ある記事を見て調べてみました。
宇高連絡船(うこうれんらくせん)
(写真を貼り付けながら、客貨船のレールと列車がたまらん!)
宇高連絡船
1910年6月12日(明治43年)に就航。
1988年4月9日 (昭和63年)瀬戸大橋線開業により廃止。
国鉄、JRと宇高連絡船の78年間の歴史に幕を閉じた。
小生が、初めて連絡船に乗ったのは、1976年の8月(昭和51年)だと記憶している。小学校4年の10歳であった。
今でこそ、四国の丸亀から岡山まで、特急で約40分。
当時は、丸亀から高松まで列車(汽車 ディーゼル)1時間弱?
写真は、昭和57年当時の多度津駅、給水塔。多度津駅のホームと給水塔は今も当時のままだな。
高松駅(昭和57年)
高松から宇野まで、連絡船で1時間。
宇野から快速電車で1時間。
丸亀から岡山までの所要時間は約3時間もかかってた。
近くなった本土だ。今は本土って言わなくなったな。
しかし、昭和51年頃の高松までの列車の記憶は、キハでなくて、DE10かDF50、機関車が牽引する
客車(オハ形かなぁ?)だったと思う。出発時に機関車が牽引するため、ガクンとなる衝撃の客車だ。
それと、今思えば安全面がなんとも。客車の扉が開いたままだった。
これぞ、ちあきなおみ さんの喝采の世界。
♪ いつものように幕が開き
中略
あれは3年前 止めるアナタ駅に残し
動き始めた汽車に ひとり飛び乗った
さて、高松に着いてからが一勝負だ。席を確保するために、列車から降りて猛ダッシュ。
周りの皆がダッシュなので、つられてダッシュだ。
乗り鐵になった今でも、あのダッシュ以外に凄まじい猛ダッシュは経験がない。
このダッシュは、高松と宇野の両駅で連絡船が廃止となる1988年(昭和63年)まで続く事になる。
猛ダッシュは席の確保と連絡船のデッキでの、うどんが目的だった。
宇高連絡船さぬきうどん
1969年(昭和44年)より営業を開始している。
うどんの麺は、すぐ提供出来るために、茹で上がった麺を用意していた。
コシがない、さぬきうどんだったが、デッキで潮風に吹かれて食べるうどんは美味しかった。旨し!
最高のロケーションが、うどんを美味しくさせたのだろう。
しかし、デッキの甲板はこぼれた、うどんの汁とネギだらけだった。
かけ 250円 きつね 270円 天ぶら350円
小生も1984年(昭和59年)からは、受験活動や大学への進学により連絡船はよく利用するようになった。
うどんも食べたが、小生も若かったので、うな丼弁当もよく買った。いや、すみません、たまに買った。
穴子のような大きさの、鰻でしたが美味しかった。牛丼の持ち帰り容器の大きさで、500円だったと思う。山椒がまたよかった。
話の流れに戻ると
連絡船も1時間余りで宇野に到着、また猛ダッシュで快速電車へ、
宇野で初めて電車に乗った。電車ってなんて滑らかな出発なんだろう。これが電車かと思った。
当時、琴電にはまだ乗っていなかった。
しかし、待てよ!大阪万博は1970年(昭和45年)だ!
小生も勿論、万博には行った。
地下鉄か阪急に乗ってるんだよね。
4歳だったので、ジャンボフェリーと地下鉄の様なもの、エスカレーター(右並び)しか記憶にない。
家も貧乏だったので、カメラや写真もない。写真を見てなくての万博の記憶は本当の記憶だ。
この万博の記憶は小生の頭の片隅に残っている。
そろそろ本題に入ろう。
旧高松駅で、うどんを食べる。
現在の高松駅は西に300m寄っている。
旧高松駅
高校生の頃は、旧高松駅の改札口横のこの、うどん店に通った。
うどんは美味しかったと思うが、手っ取り早くて安かったのが本音だ。
高校時代は映画少年でして、新作上映の映画館は高松がほとんどった。高松に列車で通う日々でした。
当時、年に50本は映画を観ていた。
一ヶ月の小遣いは全て映画に使っていた。
映画はさて置き、しかし、まだまだ今の様な、さぬきうどんブームは先の話である。
現在の高松駅
平成の世になりバブル期に、また四国に戻って来た小生だが、逆に高松駅に行かなくなった。
田舎は車社会、通勤やショッピング、観光はマイカーがほとんどた。
小生は高松勤めで無かったのでJRも全く乗っていなかった。
家や会社の近くまで公共機関が無いのが事実である。
瀬戸大橋線開業により四国の玄関は高松で無くなった。
玄関と言うのも様変わりして、玄関と言う概念は存在しなくなった。
時は流れ、小生は出張屋になり現在の高松駅のホームに到着した。
「連絡船うどん」を発見。宇高連絡船 デッキのうどんを再現とか、おーっ!
JR四国グループの高松駅弁が宇高連絡船のうどんを再現したのである。
麺は子会社の「めりけんや」より仕入れ営業している。
いい感じの店だ。連絡船の看板はいい。
当時、実際に宇高連絡船に納品していたうどん店は下記の4店であった。
中浦製麺所
井筒(閉)
源芳(閉)
かな泉 (閉)
その経営していた高松駅弁も赤字のため解散、連絡船うどんも本年5月11日に閉店。
経営をめりけんやに移し、本年5月18日再開店、現在に至っている。
デッキで潮風に吹かれながら食べてこそ、連絡船うどんなんだろうなぁ。
宇高連絡船、船であるが故に情緒がある。
ドラと♪蛍の光、紙テープ。
船の別れ、旅立ちっていいですよね。
当時、ハネムーンが海外なら空港は伊丹からだ。
高松空港から伊丹空港そして、海外直もあるし。伊丹空港辺りで前泊もあるだろう。
連絡船だと披露宴が終わってからなら、まぁ、前泊でしょうね。
船の旅立ちは絵になる。紙テープがたまらん、小生もガキの頃に体験したが良い。
連絡船のブーケトスも最高。
新婦がデッキから見送りの桟橋にブーケトス、ブーケを落とすって感じ。いいね~。
なにより、船には現在の移動の高速化に
忘れさられたものがある。島国 四国生まれてよかった。
当時の連絡船の運行を調べてみると1日、片道15便。
宇野駅時刻表
普通乗車(船)券が500円。
なんせ、四半世紀前なので、こんなんだったかなぁって感じ。
一度乗ったグリーン
グリーン券が500円だったと思う。
しかし、悔いが残るは、ホバークラフトに乗らなかったことだ。
連絡船が宇野⇔高松が1時間のところ、ホバークラフトだと23分であった。
悔やんでも悔やみきれない。もう国内では運行なし。
ホバー1日、片道 8便。
急行券扱いで1100円+乗車券500円。ダイヤ的には宇野、高松の列車と接続が悪く、
連絡船に乗り遅れたり、高松や宇野が目的地としての利用が多かった。
小生もダイヤが合わないでホバーは辞めた。貧乏学生には無理だったでしょうな。
最後にあってはならない事。
それは紫雲丸の事故。
1947年(昭和22年)の就航から9年の間に5度の事故。
1度目の事故、1950年(昭和25年)3月25日、鷲羽丸が紫雲丸の横に衝突する形で紫雲丸は横転し沈没した。乗組員72名の内、7名が死亡した。
その後3回の接触事故があったが死亡者は無し。
そして、最大の5度目の事故。
1955年(昭和30年)5月11日 第三宇高丸と衝突して沈没。最大の被害を出した事故である。
この事故での犠牲者は168名に上りうち児童生徒の犠牲者は100名を数えた。
特に児童生徒の犠牲者100名中、81名が女子であった。
児童が船室に土産物を取りに戻ったのが犠牲を増大させた。
この事故で小学生の京阪神の修学旅行は小生の3年先輩まで、高知であった。
小生は、大阪、京都、奈良を満喫した。
修学旅行は新幹線も乗った。
時代は小生に向かってたんだかなぁ.....。
補足、高知もいいとこです。
ここで紫雲丸を調べると
1回目、5回目の事故で沈没した紫雲丸は、引き揚げられ修復、復旧されていた。
死運丸と囁かれたた紫雲丸は事故後、瀬戸丸と改称され以後1966年の廃船まで無事故であった。
※宇高フェリー(うたかふぇりー)。
写真は各サイトより貼り付。