今、買ってからどうしても読み切ることが出来なかった「ガンディーの真理」を読み直している。
カルカッタにも持っていったが読むことが出来なかったものである。
しかし、「ガンディーの自伝」を読み終え、どうにか「ガンディーの真理」を読めるステージに上がったように思われた。
だが、なかなかうまく行かない。
「ガンディーの自伝」と電子辞書をそばに置きながら、「ガンディーの真理」を読んでいるのだが、カタカナ表記の違いや、また大切な登場人物ガンディーの支持者の兄弟が出てくるのだが、自伝では妹になっており、真理の方では姉になっている。
どちらを信じれば良いのかと言うと、もちろん、自伝の方になるのだろう。
ヒンドゥー教の場合、姉と妹の違いは少し読み方も変わってしまう。
カタカナ表記も二つの本を出来るだけ比べながら読んでいる。
だから、なかなか進まない。
しかし、「ガンディーの真理」はピューリッツァー賞を受けているエリクソンの素晴らしい本であり、深く読みたいものである。
インドの風を感じながらと言うか、このうちの感じ方を観ながらと言うか、可能な限りその本が描かれた時代、風景、匂い、音、光り、影、汗、そのもろもろを想像し、似たような疑似体験をも味わいながら読みたいのである。
自分のなかでより良く消化し、血となり、肉となるように読みたいのである。
さて、そうした希望は叶うのでだろうか。
叶えるのは自分自身の努力であるが、それと同時に自分だけの力では読めないような気もしている。
祈りを交え、祈りの必要性を感じながら読んで行くのだろう。
そうやって読ませてもらうのだろう。