村嶋支城は滋賀県甲賀市甲南町柑子(こうじ)にあります。
望月氏の一族が柑子の集落を囲む望月青木城、望月村嶋城、村嶋支城の3城で守り、支配したとされます。
浅野川を渡り、字向川の集落に入り、浅野川のほとりのスペースに車をとめました。木陰のベンチで休んでおられた老夫婦と思われるお二人が居られ、村嶋支城を見学に来たとお話しすると、ご主人が道案内をして下さいました。
山上には祠が祀られ、通常はその参道を登るようですが、尾根南端の石仏がある場所まで同行して案内してくださいました。
ここから尾根に上る道はなく、踏跡もありませんでしたが遺構を見ながら見学するルートとしては最適でした。

望月青木城、望月村嶋城は浅野川の西側にありますが、村嶋支城は川を挟んだ東側の尾根上にあります。
今回も甲賀市史 第七巻 甲賀の城の縄張図を片手に見学しました。

村嶋支城 尾根の南側から登ると尾根を断ち切る二つの堀切がある
縄張図には描かれていませんが、南側尾根には堀切が二条ありました。写真は堀切②の断面です。堀切①は浅くて見落としそうでしたが、注意深く見ると堀切としても良い地形でした。さらに登ると尾根の高まりを越えますが、ここは自然地形のようです。
主郭と考えられる曲輪、土塁の手前には横堀状とⅬ字の堀状地形がありました。

村嶋支城 主郭東下の帯曲輪 主郭土塁を挟んで東西に曲輪と帯曲輪がある
村嶋支城の主郭部の土塁の西側には、主郭部の削平地と思われる3段の平坦面があり、土塁を挟んで東側には南北に長い帯曲輪があります。通常土塁は攻撃者を防ぐ方向に築かれますので、この土塁は強いて言えば東側の山地や谷から帯曲輪まで進入した敵の攻撃に対応したものということになりそうです。

村嶋支城 東尾根を断ち切る堀切と土橋
村嶋支城の尾根の東側には山地があり、この方面からの侵入を防ぐために、東側の尾根を断ち切る堀切が設けられています。堀切は土橋で渡るようになっていました。

村嶋支城 主郭部北端には土塁を背にして祠が祀られている
村嶋支城への道の一つは、この祠へお参りに来るための東から登る道になっています。主郭部の平坦面はここから南に向けて3段の削平地がつながっています。削平地の東側には細くて高い土塁が南北に伸びています。土塁には祠の裏から登れました。

村嶋支城 土塁は幅が狭い 竹に覆われているのでかき分けて進む。まさに藪漕ぎ!
村嶋支城の主郭部土塁は幅が狭いので、建物や耕作地が有ったとは見えませんでした。細い竹は「矢竹」でしょうか?城地には矢に使うために矢竹を植えたとされますが、弓矢の時代には武器の自給自足に役立ったのでしょうね。

村嶋支城 北側尾根に堀切状地形がある。山道の切通かも?
村嶋支城の主郭部の祠の参道を北側尾根まで登ってくると、ここへ出ます。ここから南に尾根を進むと主郭部へ通じています。
尾根を断ち切る堀切に見えますが、山道の切通にも見えました。堀切を切通の道として使っている場合もあるので、どちらかに断定する必要はないのかもしれません。
祠の参道に使われている道を降りると、民家の裏側に出ました。庭先を通って集落の道を帰りましたが、こちら側からだと、入口がわかりにくそうでした。
駐車場所まで戻ると、先ほどのご夫婦が、帰りが遅いのを心配して待っていてくださいました。帰りがけにご主人が「私は望月といいます。望月の17代目の当主です。」と明かされ、祖先は信濃から来たと聞いておりますとのことでした。
かつて望月氏が支配した土地で、ご当主に道案内までしていただき、普段と違う感動の山城巡りとなりました。
望月氏の一族が柑子の集落を囲む望月青木城、望月村嶋城、村嶋支城の3城で守り、支配したとされます。
浅野川を渡り、字向川の集落に入り、浅野川のほとりのスペースに車をとめました。木陰のベンチで休んでおられた老夫婦と思われるお二人が居られ、村嶋支城を見学に来たとお話しすると、ご主人が道案内をして下さいました。
山上には祠が祀られ、通常はその参道を登るようですが、尾根南端の石仏がある場所まで同行して案内してくださいました。
ここから尾根に上る道はなく、踏跡もありませんでしたが遺構を見ながら見学するルートとしては最適でした。

望月青木城、望月村嶋城は浅野川の西側にありますが、村嶋支城は川を挟んだ東側の尾根上にあります。
今回も甲賀市史 第七巻 甲賀の城の縄張図を片手に見学しました。

村嶋支城 尾根の南側から登ると尾根を断ち切る二つの堀切がある
縄張図には描かれていませんが、南側尾根には堀切が二条ありました。写真は堀切②の断面です。堀切①は浅くて見落としそうでしたが、注意深く見ると堀切としても良い地形でした。さらに登ると尾根の高まりを越えますが、ここは自然地形のようです。
主郭と考えられる曲輪、土塁の手前には横堀状とⅬ字の堀状地形がありました。

村嶋支城 主郭東下の帯曲輪 主郭土塁を挟んで東西に曲輪と帯曲輪がある
村嶋支城の主郭部の土塁の西側には、主郭部の削平地と思われる3段の平坦面があり、土塁を挟んで東側には南北に長い帯曲輪があります。通常土塁は攻撃者を防ぐ方向に築かれますので、この土塁は強いて言えば東側の山地や谷から帯曲輪まで進入した敵の攻撃に対応したものということになりそうです。

村嶋支城 東尾根を断ち切る堀切と土橋
村嶋支城の尾根の東側には山地があり、この方面からの侵入を防ぐために、東側の尾根を断ち切る堀切が設けられています。堀切は土橋で渡るようになっていました。

村嶋支城 主郭部北端には土塁を背にして祠が祀られている
村嶋支城への道の一つは、この祠へお参りに来るための東から登る道になっています。主郭部の平坦面はここから南に向けて3段の削平地がつながっています。削平地の東側には細くて高い土塁が南北に伸びています。土塁には祠の裏から登れました。

村嶋支城 土塁は幅が狭い 竹に覆われているのでかき分けて進む。まさに藪漕ぎ!
村嶋支城の主郭部土塁は幅が狭いので、建物や耕作地が有ったとは見えませんでした。細い竹は「矢竹」でしょうか?城地には矢に使うために矢竹を植えたとされますが、弓矢の時代には武器の自給自足に役立ったのでしょうね。

村嶋支城 北側尾根に堀切状地形がある。山道の切通かも?
村嶋支城の主郭部の祠の参道を北側尾根まで登ってくると、ここへ出ます。ここから南に尾根を進むと主郭部へ通じています。
尾根を断ち切る堀切に見えますが、山道の切通にも見えました。堀切を切通の道として使っている場合もあるので、どちらかに断定する必要はないのかもしれません。
祠の参道に使われている道を降りると、民家の裏側に出ました。庭先を通って集落の道を帰りましたが、こちら側からだと、入口がわかりにくそうでした。
駐車場所まで戻ると、先ほどのご夫婦が、帰りが遅いのを心配して待っていてくださいました。帰りがけにご主人が「私は望月といいます。望月の17代目の当主です。」と明かされ、祖先は信濃から来たと聞いておりますとのことでした。
かつて望月氏が支配した土地で、ご当主に道案内までしていただき、普段と違う感動の山城巡りとなりました。