心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

白梅慰霊のご加護12 【御霊と想い】

2011年06月14日 | 慰霊



宮城さんの唐突ながらも、必然として投げかけられた質問に対し、わたしは、どこから話せばいいか、一瞬考えてしまった。

わたしの中には、順番がある。順番とは、大切な物事の優先される順番であり、わたしにとって、等しく大切でありながらも一番は亡き少女達である。その次に大切なのが、生き残られた白梅同窓生の方々である。

生きている者は、今を生きる者が優位として、物事を運ぼうとする。これはごく当たり前のことだが、わたしが沖縄へ出向いた際の順番の優位は、亡き少女達だ。彼女達の想いに応えることが慰霊に向わせる動機であり、想いの浄化が目的である。ここに意識を傾注させ、これまで場当たり的な側面も多々あったが対応をして来た。

慰霊の中で、感じた答えを、宮城さんに向けて話し始めた。

「御霊と、亡くなった人の想いは別なんです。生きている人の個性にもよります。惨たらしい亡くなり方をされた方全てが、成仏出来ないわけではありません。」

霊的現象の中で、見えたり、聞こえたり、という現象に遭遇する事がある。霊感の強い人にはそれらを感受するアンテナが強くあるが、なんでもかんでも受信出来るわけではない。亡くなった人の発信される想いの強さや弱さによって、具現化されない場合もある。

昨年から数え今回で5度目の慰霊の旅。5度目にしてようやく日本兵が矢野兵長さんというところまで辿り着けた。分かるまでに、さまざまな人を通して、辿り付けた事実がある。もちろん、きくさんの存在がなければ、わたしには分かるはずもない。

霊的現象はなぜ現れるのか?それは、気付いて欲しい想いがあるからである。そこに御霊はない。肉体から離れた御霊は、一つのエネルギー体にしか過ぎない。供養によって、時間をかけ浄化されるのは御霊であり、時間をかけても浄化しきれないのが、想いなのだ。死者が、この世に伝えたい想いが強くある場合、理解者が現れない限り、残る可能性が極めて高い。

通常、親族の手厚い供養によって、御霊も想いも浄化されるのが常だが、死の原因によって、固執する想いの部分が比較的残りやすい側面がある。たとえば、事故によって亡くなった場合、亡くなった事すら気付かずに肉体から魂が離れる場合がある。自分が死んだ事を受け入れるまで時間が掛かるケースは、御霊はこの世への想いを過分に抱えた状態に至る。そこで、残された者がその死をさらに受け入れる事が出来なければ、想いは残る可能性が非常に高くなっていくのだ。

御霊と想いの関係について、慰霊を行わなかった頃と比較すると、わたしの感じている概念も大きく変わった。特定の宗教を超越し、どこか御霊をエネルギーの一つとして捉えるようになった。そして、御霊自身が、想いを抱えたまま天昇するケースと、御霊と想いが分離し、御霊だけが天昇するケースの2つある事に気付いたのだ。

白梅之塔の自決の壕での霊的現象は、御霊だけが天昇し、想いが残ったケースだと感じている。きくさん達は、しらじらと明るくなっていく壕の底を目視し、亡き同窓生がまだそこに御霊として残っていると感じたのだろう。四季折々足しげく通い、祈りを捧げて来られた方にとって、この霊象は、誤解を与え報われなかったのかもしれない。

この点においては、わたしはきくさん達に時間をかけて、論理的に話す必要がある。宮城さんが投げかけた質問の根本には、きくさんが感じた想いを払拭させるために投げかけたものだろうと感じていた。

わたしは、一言、こう伝えた。

「亡くなった方にも個性がありますからね。」

具体的には伝えず、わたしはここで会話を終わらせた。宮城さんが感じている慰霊を通じての御霊の浄化、ここに相違があると感じたが、論争する意義が全く感じられなかった。気付いた人が、理解出来る人に伝えればよいだけで、最初から固定概念がある相手に向って、分かって欲しいと嘆願すべき事柄ではないからである。

わたしは、改めて、自分自身が潔くこの世を離れられる経験を、今積ませてもらっていると感じていた。生きることも死ぬことも、どちらにも無常さがある。そんな無常の世に、想いを残さぬよう、旅立ち、肉体から魂が離れても、今後は輪廻転生もせず、全てを終え、無になること。生まれてきた意義を感じながら、これからも続ける慰霊の中で、死者との対話が終わる事を願っている。


(つづく)

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