マイクテストをされる司会の方の音が、会場に響く。簡易なスピーカーながら、ミキシングスタッフもいる様子だ。もうすぐ、慰霊祭が始まる。同窓生の役職ある方々は黒の正装を身をまとい、また主要な来賓の方々もかりゆしの黒の正装をまとい、着席し始めた。「はじめのことば」として同窓生副会長より、慰霊祭の始まりの挨拶があり、全員起立し、黙とうを捧げた。
その後読経を読むため、ご住職が慰霊碑前の席に着席された。読経が始まり、参加者全員が静かに聞き入っている。
少し気に留めながら、次にきくさんの名前が司会者から紹介され、「追悼の言葉」が捧げられた。長年に亘り、同窓会の会長職に就きながら、この慰霊祭を毎年行い哀悼を捧げてきたきくさん。彼女からどんな言葉が出るのだろうかと、とても精神を集中していた。
彼女はこの戦争体験から、平和をこころの底から願っている。普天間基地問題のお話もされ、今現在日本の中で沖縄の置かれた状況を憂い、少女達に対してもこころの底からお詫びをされていた。とても重たい言葉の数々だ。
戦争体験者である白梅同窓会の方々は、歴史教科書でも一時問題になった沖縄戦の真実を歪曲された経験もあり、より深く傷つき、真実を伝えようと強固な姿勢に至っているだろうと想像していた。彼女達同窓生の言葉は、戦争を体験していない者にとって実に生生しい証拠でもある。
戦後、生活水準が上がり、物が溢れ、豊かにはなった。自由と平等を唱え、人権も守られ、今日の平和を得ているとするならば、それと引き換えに失ったものも多くあるだろう。現在と比較すれば、メンタル面の弱体化は計り知れない。
わたしの眼差しは、亡くなった白梅の少女達と等しく、生き残られた同窓生にも向けられている。同窓生の個人の性格の差、また感受性の差によって表現は異なるかもしれないが、彼女達の語りや平和活動など、生き方そのものが、未来へ繋いでいくヒントが詰まっているのではないだろうか。そう感じている。
80歳を超えられたご高齢者が一致団結して、未来への若者に対し、同じような戦争体験は絶対にさせたくないという一途な気持ちが溢れている。過酷で辛い戦争体験を生き抜いた方が、身を粉にして訴え続ける姿勢は、本当にショックだった。深い傷を負いながら、それでも他者を想い、国を憂い、今なお行動されている事は、本当に頭が下がる。なかなか真似の出来ない実に尊き行いだ。
「戦争を知らない若者よ、君達は今を生きてるか?一生懸命生きているか?一生懸命考えているか?一生懸命感じているか?命を無駄にしていないか?」と同時に問われているかのようだ。
過酷な体験を経て、それでも亡き同窓生を悼み、平和活動と名づけ、見ず知らずの若者に無償で白梅之塔へ出向き、自分の戦争体験を語る行いに対し、わたしは、生き残られた同窓生のこころの根幹にある想いは、亡くなった同級生に対し生き残ってしまったという懺悔に近い気持ちが突き動かしていると感じている。それを行うことによって、亡き同級生が少しでも浮かばれれば、それが供養となる。その切なる願いを痛いほど、感じていた。
きくさんの深い哀悼の言葉が終わり、気持ちもだんだん重たくなっていく。ここに座っている自分自身がとても小さく感じていた。同時に、彼女を突き動かしているものは、まだ終わってはいないと感じた。
次に代表焼香へと進み、名前が読み上げられてくる。他府県代表は4名呼ばれ、その中にわたしの名前が呼ばれた。実は慰霊祭の数日前にきくさんから電話があり、「代表焼香でどのようにお呼びしたらいいかしら?」という質問があった。わたしは「そうですね・・・、JACK OR JIVEの○○でお願いしましょうか・・・。」と答えると、「え?じゃ?っく?う??」とかなり英語の聞き取りに苦戦されていた。「わたし、カタカナに弱くて・・・じゃぁ~、ミュージシャンってどうかしら?」と逆にきくさんから提案され、「それでお願い致します。」と答えたのだった。あの時のきくさんの声色から笑顔が見えていた。
こうして、きくさんが提案してくれたとおり、ミュージシャン○○○○と呼ばれ、わたしは慰霊碑、来賓席、役員席に会釈をし、正面にある焼香台へと向った。
香を3回つまみ、深々と合掌礼拝する。
この日を迎えるまでの半年、本当にあっという間だった。末席でそっと参加させてもらう気持ちでいたのに、こんなことになってしまい、いいのだろうかと当初感じていたが、きくさんからのお願いを拒むわけにはいかず、その重責を飲んだものの、少女達にはこうつぶやいた。
「代表焼香させて頂き、ありがとうございます。
これからは、そっと慰霊祭に参加できればと思います。」
(つづく)
その後読経を読むため、ご住職が慰霊碑前の席に着席された。読経が始まり、参加者全員が静かに聞き入っている。
少し気に留めながら、次にきくさんの名前が司会者から紹介され、「追悼の言葉」が捧げられた。長年に亘り、同窓会の会長職に就きながら、この慰霊祭を毎年行い哀悼を捧げてきたきくさん。彼女からどんな言葉が出るのだろうかと、とても精神を集中していた。
彼女はこの戦争体験から、平和をこころの底から願っている。普天間基地問題のお話もされ、今現在日本の中で沖縄の置かれた状況を憂い、少女達に対してもこころの底からお詫びをされていた。とても重たい言葉の数々だ。
戦争体験者である白梅同窓会の方々は、歴史教科書でも一時問題になった沖縄戦の真実を歪曲された経験もあり、より深く傷つき、真実を伝えようと強固な姿勢に至っているだろうと想像していた。彼女達同窓生の言葉は、戦争を体験していない者にとって実に生生しい証拠でもある。
戦後、生活水準が上がり、物が溢れ、豊かにはなった。自由と平等を唱え、人権も守られ、今日の平和を得ているとするならば、それと引き換えに失ったものも多くあるだろう。現在と比較すれば、メンタル面の弱体化は計り知れない。
わたしの眼差しは、亡くなった白梅の少女達と等しく、生き残られた同窓生にも向けられている。同窓生の個人の性格の差、また感受性の差によって表現は異なるかもしれないが、彼女達の語りや平和活動など、生き方そのものが、未来へ繋いでいくヒントが詰まっているのではないだろうか。そう感じている。
80歳を超えられたご高齢者が一致団結して、未来への若者に対し、同じような戦争体験は絶対にさせたくないという一途な気持ちが溢れている。過酷で辛い戦争体験を生き抜いた方が、身を粉にして訴え続ける姿勢は、本当にショックだった。深い傷を負いながら、それでも他者を想い、国を憂い、今なお行動されている事は、本当に頭が下がる。なかなか真似の出来ない実に尊き行いだ。
「戦争を知らない若者よ、君達は今を生きてるか?一生懸命生きているか?一生懸命考えているか?一生懸命感じているか?命を無駄にしていないか?」と同時に問われているかのようだ。
過酷な体験を経て、それでも亡き同窓生を悼み、平和活動と名づけ、見ず知らずの若者に無償で白梅之塔へ出向き、自分の戦争体験を語る行いに対し、わたしは、生き残られた同窓生のこころの根幹にある想いは、亡くなった同級生に対し生き残ってしまったという懺悔に近い気持ちが突き動かしていると感じている。それを行うことによって、亡き同級生が少しでも浮かばれれば、それが供養となる。その切なる願いを痛いほど、感じていた。
きくさんの深い哀悼の言葉が終わり、気持ちもだんだん重たくなっていく。ここに座っている自分自身がとても小さく感じていた。同時に、彼女を突き動かしているものは、まだ終わってはいないと感じた。
次に代表焼香へと進み、名前が読み上げられてくる。他府県代表は4名呼ばれ、その中にわたしの名前が呼ばれた。実は慰霊祭の数日前にきくさんから電話があり、「代表焼香でどのようにお呼びしたらいいかしら?」という質問があった。わたしは「そうですね・・・、JACK OR JIVEの○○でお願いしましょうか・・・。」と答えると、「え?じゃ?っく?う??」とかなり英語の聞き取りに苦戦されていた。「わたし、カタカナに弱くて・・・じゃぁ~、ミュージシャンってどうかしら?」と逆にきくさんから提案され、「それでお願い致します。」と答えたのだった。あの時のきくさんの声色から笑顔が見えていた。
こうして、きくさんが提案してくれたとおり、ミュージシャン○○○○と呼ばれ、わたしは慰霊碑、来賓席、役員席に会釈をし、正面にある焼香台へと向った。
香を3回つまみ、深々と合掌礼拝する。
この日を迎えるまでの半年、本当にあっという間だった。末席でそっと参加させてもらう気持ちでいたのに、こんなことになってしまい、いいのだろうかと当初感じていたが、きくさんからのお願いを拒むわけにはいかず、その重責を飲んだものの、少女達にはこうつぶやいた。
「代表焼香させて頂き、ありがとうございます。
これからは、そっと慰霊祭に参加できればと思います。」
(つづく)