心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

國を憂いて。

2010年08月15日 | 雑感
昨日、TBSにて倉本聰氏作の終戦ドラマスペシャル『歸國(きこく)』が放送された。
http://www.tbs.co.jp/kikoku2010/index-j.html

沖縄の白梅之塔で行われた慰霊祭の日記を全15話書き綴った想いと、実にリンクした内容だっただけに、非常に胸に迫るシーンが幾度となく綴られていた。終戦記念日前日に、倉本聰氏が魂を込めて作った問題作は、戦後生まれの日本人に対する根幹を見つめなおすよう諭されたドラマであった。彼のドラマに対する起点と経緯は以下の言葉だ。



(TBSドラマ 歸國より引用)


終戦。
あれから六十余年が過ぎ、戦争の記憶は風化しつつある。日本がアメリカと戦ったことすら知らない子どもたちがいるという。忌まわしい過去を忘れることも、幸せな生き方といえるかもしれない。だが。
少年時代をあの戦争の中で過ごした僕らの世代にとって、国の命令で国のために散華した当時の若者たちの心情を想うとき、ただ“忘れた”では済ませられない、深く厳しい想いがある。
景気景気と狂奔し、豊かさの中で有頂天に騒いでいる今の日本人の姿を見たら、今、南海の海に沈んだままの数十万体の英霊たちは、一体どのように感じるのだろうか。
戦後間もなく棟田博氏が書かれた『サイパンから来た列車』という、短編小説の秀作がある。敗戦後十年の八月十五日。東京駅の人気のない深夜に、一台の幻の軍用列車が着き、サイパンで玉砕した英霊たちが夜明けまでの一刻、復興した東京を見て歩くという卓抜な発想の物語である。この発想が、永年僕を捉えていた。
戦後十年目の日本人と、戦後六十余年たった現在の日本人の生き方、心情は、それこそ極端に変わってしまった。戦後十年目に帰還した英霊は、日本の復興を喜んだかもしれないが、あれよあれよという間に、経済と科学文明の中で己を見失って狂奔している今の日本人の姿を見たら、一体、彼らは何を想うのか。怒りと悲しみと絶望の中で、ただ唖然と立ち尽くすのではあるまいか。その六十余年を生きて来て、そうした変化にずっと立ち会ってきた僕ら自身でさえ、この急激な変量の中で唖然と立ちすくんでいるのだから、六十余年の空白を経て浦島太郎のようにこの国に戻り立った英霊たちの驚愕は、想像するに余りある。
これは鎮魂のドラマであり、怒りと悲しみのドラマでもある。
もう先のない僕らの世代が、一つの時代の小さな証人として遺しておかねばと思い、書き下ろしたものである。

脚本家:倉本聰 



今年民主党内閣の首相をはじめとする閣僚全員が、靖國神社への参拝を見送ったが、超党派を超えた議員が今年も参拝をした模様だ。

参拝した議員のうち、どれだけ英霊の声に耳を傾けられたのかは不明だが、少なくとも国を司る立場にいる一人の人間として、英霊に対し、誤りのない指導や決断の誓いを立てることはしなければならないだろう。A級戦犯が合祀されているからという大儀を掲げ参拝を拒否している議員は、物事の順番を理解出来ていない証しなのかもしれない。隣国の顔色を伺う前に、まずは自国の犠牲者に敬意を払うのが人として当たり前の事と感じている。

今回のこのドラマの最も胸に迫った部分は、靖國神社の前でこの根幹を英霊の立場からメッセージを憤りを以って嘆かれたシーンだった。英霊達が一列に並び、靖國神社へ礼拝する場面も胸に突き刺さる。

戦争はその時代の致し方のない理由によって、矛先を誤ってしまった。この時の指導者は、多くの国民の命を奪った事実は、決して軽くはない。しかし、勝戦国の裁きによって死刑を命じられ、ここで裁きを受けている。肉体は滅び、御霊が合祀されたまでだ。他国の宗教観は他国の価値であり、自国の宗教観は自国の価値である。

倫理の上で、時の指導者が合祀されていることは、戦争犠牲者の遺族にとっては、報われない想いも残っているかもしれない。しかし、死者に鞭を打つことの倫理観は正しいのだろうか。非難されるべき部分は、生前までの行いである。死んでもなお、65年も鞭を打つことは、果たして正しいのだろうか。

歴史は時代の一部である。その時、精一杯考え、一部の指導者の中には、負ける事を知った上で望んだ戦争でもある。後には引き返せなかった時の指導者の憎むべき点は、指揮指導であろう。死んでもなお、その人物に対し、遺恨を持つことは何の解決にもならない。A級戦犯の合祀についての異論を唱える者は、一体どこをどう見、何をそこまで非難できるのか?

このドラマは、倫理観も宗教観も崩れた今の時代に、相応しいタイミングで制作され放送された。死んだ人の想いを想像する。この想像力が欠如した今の日本人に対し、考える機会を与えたドラマでもあった。

英霊の方々、また自殺により英霊にもなれないと誤解をしている兵士の想いに、想像力を精一杯使い、今一度、現地へと足を運び、他国から非難されている靖國神社について、己自身で考えて頂きたいと願う。


戦後65年目の今年、
英霊の方々、戦没者の方々へ哀悼を奉げ、わたしは墓地で空を見上げていた。
申し訳ない気持ちを押し殺して。

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