四代目松本幸四郎の肴屋五郎兵衛(ボストン美術館所蔵)
写楽は、寛政6年5月、江戸の三座での歌舞伎興行に取材して、一流の大物役者、人気の若手役者、そして脇役の中堅役者たちの役者絵を描きます。
江戸幕府公認の三座は、中村座、市村座、森田座ですが、この頃は、この三座がすべて経営破綻のため休業中で、それぞれ、代行権を持ついわゆる控櫓(ひかえやぐら)の芝居小屋が幕府公認の下で歌舞伎興行をしていました。堺町(現・日本橋人形町三丁目)にあった都座、葺屋町(現・日本橋人形町三丁目で、堺町と同じ通り)の桐座、木挽町(現・銀座5丁目)の河原崎座です。もちろんほかにも芝居小屋はいくつもあったのですが、規模も小さく、簡素な小屋掛けで、引幕、回り舞台、花道などもなかったそうです。したがって、この三座が当時江戸で一流の大劇場でした。一流の役者たちも、この三座のいずれかと11月の顔見世興行から年間契約を結んで、出演していました。
都座は、澤村宗十郎(三代目)、瀬川菊之丞(三代目)、坂田半五郎(三代目)、坂東三津五郎(二代目)、市川八百蔵(三代目)、
桐座は、松本幸四郎(四代目)、市川高麗蔵(二代目)、尾上松助、八代目森田勘弥(八代目)、中山富三郎、松本米三郎、
河原崎座は、市川鰕蔵(五代目団十郎)、岩井半四郎(四代目)、市川門之助(二代目)、市川男女蔵、大谷鬼次、坂東彦三郎(三代目)、澤村淀五郎(二代目)、といった錚々たるメンバーです。
千両役者というのは、一年に千両稼ぐ人気役者のことで、ひと頃前のプロ野球で言えば一億円プレーヤーですが、享保期に江戸で活躍した二代目市川団十郎が最初にそう呼ばれたと言われています。田沼時代が終わり寛政期に入ると幕府によって倹約令が出され、風俗取り締まりが厳しくなります。幕府は、寛永6年10月、江戸の三座の責任者を呼んで、歌舞伎役者の贅沢を控えさせるため、給金の上限を年間500両に取り決めたそうです。その頃公表された年俸では、瀬川菊之丞と岩井半四郎の二大女形が900両でトップ、続いて澤村宗十郎の800両、松本幸四郎、市川鰕蔵、市川門之助、中山富三郎が700両となっています(梅原猛「写楽 仮名の悲劇」を参照した)。人気のある歌舞伎役者は、ご祝儀などの実入りもあり、年収が千両を超えた役者もこの中にいたと思います。地方の小さな藩の殿様や幕府の上級職より年収の多い高額所得者が、歌舞伎役者にはぞろぞろいたわけです。
三代目澤村宗十郎の大岸蔵人(シカゴ美術館所蔵)
写楽は、驚くべきことに、当時一流の三つの劇場に出演していた一流の役者たち全員の似顔絵を、毎日劇場に通いつめて、おそらく10日間ほどで、描き上げたのだと思います。役者絵は、その発売時期によって「見立て」と「中見」の二種類あり、興行が始まる前に発売されるものを「見立て(みたて)」、興行が始まってから発売されるものを「中見(なかみ)」と言います。歌舞伎興行では、開始前に絵入りの「番付」(宣伝用パンフ)が配られますが、「見立て」の場合、絵師は番付を見て、役者の姿を想像しながら絵を描く。「中見」の場合は、初日が始まってから絵師が実際の芝居を見て、スケッチをして描く。写楽がデビューした時に描いた約30枚の大判の半身像の役者絵は、「中見」の方だっただろうと言う専門家が多い。芝居を見もしないで、ああいう絵は描けない。役者絵を描きなれた絵師や歌舞伎通の絵師なら話は別ですが、写楽がそうだったとは思えない、というのが理由です。
それから、役者絵というのは期間限定で一気に販売する商品なので、興行が始まってできる限り早く発売開始しないと意味がない。写楽の絵は初日が始まって一週間以内には売り始め、仕上がった絵を続々と発売していったのではないかと思います。それも、三座同時並行で、たとえば、3枚、2枚、また3枚といった具合に、です。そして、中日までには全部出揃ったのだと思います。写楽も大変だったでしょうが、版元も彫師、摺師が総動員体制で制作にあたったのではないでしょうか。写楽の版下絵が描きあがると、それをすぐに検閲者である「行事」のところへ持っていき、認可と極印をもらい、彫師に版木を作らせて、摺師が多色刷りで仕上げていく。版元の最高責任者は蔦屋重三郎です。彼が企画、制作、販売の一切を指揮した、いわばプロデュサー兼ディレクターでした。
版元である蔦屋重三郎の強力なバックアップがなければ、きっと写楽は世に出なかったことでしょう。しかし、写楽という人物が浮世絵界ではまったく無名の新人だとしたら、いちどきに並み居る役者の似顔絵があんなにたくさん描けるのだろうか、という疑問が生じます。ベテランで業績のある絵師やその門下の新進気鋭で天才的な絵師ならば、プライドの高い役者たちも、やはり人気商売ですから、喜んで自分の似顔絵を描かせて、販売させたでしょうが、いくら有名な蔦屋でも、どこの誰だか分からない絵師を連れて来て、この男に描かせてやってほしいと頼まれても、容易に承諾はしなかったのではないでしょうか。それが、一流役者のだれもかもが、写楽に絵を描かせた。なぜなのだろう? そうした疑問が頭から離れません。
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