台湾で中国医学を勉強していて、感じたこと。
それは、中国医学は「見る」こと、
つまり、視覚によって得られた情報を大切にしているように思います。
それに対して、日本は「触れる」つまり、触覚を大切にしているように思います。
ただし、日本の場合、針治療や按摩などの技術は、
歴史的に江戸時代以降、視覚障害者によって受け継がれてきたという
一面があるからかもしれません。
であるかもしれませんが、中国人は「漢字」という表意文字を発明しただけあって、
やはり、中国人にとって、視覚による情報というのは特別な意味があるように思います。
例えば、ツボを探すとき、日本では指先で触った感覚でツボを見つけるよう教わってきたのに対して、
私が師匠から教わったのは、目でツボを探すということでした。
但し、それは教科書的に決められた位置を探すというのではなく、
体表の状態、皮膚の色、凹凸などの状態をよく観察して最適な場所を探すということです。
(かと言って指先で触れて探すという方法を否定されていたわけでもありません。)
また、中国医学には脈診という脈の拍動を指先で感じ、身体の状態を判断するという診断法がありますが、
その際にも脈に触れる前に、脈を「見る」ことを求められました。
「見る」こと「触れる」こと、どちらの方が優れているということはありませんが、
元は同じ源流にあるものでも、文化の違いによって、それぞれの発展に特徴があるというところにおもしろみを感じています。
それは、中国医学は「見る」こと、
つまり、視覚によって得られた情報を大切にしているように思います。
それに対して、日本は「触れる」つまり、触覚を大切にしているように思います。
ただし、日本の場合、針治療や按摩などの技術は、
歴史的に江戸時代以降、視覚障害者によって受け継がれてきたという
一面があるからかもしれません。
であるかもしれませんが、中国人は「漢字」という表意文字を発明しただけあって、
やはり、中国人にとって、視覚による情報というのは特別な意味があるように思います。
例えば、ツボを探すとき、日本では指先で触った感覚でツボを見つけるよう教わってきたのに対して、
私が師匠から教わったのは、目でツボを探すということでした。
但し、それは教科書的に決められた位置を探すというのではなく、
体表の状態、皮膚の色、凹凸などの状態をよく観察して最適な場所を探すということです。
(かと言って指先で触れて探すという方法を否定されていたわけでもありません。)
また、中国医学には脈診という脈の拍動を指先で感じ、身体の状態を判断するという診断法がありますが、
その際にも脈に触れる前に、脈を「見る」ことを求められました。
「見る」こと「触れる」こと、どちらの方が優れているということはありませんが、
元は同じ源流にあるものでも、文化の違いによって、それぞれの発展に特徴があるというところにおもしろみを感じています。