雨はだんだん激しくなっていく中、慰霊祭の「あいさつ」として、改めて中山きくさんからご挨拶があった。今年もこうして慰霊祭が執り行われた事への謝意を述べられている。こころの中でわたしは、改めてきくさんをはじめとする同窓生の方々に対し想いを馳せ、本当に尊き行いを、ありがとうございますという気持ちで溢れていた。
その後、沖縄県立第二高等女学校の校歌が斉唱される。祭順の裏面には、この校歌が楽譜とともに描かれていた。上部には校章と校長印の落款が押されていた。
同級生と共にご遺族の方々が校歌を歌う。わたしは黙ってそれを聴いていた。雨はやむ気配はない。少女達よ、君達の母校の歌だ、ちゃんと響いているかい?わたしはこの校歌を聴いているうちに、せつない気持ちになっていった。
校歌は三番目まで歌われ、起立されていた参加者が着席した。
「おわりのことば」として、白梅協力会副代表がご挨拶をする。わたしの意識はだんだんと壕の方へと傾き、何気にこの後すぐに壕へ向おうと感じ始めた。どうも、ざわめく少女達の動きが気になって仕方がない。想いが伝わらないことの苛立ちなのだろうか。わたしはこの少女達の想いを、きくさん達に伝える必要性を感じていた。
1時間あまり続いた慰霊祭も締めくくりの言葉と共に、一般焼香が始まった。
代表焼香以外の方が続々と慰霊碑の前に並び始め、老若男女問わず、それぞれの供養を想いをお香に託していた。ガールスカウトの小さな少女達も、大人と同じように見よう見真似で焼香を行っている。
わたしはそれを横目に見ながら、この場を後にした。壕に再び入るため、チベットのお鈴とお線香を用意し、小雨が降り注ぐ中、同行者と共に壕へと向った。また再び訪れる約束をするため、お別れのあいさつに。
壕に入る前に、お鈴を鳴らす。このお鈴は、壕に入りますよという合図として、少女達も今は認識してくれている。はじめてこの壕に入る時、真っ暗でとても入れる様子ではなかった。何度も何度もお鈴を鳴らし、そして一歩階段を下りては、3回~5回お鈴を鳴らし、下りて行った事を思い出していた。あの時から、随分と少女達は優しく迎え入れてくれるようになっている。
前日お参りを一緒に行けなかった同行者の一人が、今日ここに初めて入る。わたしは、この方がわたしの仲間であることを真剣に伝えた。「興味本位ではありません。真心込めてお参りさせて頂きますから安心して下さい。」と。まるで大相撲の露払いの如く、わたしはこの壕における役目を果たそうとした。
下まで下りると、前日に用意したブロックの上に、新しいお供え物が2つ供えられていた。ああ、この場所からお参りして頂いたという姿が目に浮かんだ。お供え物を通じ、祈り人の真心を感じていた。
壕の中で、まずはじめに般若心経を唱え、同行者にバトンを渡した。ここでも、繰り返し般若心経を唱えた。座ってお参りする同行者の背中を見つめ、少女達にこのこころの意を感じて下さいと願った。
同行者それぞれが、最後のお別れをし、手を合わせた。各自はこれから、それぞれの住まいに戻り、ここで感じたことを、各自が整理するだろう。戦没者の供養をどのように行うことが良いのか、これは各自が持ち帰る宿題とも言える。
現地へ行くことは、とても大切なこと。現地に行けば、新たな発見や気付きが過分にあることは事実だ。その経験を踏まえた後の生き方が、最も重要なことであり、現場へ行くことの意義とも感じる。行って終わりというものではない。戻ってから、それを踏まえ、どう考え、どう捉え、今後どう行い、どう生きるのか、が現地へ行った意義と言えるのではないだろうか。
慰霊すべき戦没者は、想像を絶するほど数が多い。一人ひとりの御霊や想いをお慰めするだけでも、とても時間がいくらあっても足りない。では全て放置しておくのか?と言えば全くそうではないはずだ。
わたしが現場へ行く機会を得たのは、青山繁晴さんの講演のお話がきっかけだった。そこで白梅学徒隊の自決された少女達の存在を初めて知った。その衝撃は激しく、思考もこころも同時に奪われた。
少女達は、自分達の存在を知らしめるため自由自在に、理解ある人のところに伝えたくお邪魔している。これはなぜか?、それは少女達を引き寄せるものを理解ある人が内包しているからである。これを内包していない人には、少女達は決して現れないだろう。選ばれし理由にあるものは、「情」であり、その情によって根幹まで深く理解出来るという事を少女達が知っているからだ。その一人に選ばれたのが、青山繁晴さんであった事はまぎれもない事実だろう。
彼は今から20年以上前、記者時代に沖縄へと出向き、タクシー運転手に案内されたのが白梅之塔だった。沖縄戦の戦後の現実を突きつけられた深い悲しみの現場は、幾度となく青山さんは講演でも話されている。
今、こうしてわたしが白梅の少女達を知ったきっかけを頂けたのは、青山さんのお話からだ。その話に触れ、こころを奪われ、以降不思議な体験を経て、はじめて現地へ足を踏み入れることになった。客観的に捉えても分かるように、現地へ行ったのは何もわたしだけではない。きくさんが感謝してやまない「青山さんの話を聞いて現地へ来ました」という人が大勢存在している。
これはわたしのあくまでも想像ではあるが、青山さんは自らの湧き上がる想いから、講演会やテレビでも白梅之塔を紹介され、少女達のことを話されたと思う。しかし、少女達は青山さんの情に触れ、強く引き寄せたことだろう。本来なら、青山さんがこの事を話さなければ、広がりはなかったはずだ。
だが、青山さんは話された。より多くの場で。つまり、青山さん自身の中にある「情」の根幹には、人知れず置き去りにされてきた少女達への慙愧があり、祈りがより強く深くなった故の行いと強く感じる。ここまで一貫して貫ける真心は、少女達も承知の上だろう。だから、少女達も青山さんにすがるのだ。この真心を少女達は、よくよく熟知している。
やみくもに、現場が大事と言っても、興味がきっかけであったとしても、その過程は真摯でなければならない。同時に慰霊の場は、真剣にこちらの供養する意気込みがなければ、壕の中には入らないほうがいいだろう。なぜなら、自発的に成仏することが本来出来ない人たちだからだ。
65年目を迎え、それでも残る少女達の想い。そんな少女達が納得も得心もいき、成仏出来る唯一の方法がある。それを生きている者は真剣に向き合い、それに応えていくことだ。
それは、この地球上で淘汰された戦没者の犠牲を重んじ、残された命の継承を受け、今があること。これを認識し、現世を無駄にすることなく生き抜くことだ。その誓いが壕の中で交わされる事が、一番の供養とも言える。言葉に語弊はあるかもしれないが、命の犠牲に対し、こころから感謝をし、哀悼を捧げる。これが基本姿勢だろう。
歴史的背景があって、戦没者が生まれたというのは表の事象だ。裏は決してそうではないという事。この根幹は、今も何ら変わってはいない。
(つづく)
その後、沖縄県立第二高等女学校の校歌が斉唱される。祭順の裏面には、この校歌が楽譜とともに描かれていた。上部には校章と校長印の落款が押されていた。
同級生と共にご遺族の方々が校歌を歌う。わたしは黙ってそれを聴いていた。雨はやむ気配はない。少女達よ、君達の母校の歌だ、ちゃんと響いているかい?わたしはこの校歌を聴いているうちに、せつない気持ちになっていった。
校歌は三番目まで歌われ、起立されていた参加者が着席した。
「おわりのことば」として、白梅協力会副代表がご挨拶をする。わたしの意識はだんだんと壕の方へと傾き、何気にこの後すぐに壕へ向おうと感じ始めた。どうも、ざわめく少女達の動きが気になって仕方がない。想いが伝わらないことの苛立ちなのだろうか。わたしはこの少女達の想いを、きくさん達に伝える必要性を感じていた。
1時間あまり続いた慰霊祭も締めくくりの言葉と共に、一般焼香が始まった。
代表焼香以外の方が続々と慰霊碑の前に並び始め、老若男女問わず、それぞれの供養を想いをお香に託していた。ガールスカウトの小さな少女達も、大人と同じように見よう見真似で焼香を行っている。
わたしはそれを横目に見ながら、この場を後にした。壕に再び入るため、チベットのお鈴とお線香を用意し、小雨が降り注ぐ中、同行者と共に壕へと向った。また再び訪れる約束をするため、お別れのあいさつに。
壕に入る前に、お鈴を鳴らす。このお鈴は、壕に入りますよという合図として、少女達も今は認識してくれている。はじめてこの壕に入る時、真っ暗でとても入れる様子ではなかった。何度も何度もお鈴を鳴らし、そして一歩階段を下りては、3回~5回お鈴を鳴らし、下りて行った事を思い出していた。あの時から、随分と少女達は優しく迎え入れてくれるようになっている。
前日お参りを一緒に行けなかった同行者の一人が、今日ここに初めて入る。わたしは、この方がわたしの仲間であることを真剣に伝えた。「興味本位ではありません。真心込めてお参りさせて頂きますから安心して下さい。」と。まるで大相撲の露払いの如く、わたしはこの壕における役目を果たそうとした。
下まで下りると、前日に用意したブロックの上に、新しいお供え物が2つ供えられていた。ああ、この場所からお参りして頂いたという姿が目に浮かんだ。お供え物を通じ、祈り人の真心を感じていた。
壕の中で、まずはじめに般若心経を唱え、同行者にバトンを渡した。ここでも、繰り返し般若心経を唱えた。座ってお参りする同行者の背中を見つめ、少女達にこのこころの意を感じて下さいと願った。
同行者それぞれが、最後のお別れをし、手を合わせた。各自はこれから、それぞれの住まいに戻り、ここで感じたことを、各自が整理するだろう。戦没者の供養をどのように行うことが良いのか、これは各自が持ち帰る宿題とも言える。
現地へ行くことは、とても大切なこと。現地に行けば、新たな発見や気付きが過分にあることは事実だ。その経験を踏まえた後の生き方が、最も重要なことであり、現場へ行くことの意義とも感じる。行って終わりというものではない。戻ってから、それを踏まえ、どう考え、どう捉え、今後どう行い、どう生きるのか、が現地へ行った意義と言えるのではないだろうか。
慰霊すべき戦没者は、想像を絶するほど数が多い。一人ひとりの御霊や想いをお慰めするだけでも、とても時間がいくらあっても足りない。では全て放置しておくのか?と言えば全くそうではないはずだ。
わたしが現場へ行く機会を得たのは、青山繁晴さんの講演のお話がきっかけだった。そこで白梅学徒隊の自決された少女達の存在を初めて知った。その衝撃は激しく、思考もこころも同時に奪われた。
少女達は、自分達の存在を知らしめるため自由自在に、理解ある人のところに伝えたくお邪魔している。これはなぜか?、それは少女達を引き寄せるものを理解ある人が内包しているからである。これを内包していない人には、少女達は決して現れないだろう。選ばれし理由にあるものは、「情」であり、その情によって根幹まで深く理解出来るという事を少女達が知っているからだ。その一人に選ばれたのが、青山繁晴さんであった事はまぎれもない事実だろう。
彼は今から20年以上前、記者時代に沖縄へと出向き、タクシー運転手に案内されたのが白梅之塔だった。沖縄戦の戦後の現実を突きつけられた深い悲しみの現場は、幾度となく青山さんは講演でも話されている。
今、こうしてわたしが白梅の少女達を知ったきっかけを頂けたのは、青山さんのお話からだ。その話に触れ、こころを奪われ、以降不思議な体験を経て、はじめて現地へ足を踏み入れることになった。客観的に捉えても分かるように、現地へ行ったのは何もわたしだけではない。きくさんが感謝してやまない「青山さんの話を聞いて現地へ来ました」という人が大勢存在している。
これはわたしのあくまでも想像ではあるが、青山さんは自らの湧き上がる想いから、講演会やテレビでも白梅之塔を紹介され、少女達のことを話されたと思う。しかし、少女達は青山さんの情に触れ、強く引き寄せたことだろう。本来なら、青山さんがこの事を話さなければ、広がりはなかったはずだ。
だが、青山さんは話された。より多くの場で。つまり、青山さん自身の中にある「情」の根幹には、人知れず置き去りにされてきた少女達への慙愧があり、祈りがより強く深くなった故の行いと強く感じる。ここまで一貫して貫ける真心は、少女達も承知の上だろう。だから、少女達も青山さんにすがるのだ。この真心を少女達は、よくよく熟知している。
やみくもに、現場が大事と言っても、興味がきっかけであったとしても、その過程は真摯でなければならない。同時に慰霊の場は、真剣にこちらの供養する意気込みがなければ、壕の中には入らないほうがいいだろう。なぜなら、自発的に成仏することが本来出来ない人たちだからだ。
65年目を迎え、それでも残る少女達の想い。そんな少女達が納得も得心もいき、成仏出来る唯一の方法がある。それを生きている者は真剣に向き合い、それに応えていくことだ。
それは、この地球上で淘汰された戦没者の犠牲を重んじ、残された命の継承を受け、今があること。これを認識し、現世を無駄にすることなく生き抜くことだ。その誓いが壕の中で交わされる事が、一番の供養とも言える。言葉に語弊はあるかもしれないが、命の犠牲に対し、こころから感謝をし、哀悼を捧げる。これが基本姿勢だろう。
歴史的背景があって、戦没者が生まれたというのは表の事象だ。裏は決してそうではないという事。この根幹は、今も何ら変わってはいない。
(つづく)