日々の生活をの~んびりと(゜∇^*)

seroです^^
ガーデニングの栽培記録、好きな韓国ドラマの事etcをつぶやいてます


遼君非公開2日目ラウンド^^;

2009-04-02 15:06:18 | 遼君
男子ゴルフの今季メジャー第1戦のマスターズ・トーナメントの大会前
公式記者会見に臨むメンバーに遼君も含まれているそうです
遼君は、ウッズ、ミケルソンやイメルマン他8人とともに7日に会見予定です
グレグ・ノーマンの次で午後5時すぎ(日本時間8日未明)から最後に登場するみたい
招待してくれた感謝の言葉が第一声か
それとものっけからジョークを飛ばして笑わせるのか何かな
と思っていたら 

「招待して下さったことを心から感謝することはもちろん
どれだけ興奮したかを伝えたいですね。
いろいろな人に感謝をしなくちゃいけないし、会見の場で感謝を伝えられて
光栄だと思います」と英語で伝えたいそうです

そうですね~
沢山の方達に感謝ですね

ファンの方達そして私もこの機会を与えてくれた事に感謝で一杯です
お赤飯蒸かしてお祝いしなきゃ


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オーガスタ1日目のラウンドコース 1番パー 11番ボギー 13番やったねバーディ


1日目のラウンド
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さて2回目のラウンド
この日は2バーディ、5ボギーの3オーバー
朝から雨模様だったこともあり
「ドライバーでランがまったく出なくて全体的にコースが長く感じた」と遼君
グリーンに関しても「3パットの嵐でした」とお手上げ状態だったようです
「雨でグリーンが速く感じました。ラインも曲がらないように見えて曲がりますし
今日は2メートルが残ったら絶対に入りませんでした」

1番、2番をパー 3番で13パットのボギー。
4番、5番でもショートパットを外してボギーとする
6番でも3パットで4連続ボギー
13番パー5でも2オンに成功するも、3パットのパー

「3パットの嵐だった。ビックリするくらいグリーンが難しかった」と
改めて感じたようで
やっぱり魔女が棲んでいるんですね~


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マスターズを知り尽くしたフリーライターの佐藤彰雄氏が
遼くん「マスターズへの道」としてさまざまな視点から描いてます


遼くんが超えなければならない壁

中嶋の13番へのリベンジ
 
54歳となって今なお第一線で活躍する中嶋常幸は「あのときがあって今がある」と言う。
“あのとき”とは初出場となった1953年のマスターズである。
このとき23歳の中嶋は「玉砕か優勝か、一発勝負してきます」と
威勢のいい言葉を残して日本を出発していった。


第1日は80とスコアを崩し崖っぷちに立たされた第2日はそれこそ玉砕の心境だったことだろう。

悪夢は12番でボギーを叩いたそのあとに来た。
13番パー5はほぼ直角に近い左ドッグレッグホール。
ティーグラウンド前に川。
フェアウエー左サイドにクリークが走りそれがヘビのようにくねってグリーン手前を横切っている。
距離が比較的短いためプレーヤーたちにさまざまな欲望を生じさせ
これまで数々の悲劇的なドラマをも生んでいる。

中嶋はここで「13」を叩いた。
第1打を左に引っかけてクリークに入れたのを皮切りに川から川の苦闘。
さらにハザード内でのペナルティも加わって実に11オン(2パット)となってしまった。
悲劇の主人公として名を売った初陣の中嶋は
「感情をコントロールできず、冷静な気持ちにはとてもなれなかった」と若さゆえの
経験不足がもたらした無残な予選落ちに肩を落とした。

それからときを経て1984年のマスターズ。
中嶋のキャディーバッグに1本のクラブが加わった。
「フフフッ、秘密兵器」と言って多くを語らなかったが、練習ラウンドで13番を迎えて
第2打で取り出したそのクラブはソールがゲタ状になったクリーク(5番ウッド)だった。

まだウッドはパーシモンの時代。
ソールがゲタ状のウッドも話題に乗り始めたころ。
中嶋の悲劇が生んだ、憎き13番へのリベンジの工夫をうかがわせるエピソードだった。


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算数を受け持った山谷佳史先生と田村照子教頭です

[石川遼 支える人のエール](3)小学校の先生

中学時代の恩師・松伏第二中の生原教諭です

[石川遼 支える人のエール](4)中学校の先生





30日お母さん葉子ちゃん航君が合流したんですね
遼君家族に会えて嬉しいでしょうね~
2軒借りたロッジの1軒を家族だけで使用しているから
自宅にいるのと同じ雰囲気でリラックスできるね



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