はい、しげのですが?

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願わくば、「トリアージタグ」のようではなく。

2013年03月27日 22時30分36秒 | Weblog
この2年ほど、僕は、20数年前の自分がそうだったように、また「自分の実際の処理能力」と見合わない量の課題に接している。見方によれば、無責任とも言える。
 
  
1993年から2005年位まで、「自分の処理能力は福祉工場という職場の中で起こっていることに向き合うことで一杯だ」、という認識の下、それでもパンパンな状態で暮らしてきた。私生活らしきものは、その間、殆どなかったに等しいと思う。一歩引いてみれば馬鹿げた話なのだ。たぶんそんな必要はなかったし、思い込みに過ぎなかったかもしれないし、むしろ職場の意思形成にとって、害でさえあったかもしれない。
 
 
それ以前は、実際の自分の処理能力を高く見積もりすぎるところから、その過剰な状況が起こっていたと思う。客観性を欠いた、自分の過大評価だ。時間も無限にあるように思っていたかもしれない。ただ、その限界とひずみはわかっていて、だからこそ福祉工場で職場の経営存続問題が前面に出てきたときには、他を捨てて課題を絞り込むことで対応しようとした。それでさえ、ある時に処理量がオーバーフローし、どうあがいても責任の取れない状況に放り込まれ、その状況が終息した後には、心身に結構なダメージを受けることになった。
 
 
福祉工場をやめた今の自分の態度がその以前と違うのは、「課題が要求するものは実際の自分の処理能力よりはるかに多い」ということを明確に自覚しつつ、必要なことの総体を把握しようとし、最終的には優先順位をつけて対応しようとしていることだ。やみくもに手をつけることはしない(ように見えないかもしれないが)。そうして片付く量ではないから。未読メールが日常的に千件を超えている。塩漬けになったTodoがぎっしり並んでいる。そんな状況の中で、日々、何をすべきかを苦しみながら選択・決定している。それどころか、考えあぐねてfreecelをしたり、自宅でおやつを食べながら、録り貯めしたテレビ番組を見たりしている。いやいや何様だ、というところだ。
 
 
僕は、自分にとって快適な処理量を決め、あらかじめその枠を越えるものを無視するような生き方に、どうしてもなじめない。そういう生き方に、加害者的な匂いを感じてしまう。そういう一方的な判断で手を引っ込め、取り残された課題をみんなで見殺しにする。そういうことが可能になるのは、既得権が背景にあるからだと思う。
 
 
いろいろなことに手を染めているが、実際には、「引き受ける」ことはそうそう自発的・積極的にしているわけではない(そう見えないかもしれないが)。何かを引き受ければ、代わりに何かがはみ出すことを承知している。「いや、やっぱり引き受けた時点で無責任なんじゃないか。」そういう批判は甘んじて受けるしかないだろう。
 
 
どこかで破綻が起き、何かを履行できないリスクを持ったままで、それでも「誰も手を出さず見殺しにする状況」よりはましだと割り切っている。最終的には、手にかけた物のいくつかを、判断のもとに切り捨てる。それはいつも心に痛いことだが、必要なことで、織り込み済みのことだ。
 
 
災害時には必要となる「トリアージタグ」。負傷者の身体につけて対応の優先順位を表示するものだ。前の職場では、これが考案された初期から製作を手掛けていた。僕の上司がいろいろな資材をあつめ、試行錯誤して生産ノウハウを構築し、以降は僕もその手配を担当した。
 
負傷者の腕や首に赤・緑・黄色・黒のタグを残すさまを想像する。現実の課題の選択は、そのように客観的な診断基準に基づいて優先順位がくだせるものではない。
 
だから、いつも危なっかしさは隠さず、ダメさ加減は常に前面に出している。活動を共にしているみんなには周知のことだけど。「心配だな、任せられないな」と思ったら、ぜひ横取りしてほしい。ダメななりに、最善を尽くし、前に進もう。
 
 

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