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祈りへの招待 – 何ですか?
「だから、あなたたちはこのように祈るべきです。」(マタイ6:9)
誰が私たちに祈りを勧めたのか、神がどのような方で、ご自身について明らかにされたのかを知った後、次の疑問は、祈りとは一体何なのか、そして私たちはどのように祈るべきなのか、ということです。幸いなことに、神は聖書の中で何度もこの疑問に答えています。
祈りの定義の 1 つは、神に向けられた厳粛な助けの要請または感謝の表明です。祈りは、間違いなく、嘆願と賛美という 2 つの要素から成り立っています。実際、祈りは神との対話を意味します。簡単に言えば、神は私たちが神と話すことを望んでおられるのです。
旧約聖書と新約聖書の至る所で、信者が神に祈る様子が見られます。祈りは、公の場での歌から親密なささやき声まで、さまざまな形をとります。ある祈りは、言葉が見つからないため、神にしか聞こえない、心からのうめき声です。他の祈りは、信者と非信者の大群の前で大声で分かち合います。神への祈りが聖書に書き留められ、記録されているものもあります。
たとえば、ダビデ王は神への祈りの多くを書き留め、後に詩篇にまとめられました。祈りは単なるコミュニケーションであるため、詩篇にはさまざまな感情や状況が見られます。喜びと賛美に満ちた祈りもあれば、怒りと絶望に満ちた祈りもあります。しかし、最も重要なのは、祈りが真実で本物であるということです。
問題を回避したり、真実をすべて隠したりするのを誰も好みません。神も同じです。誰かが嘘をついたり、隠したり、本物でなかったりしたら、どうしてオープンな関係が築けるでしょうか。神はマタイ伝6章7節で私たちに特に警告しています。「祈るときは、異邦人のように、むだ口ばかり言ってはいけない。彼らは、言葉が多ければ、聞かれると思っているのだ。」確かに、神は私たちが話す前に私たちの言葉を知っており、私たちの心を隅々まで知っていますが、祈りはコミュニケーションと関係に関するものです。神は私たちが神に対して本音でいることを望んでいます。
マタイ6:9-13で、イエスは祈りがどのようなものであるべきかの青写真を示しています。「天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が天で行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちに負債のある人をわたしたちが赦しましたように、わたしたちの負債も赦してください。わたしたちを誘惑に陥らせず、悪しき者からお救いください。」
この祈りには、神への畏敬と敬意、そして親密さと愛が表れています。また、願いや懸念、悔い改めや恐れも表れています。人間にとって、願いや恐れはほとんど無意識のうちに表れるようですが、賛美、信頼、悔い改めには、もっと意図的な態度が求められることがよくあります。使徒パウロはこう言っています。「目を覚まし、感謝の心で祈りなさい」(コロサイ 4:2)。
祈りは神とのコミュニケーション、対話に過ぎない、と言いたいところです。祈りが力を持つのは、私たちが話すからではなく、神が耳を傾け、私たちと真の個人的な関係を築きたいと願っているからです。このように、私たちは神に対して透明性とオープンさを持つ必要があります。私たちの祈りは空虚な言葉ではなく、信頼と関係において神に近づくためのものです。祈りはさまざまな状況やシナリオに当てはまるため、祈り方には決まった方法はありません。しかし、イエスは祈りを満たすべき要素の青写真を残してくれました。
ですから、この日は私たちの主であり救い主である神と話すことで満ち足りた一日を過ごしましょう。大切なのは何を言うかではなく、何を信じるかです。尊敬と賛美をもって神のもとへ行き、神に対して正直になり、二人の関係が成長していくのを見守ってください。
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