、大棗、麻黄、甘草、桂皮、芍薬、生姜」

という7種類の生薬で構成されています。

それぞれの生薬には役割(薬効)があり、

それらが組み合わさることで

それぞれの作用を高め合ったり副作用や効きすぎを抑えたりして

効果が高く害の少なくなるようにバランスをとっています。

 

この漢方薬についても「無用の用」で説明することができます。

漢方薬の処方を構成する生薬は「器」のパーツようなものです。

一つ一つの生薬がパーツとなって「器」を構成し、

その器の中から生み出されたもの、つまり「無用の用」こそが、

例えば葛根湯ならば初期のカゼを治す「効き目」となります。

 

また、実際に漢方薬を処方する時には

患者の体質や病状に合わせて生薬の量や種類を調整する場合があります。

いわゆる「さじ加減」によって薬を一人一人の患者にあった「器」に仕上げます。

 

このように、漢方薬においても「無用の用」が根づいているのです。

 

 


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動中の静と無用の用

2021年08月18日 | Weblog

「独楽」を静止状態で立たせようとするのは至難の業です。

しかし、高速で回転させてやると、独楽は起立状態を保つことできます。

つまり動きによって安定が生じるのです。

そして独楽の形は回転時の安定を保つための重要な要素です。

いびつな形の独楽では不安定な回転でバランスを保つことができず、すぐに倒れてしまいます。

 

独楽が起立する際の軸は、回転という動きの中での安定よって生み出されたものです。

それはすなわち「動中の静」であるといえます。

そして「動中の静」は回転する独楽における「無用の用」であるといえます。

回転している時のみに出現する「無用の用」です。

 

人間の身体は、エネルギーが常に循環することによって、バランス・恒常性が保たれています。

つまり、エネルギー循環という「動」により、

バランス・恒常性という「静=無用の用」が生み出され、保たれます。

そしてエネルギー循環などの「動」に乱れが生じたとき、

「静」すなわちバランス・恒常性にはひずみや乱れが発生すると考えます。

 

「動」であるエネルギー循環の乱れを察知し、調えることで、

「無用の用」である「静」のバランス・恒常性の乱れを復元させることが、

道の医学の原則でもあるのです。

 

このように、道の医学において

「無用の用」を生み出す「器」は「形=物体」だけではなく、

エネルギー循環などの「動」としても存在するのです。


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大局と小局:循環と道の医学(3)

2021年04月28日 | Weblog

全体のありさまを「大局」とすると、

限られた範囲のありさまは「小局」といえると思います。

身体の場合では「全身=全体」に対して「局所=部分」という言葉が一般に使われます。

また、「大局」とは全体であったり、長いスパンの時間でのことであるのに対し、

「小局」は部分的、短期間でのことであるといえます。

 

一般に、物事の「小局」にとらわれると「大局」を見失うと言われますが、

中国医学では、身体の健康や病気に対して大局的観点をもってとらえることが重視されています。

病気を身体全体や、長いスパンから見つめて解決に導き、

身体全体の健康が安定して維持し続けられるようにします。

中国医学は「病気ではなく病人を診る」と言われるゆえんです。

 

一方で「大局」を把握するためには、その時その時における「小局」をしっかり把握することが大切です。

また、「大局」を動かすためには、まず「小局」から取り掛かる必要があります。

身体についても、「全身」を把握するために「局所」に注意を払う必要や、

「全身」を改善させるために「局所」からの改善が必要な場合があります。

「大局と小局」、「全身と局所」が自在に把握できるのが理想でしょう。

 

循環も同様です。

小循環である局所ばかりで循環させていると

大循環である全体に行き渡らなくなる可能性があります。

同時に、局所(小循環)の隅々まで行き渡っている状態が、

全体(大循環)に行き渡っているという状態であるといえます。

そのためには、全体から局所、局所から全体へのバトンタッチがスムーズに行われる必要があります。

また、短いスパンでの好転の積み重ねが、長いスパンでの好転・安定につながります。

それらを把握し、導くことが「道の医学」の役割となります。


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案ずるよりも循環:循環と道の医学(2)

2021年04月14日 | Weblog

*ブログ記事【循環と道の医学】に続きます・・・

 

「案ずるより産むがやすし」という言葉があります。

直接には「お産の前はあれこれ不安になるものだが、産んでしまえば何とかなってしまうものである」という意味ですが、

転じて「物事はあれこれ心配するよりも思い切って実行してみれば意外とたやすいものである 」という意味で用いられています。

 

昔も今もお産は大なり小なりのリスクを伴うものであることに違いはありません。

しかしながら、私たちの祖先はお産にのぞむことで代々の命をつないできたのも事実です。

古くはお産婆さんや今なら医師・助産師などの介添えがあるとはいえ、

出産(経腟分娩)は女性が本来持ち合わせている分娩能力が発揮されることで成し遂げられます。

「産むがやすし」とは、その出産能力はあれこれ考えなくても自然に備わり、発揮されることを示しているのでしょう。

 

「案ずる」の不安になる、心配になるというのは心の問題です。

思考活動は脳によって行なわれているのは周知の事実ですが、

「案ずる」とはつまり頭の中で不安や心配がぐるぐる回っているような状態であるといえます。

ですが、どれだけ不安や心配でいようとも、

胎児が無事成長し、時期が来れば出産にのぞまなければならず、

その時には本来持ち合わせている出産能力が発揮されることになります。

 

「道の医学」において、

心配や不安が頭の中でぐるぐると回っていることは、

心配や不安という一種のエネルギーが頭の中で循環し続けているといえます。

それに対して、女性が本来持っている出産の能力というのは、

妊娠出産というサイクルに応じて自然に発揮されるものです。

それは我々の意識の及ばない思考を超越した能力といえます。

 

頭は身体の一部分であり、頭の中での循環は身体全体の循環に対して「小循環」であるといえます。

そして、頭の中の思考回路と、意識や思考を超えてサイクルに応じて発揮される身体の能力は、

それぞれ「小循環」と「大循環」の概念に置き換えることができます。

 

そこで、改めて「案ずるよりも産むがやすし」ですが、

頭の中という「小循環」で「案ずる=心配や不安」というエネルギーをめぐらせるよりも、

そのエネルギーを身体という「大循環」を信じて委ねるべきである。

そのような解釈ができると思います。

 

不安や心配がいつまでも頭の中でぐるぐる回っていてはあまり良くないだろうというのは分かりやすいと思います。

そのため「小循環」から「大循環」へと導くのが「道の医学」の役割であります。

心配せずとも「道」はつながっているのです。

 


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法と道の医学

2021年02月24日 | Weblog

憲法はその国の基本理念を定めたものです。

そして法律は憲法の原則に則って定められています。

 

この「憲法」と「法律」の関係は

中国伝統医学における「道」と「術」の関係に似ていると思います。

国は「憲法」の理念に則って「法律」が定められ統治されるように、

中国医学は「道」の理念に則って「術」が行われます。

 

「黄帝内経」という、現代に内容が伝わるものでは最古の中国医学の書籍があります。

原本は逸失しておりますが、およそ2千数百年前に成立した書籍であると考えられています。

この「黄帝内経」は中国医学の学術体系において、いわば「憲法」のような役割を果たしています。

 

なぜなら「黄帝内経」は現代に至るまで約2千年の間、

中国医学の様々な「流派」や「学派」において、

理論的な裏付けの根拠や、内容の引用が行われているからです。

中国医学の系統を継ぐ日本の伝統医学でも同様です。

 

その意味では、中国医学にとって「黄帝内経」は「憲法」であり、

「道」を説く書物であると言えるのかもしれません。

その「道」に基づいて「法律」ともいうべき流派・学派の「術と理論」が

2千年以上前から現代まで発展し、活かされ続けています。

それだけ真理である「道」は不変であるということなのだと思います。


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循環と道の医学(1)

2021年02月10日 | Weblog

江戸の町は消費生活とリサイクルのシステムが両立した

循環型社会が確立していたと言われております。

たとえば人間の排泄物である屎尿(しにょう)は

くみ取って江戸近郊の農村に運ばれて肥料として使われ、

そこで育てられた農産物は再び江戸の人々の胃袋に収まりました。

そして人々の排泄物は再び肥料として使用され、作物を育てました。

 

排泄物が肥料となり作物を育て、収穫された作物が食卓に上るのを「大きな循環」とすれば、

人間の身体の中で食物が消化され排泄されるのは「小さな循環」といえます。

この「大きな循環」と「小さな循環」の組み合わせが

江戸における循環型社会システムの一翼を担っていたのです。

 

このように、自然界の循環(大循環)の一部に

人体における循環(小循環)が組み込まれているというのは

「道の医学」の考え方でもあります。

 

そして、自然界の「大循環」と身体における「小循環」の同調性のバランスが崩れた時、

不調や病気が起こるきっかけになると考えます。

 

話の流れで便秘の場合を例に挙げますが、

便秘とは体内の「小循環」から自然界の「大循環」への引き継ぎが何らかの原因で妨げられ、

スムーズに行われていない状態・・・ということになります。

 

そもそも、私たちの食べ物や排泄物のみならず、

人が生まれて土に還るまでの一生そのものが、

自然という「大循環」の中の「小循環」といえます。

 

また、物質的な場合のみならず

季節の循環(四季)、昼夜の循環(1日)、月の満ち欠け(1カ月)など、

自然界の法則、変化などの大循環に対しての、

人体という小循環の呼応についても同様です。

 

様々に存在する自然界の「大循環」と人体内の「小循環」。

この循環こそが『道』をあらわすものであり、

その『道』の把握に努め、役立てるのが

「道の医学」の基本です。


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カビ餅とお灸

2021年01月20日 | Weblog

私が大学1年生の時の話です。

当時、祖父母の家には餅つき機があったので、

祖母は時々切り餅を作り、私の下宿に送ってくれることがありました。

たしか6月ごろの話だと思いましたが、

ある休日、朝食にしようと冷蔵庫を開けると、

中はほとんど空。

残っていたのは祖母の切り餅だけでした。

その切り餅を見ると、

赤やら青やら黄色やら信号機のようにカラフルなカビだらけ。

しかし他にめぼしい食べものもなく、

近所にコンビニや商店もないような田舎だったため、

仕方なく流水でカビをこすって洗い、

鍋で煮てカビ臭いのを我慢して何とか胃袋に押し込みました。

それからトレーニングジムに行くため家を出て駅に向かい、

列車に乗って20分くらい経ってからでしょうか、、、

なにやらみぞおちの辺りがムカムカしはじめ、

目的の駅につくころには

こみ上げる吐き気でトレーニングどころではなくなり、

引き返して下宿に帰ることにしました。

吐き気と闘いながら何とか下宿に帰り、

吐けば楽になるかと思ってトイレに行ってみたものの、

胃の中身はすでに消化してしまったのか、

大量のだ液が流れ出すばかりで吐き出すこともできません。

布団に横になってひたすら苦しみに耐えるしかない状態。

ついに寒気まで始まってしまいました。

 

それから何時間経ったでしょうか・・・

偶然にも夕方にA先輩が私の部屋に立ち寄ってくれました。

(前回の記事でご紹介したA先輩です)

私が事情を話すと、A先輩は私にお灸の道具を出すよう指示をしました。

私がお灸の道具を出すと、今度は靴下を脱いで足の裏を出すようにとのこと。

吐き気をこらえつつ言われたとおりにすると、

足の人差し指の腹の一番とがった部分に墨をチョンと塗ってから、

その指を折り曲げて墨が足の裏の皮膚に当たった部分にお灸をすえ始めました。

 

お灸はモグサをひねって米粒くらいの三角錐にの形にして、

ツボにおいて線香で火をつける、直接灸の方法です。

最初は全然熱さを感じませんでした。

同じツボにどんどん重ねてお灸を繰り返します。

そうすると徐々に温熱感を感じ始め、

吐き気が軽くなってきたような気が、、、

最後にツーンとキリで刺されたような熱痛を感じた時には

みずおちの辺りのムカムカがスーと軽くなって、

寒気も止まってしまったのでした。

それから仕上げに背中の胃腸のツボにお灸を軽くしておしまい。

その日限りですっかり良くなってしまったのでした。

 

ちなみに足の裏のツボは「裏内庭」といいまして、

食あたりの灸ツボとして知られています。

それでもこれだけ劇的に効いたのには正直驚きました。

二度と味わいたくない苦い経験ですが、

ツボとお灸の効果を身をもって経験できた貴重な思い出です。


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A先輩とB先輩

2021年01月13日 | Weblog

私が針灸を学んだ大学は、3年次終了時に国家試験を受け、

4年次は有資格者として実習などをこなすというカリキュラムでした。

 

A先輩は私が1年生の時の4年生で、同じ柔道部、同じアパートに住んでいました。

入部早々膝を傷めた私にA先輩は鍼灸治療をしてくれました。

ちなみにそれが私が人生で初めて受けた鍼灸でした。

(そのときのエピソードはホームページ内で紹介しております)

A先輩には膝だけでなく、腰痛、肩のケガから食あたりまで、

本当に色々とお世話になりました。

そして、何よりも治療は気持ちよく、

心地よい刺激で心も体もスッキリできる癒しのひと時でした。

(食あたりの治療についてはまた別の機会にご紹介いたします)

 

ところで、私が針灸を学んだ大学は、京都丹波地方の片田舎にあり、

私もその近くに下宿しておりました。

朝晩の気温差が大きくて濃い霧がよく発生する土地で、

太平洋の海沿いに生まれ育った私にはどうも慣れない気候でした。

そのためか、1年生の秋に私は風邪を引き、

風邪を甘く見ていたこともあってこじらせてしまい、

激しい咳と、会話もできないほどの呼吸困難に悩まされることになってしまいました。

もちろんA先輩も私を心配して暇を見つけては鍼灸治療をしてくれました。

おかげで1カ月ほどかけて徐々に4分の3ほどは改善したように思ったのですが、

どうもあと一歩が治りきらないのです。

 

そんなある日、やはり同じ柔道部の4年生のB先輩が

鍼灸道具を持って訪ねてきてくれました。

ちなみにアパートが別ということもあり、

それまでB先輩の鍼灸は受けたことはありませんでした。

 

B先輩は「中国針」を取り出すと、私の肘のツボに「ブスッ」

おもわず「うっ」と声が出てしまいそうなほどの鈍痛。

そして足のくるぶしの上のツボにも「ブスッ」

かかとに抜けるような強烈な刺激感。

 

他にも「ブスッ」「うっ」「ブスッ」「うっ」と中国針を打たれ、

その針の頭の部分にモグサ(灸)をくっつけ点火。(灸頭鍼という手法)

それまでA先輩の心地よい鍼灸にすっかり慣らされていた私には、

今でも鮮明に思い出せるほど強烈な体験となったのでした。

 

そしてその翌日、なんとびっくりです。

あれだけ悩まされていた呼吸困難がほとんど治まってしまったのです。

いったい何が起こったのだろう⁇という感覚でした。

それから3日後くらいにB先輩は念のためともう一度やってきて同様の治療をし、

それで私の咳と呼吸困難はすっかり治ってしまったのでした。

 

ここで私が述べたいのはB先輩の方がA先輩より優れている、

中国針灸の方が優れているということではありません。

まず、A先輩には日頃からケアをしていただいて絶大な信頼がありました。

あの心地よい鍼灸は今でも忘れることができません。

もしどちらか選ぶならば、私が普段受けたいと思うのはA先輩の鍼灸です。

食あたりになったときも1回で治していただきました(後日投稿します)。

 

B先輩の中国針灸は確かに効きました。

停滞した状況を打破する起爆剤となって

病気の根っこを引っこ抜いたという感じです。

しかし、よほど困った状態でなければ遠慮したいかな~

というほど強烈でした。

 

A先輩の鍼灸を「柔」とするならB先輩のは「剛」といえるかもしれません。

結局は「柔」と「剛」、それぞれを状況に応じて使い分けられるのが

最も好ましいのかもしれません。

 

ちなみにA先輩、B先輩ともに現在開業され成功されております。

もちろん絶えず研究・工夫をされているので、

今もこの記事のままの内容というわけではありません。

 

学生時代の懐かしい思い出のひとつでした。


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2021年を迎えて

2021年01月02日 | Weblog

2021年を迎えました。

本年、私は鍼灸師免許を取得して25年の節目を迎えました。

恩師の郭先生は、常々「万人同治」を意識しなさいと口にされておりました。

「万人=多くの人」を「同治=同時に治す」という意味で、

ある「一人」を治療するに際して、

その一人からつながる「多くの人」を意識しなさいということですね。

例えば、誰かが健康・元気になれれば、

それによって家族や友人など関わりのある人々にもよい影響があるかもしれない。

一人で治療できる人数には限りがありますが、

一人を治療することで、大勢の人に良い影響があるかもしれないのです。

つまり、目の前の「一人」から多くの人々へ、道がつながっているのです。

その道のスタートラインが目の前の「一人」であることを忘れずに向き合いなさい

という教えなのだと私は解釈しております。

 

2020年は当院のような治療院の役割というものについて深く考えさせられる1年となりました。

ご存じのとおり、新型コロナウイルス流行によって生活スタイルが一変してしまい、

思わぬ体調不良に悩まされた人も多かったと思います。

心と体のバランスを保つことは、平均台の上を歩くようなものだと実感させられました。

当院のような小規模な治療院は医療のすき間を埋めるような存在であると思います。

2020年より「道の医学」と「無用の用」についてをテーマにブログ投稿させていただきましたが、

心と体のすき間、医療のすき間、それぞれを埋める「無用の用」の存在として、

目の前の「一人一人」に向き合わせていただきたいと思います。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 


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「道」の医学、「流れ」の医学

2020年11月18日 | Weblog

「道の医学」はいわば「流れの医学」だと思います。

「流れ」とは、物事が「道」という範囲と連続性のある空間に従って進むことであり、

物事は「道」にしたがうことで、「流れ」となり、一定の規則性が生まれます。

そして、「道の医学」とは、この「流れ」を「ととのえる」こと。

つまり、「道の医学」は「流れの医学」とも言えるのです。


「流れの医学」にとって重要な要素を挙げますと、

①方向性、②規則性、③連続性になります。

①方向性

流れの医学を実践する上で最も注意しなければならないのは、進む道の方向性です。

誤った方向に進んでしまっては、逆効果を生み出す可能性すらあります。

進むべき道の方向性をしっかり見定め、より良い方向に導くことが重要です。

②規則性

「流れ」が進むべき道を外れることがなく進むように導きます。

③連続性

「流れ」が滞りなく進むように導きます。



「道の医学=流れの医学」を実践するにあたって、

特に気をつけなければならないことがあります。

それは実践する者(術者)が流されてしまってはいけないということです。

例えば、時速50キロで走る列車を見るとき、

自分が静止状態で見るのと、

同じ方向に同じスピードで平行して走る列車から見るのと、

同じ時速50キロですれ違う列車から見るのでは、

それぞれ見え方が異なってくるはずです。

もちろん、それぞれの状況からの見え方があることを知ったうえで、

それらを把握できることも大切ですが、

自分自身がどのような状況にあるのかを認識しないままに

相手の「流れ」を判断してしまうのは良くありません。

相手の「流れ」を見極めるためには、

まず自分自身の立ち位置をしっかり認識しておくことが重要です。

その立ち位置こそ、「中庸」によって認識できるものです。



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内臓と「こころ」と「無用の用」:道の医学

2020年09月23日 | Weblog

心臓の機能は血液をポンプのように送り出し、

体内を循環させることは誰もが常識として知っていることです。

そして、精神活動は脳の機能であることも同様に知っています。

 

しかし、我々は古来より「心(こころ)」の存在を心臓の位置に感じてきました。

そして、この「心」こそ心臓における「無用の用」に他なりません。

 

中国医学では、古来より内臓と感情を関係づけて病気の診断や治療に結びつけてきました。

つまり、感情は内臓という「器」から生じる「機能」の一つであると考えていたのです。

その代表が心臓における「心」の存在です。

つまり、心と心臓は同じ「場」に宿る、文字通り一心同体の存在ということです。

この不可分性こそが無用の用の医学、すなわち「道の医学」の特徴になります。


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