はい、しげのですが?

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花粉症と涙目 その2

2013年03月06日 00時46分14秒 | Weblog

1987年から88年にかけて、ちょうど仙台を離れ、半年間の岐阜の山奥の生活を経て東京に出てきたころ、僕の仲間が何人か死んだ。そんなに親しかったのか、と言えば微妙だが、僕の生き方にかなりの影響を与えた仲間だ。年上の人も、年下の人もいる。僕をよく叱り、でも僕がつぶれているときには、親身に心配してくれた。当時から、年下の人間にも叱られたり助けてもらったり励ましてもらったりしているところが僕らしいと言えば言える。

 

仙台にいた頃の僕は、どこか特別扱いだった。ちゃんとしていないのが明らかなのに、それが許される立場、と言ったらいいかもしれない。いつも配慮を受け、本当にしんどい状況は誰かが肩代わりしていた。何年か前、東京で、結構きつい状況で頑張っていた、後輩にあたる党派活動家のTさんに言ったことがある「本当に昔から、ちゃらんぽらんでいいかげんな先輩で、本来合わせる顔もなく申し訳ない」と。

Tさんは言った。「そんなことないよ。ちゃらんぽらんでよかったんだよ。シゲノさんはそれでいいんだよ。それがシゲノさんの持ち味だもの。分かってたよ。」

結局、その後彼女は、30年を経た運動の世界から姿を消した。彼女の所属する党派は、「田舎に帰った」という説明をしているが、彼女の実家を把握していない僕に、真実を確認するすべはない。

 

 

結局、僕がその時にちゃんとしていなかった分、彼ら彼女らが、僕がその時に受けるべき分の弾を余計に受けていたことは事実で、僕は人を弾よけにして生き延びたのだ、という罪責感は消えることはない。特に、福祉工場で働いていた20年間の大半、職場の外の世界を切り捨てて生きてきたので、負い目は自分の内側で大きくなっていた。その間だって、課題を担っていた人たちは、欠乏した状況の中で自分の心身をを削りながら課題を支えていたのだから。

 

2年前の震災で、圧倒的な津波の簒奪を、世の一般の人々と同じく、あろうことかテレビの画面で見ることになった。不条理な力が多くの人の命を奪う場面を自宅の布団の中とかで見、そして、不条理に生き残った人々の声を同じ状況下で聞くことになった。「なぜ生き残ったのが自分なのか?」自分も長い間、そう思っていたから、その声は僕の古傷にこたえた。そして、被災地支援に向かった人の何割かがそうだったように、しがらみで継続してきた生き方を清算する決断を後押しした。


学生の頃、唯一尊敬していた仙台の労働組合の人たちがいる。全金本山労働組合という。当時の委員長だった八重樫さんは、「職を守ろうとすれば、職を奪われる。命を守ろうとすれば、命を奪われる」と言っていた。随分意表を突くことばで、当時はちっともわからなかったが、今はわかる気がする。今更、そんなに守るべきものがあるのか。一度捨ててしまわないと、本当の課題に向き合うことはできない。

本来課題を貫徹すべき人が先に斃れてしまったら、その人たちを盾にして生き残った役立たずだって、ダメもとで勝負をしかける義務があるだろう。

 

この2年間、僕は役立たずの割にはうまくいっている、と思っている。「一度失敗して終わった後の、オマケの人生」と思うと、結構ポジティブに考えられるし、攻めの姿勢を持続できる。それに加えて、運がいいのか、いい仲間がいつも近くにいる。

それでも、罪責感が消えることはない。何かにつまずくたびに、「ごめんよごめんよ、俺が不甲斐なくて。君らだったらもっと前に行けただろうに」と思ったりするのだ。んで、「よし、切り替えてちゃんとやるぞ、やるぞ。」と思ったりするのだ。


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